美しさを理解するために知性は役に立つか

美しいとはどういうことか

なにかを美しいと思った経験がこれまで何回あっただろう。

冬の田舎道をひとり自転車で走り見上げた夜空、夏目漱石の ”こころ” 、クリムトの絵画、あるいは北川景子の横顔。

クリムト「接吻」

いずれも、その美しさを言語化するのが難しい。
美しいものを見たときになぜそれを美しいと感じたのか、美しいと感じる要素はなにであるか、ということを突き詰めて考えてみたことがある。

美しさとはわかりやすいことである
美しさとは足し引きを嫌う
美しさとは体験の中にのみ存在する

以上が、自分の考える美しさの定義だ。
とは言え、素人の意見ひとつだけでは独断と偏見が過ぎるので、プロフェッショナルの意見も参考にする。

美を見て死んだ男の審美眼

スペインを拠点に活動していた画家の堀越千秋は著書「美を見て死ね」のなかで、美しさについて以下のように言及している。

美しさは正しさである。
だが正義ではない。
正義の名のもとに人は悪事を働く。
国もそうだ。
しかし美の正しさは神に属する。
人には、利用されない。

堀越千秋「美を見て死ね」

「人には 、 利用されない。」
この読点に堀越の思想が滲み出ているようで最高にイカしていると思う。
そういう意味ではタイトルもいい具合にいかれていて最高だ。
他人のエゴが滲み出る瞬間とはどうしてこうも愛おしいのだろう。

美を見て死ね

「美を見て死ね」には、堀越が推奨する美術品の写真とそれぞれの作品についてのコメントが述べられている。
読み進めてくうちに、堀越の審美眼の一端を自分のものにできたように錯覚する、ある種のドーピングのような効果があるエッセイだ。

美しさについて言及するとき、我々の多くは「真の美しさは抽象的なもののなかにのみ存在する」という哲学的偏見を持っていることに気付く。

堀越は、美を神と結びつけることで美の抽象度をひとの手が届かぬところまであげてしまった。
*読点の位置から読み解くに、堀越は美とひとの関係が実際にどうであったにしろ、切り離して考えていたのだろう……。

イギリスの美術評論家ジョン・ラスキンもまた、知性を介さずに歓びを与えてくれるものをなんであれ美しいと定義している。

ジョン・ラスキン

知性を介さないということはつまり、美は直感的に理解されるものであり、複雑性を持たない抽象的な世界に存在している。

上述した3者(他2名に比べて自分は圧倒的に美に対する知識が浅いが……)の意見をまとめると、美について各々のスタンスはあれど、抽象的なものとして語られていることがわかる。

誰もが、美について語ろうとすると抽象的になってしまう。
そして、このことがわれわれに美しさは抽象的なもののなかにしか存在しないという偏見を持たせる。

この哲学的偏見に異議を唱えるのが本日紹介するロバート・P・クリースの「世界でもっとも美しい10の科学実験」だ。

知性の領分に存在する美

世界でもっとも美しい10の科学実験

科学実験が美しいとはどういうことだろう。

少なくとも小・中・高で勉強した理科の実験のなかで美しいと感じたことは一度もない。
というよりも実験という作業を美しいと感じることができるのは、その領域で当たり前のように呼吸をしてきたいわゆる専門家のような人間だけの特権なのではないか。

タイトルを見た時点でこのように考えてしまったのであれば、あなたは美に対する哲学的偏見に支配されている。

われわれがなにかを美しいと感じるとき、その美しさは直感的に把握されるべきであり、知性は不要だという暗黙の了解がはびこっている。

この暗黙の了解に対し、科学実験は客観と知性の領分からうまれるために、 ”美しい” と表現するには違和感を覚えるかもしれない。

ところがクリースは、科学実験という客観的、且つ、知性的な作業にも美はあると異論を唱える。

哲学的偏見の先にある美の特徴

クリースの主張を理解するために、われわれの中にしつこく根付いている哲学的偏見(美は抽象的なものの中にのみ存在す)を取り払わなくてはいけない。

仮に美の構成要素を理解したとしても、その構成要素から新しい美を創造するのは難しい。
*ピカソの使った道具や、彼の技術、思想を理解していたとしてもオリジナルの美を簡単に創作できるわけではない。

このために、われわれは美を抽象的なものと捉えがちだ。

しかし美についての考察をひとつ先に進めると、ある特徴に気付く。
美は人の内面に特殊な充足感を引き起こす

言い換えると、美しいものは「私が求めていたのはこれだ!」という喜ばしい気づきをもたらす

どれだけ審美眼を鍛えたところで、新しく出会う美がどのようなものであるかは推測できない。

しかし、今まで出会わなかった美を前にしたとき、ひとは自分の求めていた美がどのようなものだったかを知る。

そして、科学実験にもまたこのような特徴が確かにある。

クリースは本書を通して、 ”もしも実験に美があるのなら、それは美にとってなにを意味するか?” という問いに答えを出す。

問いかけの答えは、より古い伝統を持つ美の意味をよみがえらせるのに役立つ。

われわれは哲的偏見に囚われてしまっているため、古い美の意味も忘れている。

古代ギリシャ人は美と芸術作品に特別な結びつきを認めず、模範的なものとの関係において美を捉えた。
*法則、制度、魂、行為など

その結果として彼らは真と美と善に密接に絡み合い、深い根元で結びついていると考えた。

そして、ワインの歴史背景を理解したものだけが、高価なワインの味に感動できるように真と善と結びついた美を味わうために、ひとは知覚を行使しなくてはその意味に気が付けない。

本書では、クリースが独自に選んだ10の科学実験がとりあげられているが、科学実験そのものについてはウィキペディアを参照にしても得られる知識だ。

この本の真の価値は、ひとつひとつの実験の説明後にはいるクリースのコラムに発揮される

実験内容の説明によって科学への理解を深め、コラムで美に対する偏見を丁寧に剥がされる。
この繰り返しによる知覚の行使が心地よい。

知識が増えるということは、真に自分が求める美に対して敏感になるということでもある。

では、また。

Googleマップを騙した幻の島

積極的に意見交換するゴリラになりたい。

2005年にGoogleマップが登場した。
ご存知だとは思うが、Googleマップは目的地までの最短距離や手段別の経路、目的地までかかる時間など、地図上のありとあらゆる情報を詳細に提供してくれる。
初めての土地でも端末にこの地図さえダウンロードされていれば道に迷う心配もない。

ところで、地図が現実世界を正しく描写したのは西暦何年頃だろう?

コロンブスがアメリカ大陸を発見したのが1492年。
1582年に没した織田信長にルイス・フロイスが地球儀を献上していることを考えると、16世紀には大方の島は発見されていた。

また、1821年に伊能忠敬が日本地図を完成させたことから、19世紀には現実世界の細部まで地図は描写していたのではないか、などと漠然と推測できる。

ところが、1876年に捕鯨船がニューカレドニア島から400㎞離れたところに新しい島を発見している。

19世紀後半になっても世界はまだ発見され尽くしていなかったのだ!

新たに発見された島はサンディ島と命名され、Googleマップにもその姿が確認された。
しかし、真に驚くべき事態が2012年に発覚する。

なんと、オーストラリアの海洋調査チームの報告により、地図上に記されたサンディ島が存在しないことが判明したのだ。

Googleマップの誕生が2005年。
サンディ島が地図上から消されたのが2012年。
なぜGoogleマップに7年間も存在しない島が載っていたのだろうか?

古い地図のもつ価値

エドワード・ブルック=ヒッチングの著書 ”The Phantom Atlas” は、かつて実在したと信じられている島や川、大陸などが描かれた古い地図がまとめられている。

上述したサンディ島もそのうちのひとつだ。

どうしてひとは存在しない島が存在していると信じてしまったのだろう。
しかも、100年以上もの長い間。

この理由こそがまさに ”The Phantom Atlas” の邦題にある。

つまり、地図に描かれていたからである。

かつて人類は、現実には存在しないが地図上に存在する島を探して多くの時間を費やした。
まさに世界をまどわせた地図だ。

正確な描写ではない過去の地図に何の意味があるのか?
確かに、間違った地図には地図としての価値はないかもしれない
しかし視点を変えれば別の価値に気付けるに違いない。

間違った地図に描かれているのは、その当時にひとびとが見たかった幻想だ。

オーストラリア内陸部の水源

下図は1830年に発行されたオーストラリアの地図だ。
なにかおかしなところはないだろうか?

世界をまどわせた地図より

ぱっと見ただけでは大きな違和感を抱かないかもしれない。
では続けて、実際のオーストラリアの地図を見てほしい。

現代のオーストラリア地図

……
*正確には内海

1830年の地図では、オーストラリアの内陸に大きな水源が広がっているのに対し、現代の地図には水源はない。
当然、現実世界のオーストラリア内陸部にも大きな水源などない。

笑ってしまうぐらい豪快に間違っている地図だ。

しかし、水源こそなかったものの1830年の地図と現代の地図を比較しても国の輪郭はほとんど変わらないことに注視してほしい。

ふたつの地図の重ね合わせ

どうしてこれほど精度の高い地図に、ありもしない水源が描かれてしまったのだろう?

オーストラリアがヨーロッパ人(ジェームズ・クック 英)に発見されたのは1770年のことである。

当初、オーストラリアは囚人の島流し先となっていた。
後にイギリスは植民地政策拡大のため、未踏だった内陸部の探索に踏み出した。

当時のイギリス人は、オーストラリアのような大きな島をひとつの大陸のようなものだと考えていた。
そして、他の大陸と同じであれば、内陸部から流れる川は山につながっており、そこから別の川へつながっていることを彼らは経験から知っていた。

広大なオーストラリアの中心には緑豊かな楽園が広がっているという希望的観測に基づいて描かれたために、ありもしない水源がオーストラリア内陸部に堂々と登場したのだ。

現実と幻想が混在する面白さ

この他に、平面状の地球図も紹介されている。なんと発行されたのは1893年だ。

信長が地球儀を受け取ったのが16世紀であることを考えれば、信じられないくらい時代錯誤の地図であると言わざるを得ない。

幻想の大陸として最も名高いアトランティスは我々を長年魅了してやまない。
(プラトンがアトランティスについて記述したのが紀元前360年……!)

もちろん、アトランティスが描かれた世界地図も存在するし、当然この本に掲載されている。

まさに見たいものが描かれた地図たちだ。

それぞれの地図を見ればわかるのだが、地図に描かれたすべてが荒唐無稽な空想の産物というわけではなく、細部はむしろ現実世界を忠実に描写しているものが多い。

つまり、現実世界のなかにひとびとが見ようとした幻想がリアルな形を持って描かれている。

”世界をまどわせた地図” は、現実と幻想が混在するロマンあふれる世界の特集なのだ。

とはいえ、そのロマンに2012年まで騙されていたことを思い出していただきたい。
現実と幻想が混在していることを前提として見れば面白いが、それを知らなかった人々にはたまったものではない。

なにしろ ”現実に存在しないもの” を求めて長い航路に旅出ているのだ。
求めているお宝は見つかるわけがなく、実際に本書にはあるはずのないものを探し求めた悲劇がいくつも書かれている。

しかし、いくつもの悲劇を乗り越えて、現代のGoogleマップが完成した。
アニメワンピースの主題歌にもあったフレーズだ。

埃かぶってた宝の地図も確かめたのなら伝説じゃない。

きただにひろし「ウィーアー!」

間違いが発覚することもまた前進である。

では、また。

上手にひとに頼れない

目次
1. ひとに頼む技術
2. 何故ひとはひとにものを頼むのを嫌がるのか
3. ”あなたに借りがある” と思うと返したくなる
4. 返報性の認識が異なることによって起こる悲劇

独白するだけのゴリラになりたい。

どうして我々はひとにものを頼むことがこんなに苦手なのだろう。

それは、5つの社会的脅威(ステータス、確実性、自律性、関連性、公平性)を同時に体験する可能性があるからだ。

ひとに頼む技術

「読む本の種類変わったね」

昼食時に、自分のカバンから顔をのぞかせた派手な黄色の本を見つけた妻からの言葉だ。

「最近はより現実に即した本を読むこと多いね」

自分がカバンに潜ませていたのはハイディ・グラント著 ”人に頼む技術” という本だ。
”現実に即した本” と評されるのも納得の本である。

”バーティミアス (3) プトレマイオスの門” に比肩する黄色さ

確かに、自分は日常生活ですぐ役に立つ、いわゆるハウツー本を好んで読むタイプではない。
しかし、年末に職場で起きた不可解なトラブルを理解するのに役立ちそうなのでアマゾンでポチってみた。

職場における不可解なトラブルというのは、事務職の同僚に彼女たちが担当する仕事を頼んだところ、
「もっと ”お願いします” と ”ありがとう” を言って欲しい」
と主張されたことである。

まったくもって意味がわからなかった。

労働の対価として賃金を得ているのに、何故 ”お願いします” ”ありがとう” という言葉を要求するのだろう?

そもそも業務範囲内の仕事をしっかりこなせないのにどうして対価を要求してくるのか、その図太さに苛立ちすら覚えた。普通に険悪なムードになった。

しかし、ただの言葉で業務が円滑に進むならば仕方ないと、翌日から彼女たちの要望通りにしてみた。

ちなみに翌日からというのは嘘である。
自分を無理やり納得させるのに5営業日かかった。苦痛だった

そんなこともあり、自分はひとにものを頼むのが死ぬほどヘタクソだと気付き、この本 を購入した次第である。

何故ひとはひとにものを頼むのを嫌がるのか

ひとにものを頼むのがヘタクソ、あるいは苦手なひとは多い。
なぜだろう。

ミルグラム実験、別名アイヒマン実験で有名なスタンレー・ミルグラムは学生に依頼し、混雑した地下鉄内で無作為に選んだ乗客に席を譲ってもらうように話しかける ”地下鉄実験” を行った。

他人の命令に従っている時、ひとはどれほど残酷なことができるのかに触れた名著

実験の結果、68%の乗客が席を譲ってくれた。
一方で、被験者の学生たちは乗客に話しかけることに強いストレスを感じることがわかった。

ストレスによるパフォーマンスの低下を感じたことがあるひとは珍しくない。
おそらくあなたも身に覚えがあるだろう。

このようなネガティブな反応(痛みの反応とそれに伴う作業記憶や集中力の低下など)をもたらす社会的脅威を、デイビッド・ロックは5つのカテゴリーに分類した。

  1. ステータスへの脅威
  2. 確実性への脅威
  3. 自律性への脅威
  4. 関連性への脅威
  5. 公平性への脅威

冒頭にも書いたように、他人に何かを頼む時、我々はこの5つの社会的脅威を同時に体験する可能性がある。

人は他者に何かを頼むとき、無意識にそのことで自分のステータスが下がると感じやすくなります。
―中略―
相手がこちらのリクエストにどう応えてくれるかがわからないので、確実性の感覚も下がります。
また、相手の反応を受け入れなくてはならないので、自律性の感覚も低下します。
相手に「ノー」と言われたとき、個人的に拒絶されたように感じることがあるため、関連性への脅威も生じます。
そして、もちろん、「ノー」と言われたときに、相手との関係に特別な公平性を感じることはめったにありません。

ハイディ・グラント「人に頼む技術」

上述の理由から、ひとは他人にものを頼むことに強いストレスを感じるのだ。
多くのひとが他人にものを頼むのを嫌がる理由がよくわかる。

「人に頼む技術」では、この前提からスタートし、頼まれる側の心理にも踏み込んだうえで、どのように頼めばwin-winの関係を築けるのかに言及している。

非常に読みやすい上に日常生活の経験知に結び付きやすい事例を多く扱っている説得力のある本だ。
巻末に参考文献の記載がないことはやや不満だが買って損はない。

”あなたに借りがある” と思うと返したくなる

相手に借りがある場合、ひとは借りを返すために頼みごとを受け付けやすくなる。
直感的にも納得してもらえるだろう。

与えられたものと同等のものを返したくなる心理は、心理学用語で ”返報性” と呼ばれる。

本日のメインテーマはこの返報性に集約されている。
すなわち、賃金という対価を受け取っているのに、「ありがとう」や「お願いします」という言葉を求める同僚と自分の報酬に対する認識の違いだ。

Frank Flyennによると、返報性は、
① 個人的返報性
② 関係的返報性
③ 集団的返報性

の3種類に分類されている

個人的返報性は取り決めによる交換である。

バイトのシフトを代わってもらったから、次は自分が代わってあげた、というような返報だ。
取り決めた以上のことはしないし、相手に対する特別な感謝もない
義理や貸しの感覚は、自分の番を担当し終えると消える。
いわゆる、ビジネスの関係を指す。

関係的返報性は親密な関係にある相手とのあいだだけに生じる。

何をするかについての取り決めはなく、漠然と自分が困った時にも助けてもらえるはずという前提で相手を助ける。
感謝と義理の両方が生じるが、それはその相手とのあいだに限られる

集団的返報性は内集団での一般的かけあいだ。

すぐに見返りが得られることを前提にせずひとを助けようとする。
必ずしも相手から見返りがあることを期待しない。
誰かを助けることは巡り巡って自分に返ってくるという暗黙的な考えに基づいている。

返報性の関係についての認識のずれがあるとコミュニケーションに齟齬が生じやすい。

コミュニケーションの齟齬により険悪な雰囲気になったことはあなたにもあるのでは?

返報性の認識が異なることによって起こる悲劇

3種類の返報性について知ることで、自分と同僚の間に起きたトラブルの根本が理解できた。

自分は、担当者が担当する業務を処理することは当然の義務であると考えている。当然それは自分にも当てはまるし、すべての社員に当てはまる。

そして、担当の業務を行うことは、集団返報性に基づいて会社全体に還元される。
わかりやすく言えば売り上げだ。

一方で彼女は、が ”彼女の担当する仕事” を ”担当者である彼女” に回したことに対しての返報を会社全体のかけあいではなく、決められた業務をパスし合うだけのもの(個人的返報性)だと認識した。

彼女からすれば、労働を強いられたのに返報がないという認識になる。
このために、彼女は仕事を頼んできた私に感謝と依頼の言葉を対価として要求したのだ。

ひも解いてみればなんてことのないコミュニケーションの齟齬を理解するために2ヵ月以上かけてしまった。

なんとなく馬が合わなかったり、苦手意識のある相手があなたにもいるのであれば、返報性の話は新しい視点を与えてくれる可能性がある。

たいていの人間関係のトラブルは言葉足らずから起きる。
知識は、言葉の不足による不透明さに色を与えてくれる。

あなたの知っている色を、自分にも教えてもらえると嬉しい。

では、また。

教育に潜む悪意

独白するだけのゴリラになりたい。あと、人に頼って生きたい。

「お節介なもので悪意を持たないものはいない」

イギリスの哲学者でありながら弁護士を本職としたフランシス・ベーコンの言葉だ。

「知識は力なり」で知られるフランシス・ベーコン(1561-1626)

あなたの周りにもひとの世話をやくのが好きなひとはいないだろうか。

なにを隠そう自分もお節介な部類の人間である。だから、フランシス・ベーコンの言葉には強く共感した。

我々のようなお節介が率先して他人の世話をやくのは、”好意”からであっても”善意”からではない

関心のない人間に対してお節介をやく人間はいない。ナイチン・ゲールが言ったように、愛の反対は無関心だ。つまり愛≒好意であり、好意がある対象にしか我々はお節介をやかない。

好意があるのであれば、善意ではないのかと思われるかもしれないが、この認識は危険な間違いだ。お節介な人間当人ですら自分は善意から世話をやいていると思い込んでいる。

大きな間違いだ。結論から言えば、お節介な人間はやはり悪意の持ち主である。そして、ここで言う悪意の正体は”支配欲”である。

支配欲ゆえの干渉

他人に対してお節介するとき、”こうなって欲しい”という恣意的な欲望が働いている。言い換えれば、自分の望んだとおりに物事が動いてほしいと願っている。こんなものが善意であってたまるか。

自発的なお節介はすべてが相手に対して、自分が望んだ結果に近づいてほしいという支配欲からの行動だ。

考えるまでもないことだが、相手に影響を与える(支配する)ためには相手に干渉する必要がある。

お節介は明らかに干渉だ。相手のことを好ましく思うからこそ、より好ましい存在でいてほしい。

より好ましい存在にするために、お節介を媒介にして他人を支配しようとしているのだ。

そして、厄介なことにお節介は一見すると善意に基づいた行動に見えてしまう。このため、お節介をする側の人間も自分の持つ醜い支配欲に気が付きにくい

最たる例は教育者である。

経験も知識も劣る相手(子ども)に対し、自分が助けてあげなくてはという見せかけの善意のために相手を望んだ方向へ支配しようとする。

自覚しなくてはいけない。どうあがいても教育とは価値観の押し付けであることを。

教育に潜む支配欲

ひとは人生のどこかのフェーズで教育する立場になる可能性が高い。

常に新しいことに挑戦し、所属する場所をコロコロと変えるチャレンジャーを除いて、我々は後輩や新人にその場所のルールを教える機会に遭遇しやすいからだ。

この時、相手の行動が場の規範に沿うように支配しなくてはいけない。

その場における経験が豊富なあなたは慣れない環境で居心地悪そうにしている新人にいくつかのアドバイスを与える。相手はあなたに感謝し、あなたも相手の役に立てたことに喜びを感じるだろう。

誰もが幸せになった経験を通して、あなたはより教育熱心になるかもしれないし、そんなあなたを上司は新人教育担当にするかもしれない。

あなたは新人教育にやりがいと喜びを感じ、ますます仕事に精を出す。そして多くの場合、喜びは己のなかにある支配欲を覆い隠す。

誤解を避けるために明言するが、お節介や教育を悪く言っているわけではない。お節介も教育も両者にwin-winの関係をもたらす可能性を多分に秘めた行為である。

しかし、教育したがり、お節介したがりの自分のようなひとは自身が少なからず持つ”悪意”を強く自覚しなければいけない!

教育を受ける立場ではなく、教育をする立場を自ら選んだ人間の多くが自分は善良な人間だと信じている。

自分こそが教育者に足る存在であると。少なくとも悪意から教育を行っているとは夢にも思っていない。

”善い行い”をしていると思っている人間は反省をしない。

自分が何故教育をする立場にこだわったのか、今一度見つめなおしてほしい。そして、その教育は相手のニーズを間違いなく満たすものであるかと自問してほしい。

支配できない相手に腹を立てたことがあるのであれば、危険な兆候だ。

一方で、自らのうちにある支配欲と向き合い、付き合い方を再考する良い機会である。

この記事をきっかけに、あなたの教育にかける熱意は、相手からうまれたものではなく、自分からうまれたものだと思い出してくれると嬉しい。

では、また。

嫌われる覚悟の先の話

独白するだけのゴリラになりたい。

歯を食いしばって幸せを手に入れるってしんどくない?

先日、ある企業の説明会で「幸せを手に入れるためには高い山を登らなければいけない! その手段のひとつが我が社で働くことだ」と言われた。

面白い言い分である。

”幸せになるために努力する”

一見してこの文章に違和感はない。では、次のように言い換えてみよう。

”幸せになるために苦労する”

バラバラにするために石を積むような生産性の無さを感じる……賽の河原か。

苦労の総量が幸せの総量より多い場合、幸せになるための苦労の価値って何だろうか。

もし苦労の先に望んでいた幸せがなかったとしたら、幸せになれなかったという観点から見ると、不幸であるということになるのだろうか?

一般的に報酬を得るためには対価を支払う必要がある。

では、幸せになるためには何を支払うのが正しいのか。

何を捨てればよいのか。

幸せになるためには、幸せになりたいという気持ちを捨てるところからスタートしないといけないのではないか……?

幸せを目標にするのは遠回り

幸せという概念についての自分の定義は、”当人がなんとなくポジティブな状態”である。

”なんとなく”というのが重要だ。

つまり、幸せという概念には具体性がない。

何をもって幸せとするかはひとそれぞれであるが、ひとが幸せを感じる時は具体があることが多い。

恋人と一緒にいる時が幸せ、美味しいものを食べている時が幸せ、スポーツをしている時が幸せ、といった具合だ。

だから、幸せになるために○○しましょう、というのは実に無責任な助言だと思う。

幸せを追求する時、ひとは世間一般で幸せとされるものを追いかけているだけである。

具体のない幸せを追い求めるのは、幸せになる遠回りだ。

まずは幸せになることを諦めて、何をしている時に自分が幸せなのかを思い返すべきである。

ところが、ここで厄介なことがある。

そもそも何故人が具体の無い幸せを追い求めるかというと、具体の無い幸せは現実的に存在するからだ。

小学校の休み時間、親の運転する車の中でしたうたた寝、友達との中身のない談笑。

なんの不安もなく、ただ幸せを提供してくれる場というものがある。

しかし、場が与える幸せは環境要因によるものであり、個人のちからで確保するのは難しい。

難しいだけで不可能ではないだろうが、場の確保に固執してしまえば、”場を確保している間が幸せ”という具体のある幸せになってしまう。

具体のない幸せを追い求めるのであれば、やはりその幸せを一度具体化させるのが近道となる。

ひとは幸せになるために行動している

すべての行動は当人の幸せに直結している。

これが自分の幸せに対するスタンスだ。

長期的、もしくは客観的に見れば愚かな選択をする人間はいる。

しかし短期的、主観的に見ればすべての人間はその瞬間自分に最もメリットのある行動を選択する

パートナーと口論になった際に、これ以上言い合っても生産性がないどころか関係を悪化させるという場面に心当たりはあるだろうか?

このような状況でもなお、相手を批難する言葉を発する人間が何故、口を閉じることができないのか。

その瞬間において、黙っているよりも言いたいことを言ったほうがすっきりするからだ。本人にとって得だからだ。

同じ状況で言葉を飲み込むひとは、今関係を悪化させるよりは黙って仲直りした方が、言いたいことを言ってすっきりするよりも得だから黙るのだ。

ひとの行動がすべて幸せに直結しているのだから、何が自分にとって幸せなのか理解することは難しくない。

休日は恥ずかしながら家でだらだら寝て過ごすだけです、と言うひとがいればそのひとにとっては家で寝て過ごすことが幸せなのだ。

存分に幸せを堪能すればよい。

我々には等しく幸せになる権利がある。

害をもたらす幸せ

「幸せになりたいです!」という人間と出会えば、おそらく我々の多くはどうぞ幸せになってくださいと、彼ないし彼女の提案を受け入れるだろう。

では、彼ないし彼女にとっての幸せが例えば次のようなものだったら?

・小動物の命を奪うことが幸せ

・児童を性的に虐待している時が幸せ

・自分の作ったフェイクニュースで世間が混乱するのを見るのが幸せ

・放火で燃え上がる炎の美しさを感じるのが幸せ

思う存分幸せになりなさい、とあなたは躊躇なく言えるだろうか?

幸せになりたい人間の邪魔をする権利はないが、自分の幸せを侵害するものを拒絶する権利はある。

では逆の立場に立って考えてほしい。

例えばあなたが社内で昇進するのが幸せだと思い、幸せを獲得するために奮起する。

あなたの行動は批難されるものではないし、向上心の高さは素晴らしい。

ところが、あなたが目指している席に現在座っている立場の人間から見ると、幸せになろうとしているだけのあなたは彼を脅かす恐ろしいものとなる。

「こいつはどうして活き活きしながら自分に害をもたらそうとしているのだ!迫害せねば!」

このような考えに行きつくのはそれほど突飛なことではなく、むしろ至極当然の成り行きだと言える。

我々は幸せになる権利があるし、常に幸せになるために行動している。

個人にとって、当然個人の幸せは重要なものだ。

しかし、自分が幸せを獲得した時に、害を受ける人間がどこにいて、彼らがどのように報復してくるのかまでに想像を及ばせることも重要ではないだろうか?

幸せになる覚悟

自分の幸せを押し通すために、自分の人生を幸せにするために他人の幸せをどこまで侵害していいものか。

何度でも言うが、我々には幸せになる権利がある。

そして、幸せになろうとする人間の多くが見落としているのは、自分の幸せの先で不幸になるかもしれない人間の存在だ。

知ったこっちゃない。十把一絡げにもならない他人から嫌われるだけで自分が幸せになれるなら喜んで嫌われてやるね!

そんな風に思っているひとももしかしたらいるかもしれない。

ちなみに自分は他人から嫌われることが1㎜も苦にならないタイプの人間だった。

非常に危険な考え方なので、もし似たような考え方のひとがいれば絶対にこの先も読んで欲しい。

嫌われる覚悟を決めた人間は、自分の人間関係から相手を切り離してものを考える傾向にある。

つまり、自分が幸せを押し通すことで被害を受ける相手の感情の動きに一切の関心を示さないようになる。

中居正広も言っていたが、0%か100%ではなく、1%か99%の間でものを考えるという視点がここでは完全に抜けていることがわかるだろうか。

相手に嫌われても自分の幸せを押し通す。それはいい。

しかしその結果さらに大きな障害が立ち塞がるかもしれないことを考えれば、必要以上に嫌われるのは避けるべきだ。

どこまで嫌われてもいいのか、このメモリを決める。

メモリの上限を越えそうであれば、一旦自分の幸せを押し通す方法を変えたほうがよい。

そしてもうひとつ重要なのは、相手に嫌われる覚悟を決めた上で、嫌われないための根回しをすること。

ちなみにメモリも根回しも、自分からうまれた考え方ではない。

先日渋谷の本屋であったトークイベントの中で博報堂から独立したクリエイター三浦崇宏の言葉だ。

全然知らないひとだったし、暇つぶし程度でイベントに行ったが非常にためになった。

著書、”言語化力”も買った。まだ読んでいないが売れ行き好調らしい。

下北沢のB&Bや、渋谷の青山ブックセンターでは高頻度でトークイベントが行われているので、暇なひとは行ってみれば面白い発見があるかもしれない。

では、また。

錬金術師と呼ばれる料理人

独白するだけのゴリラになりたい。

食の喜びは、心で感じる。口ではない。

食事を印象付け、人々に高い代金を支払わせるのはどのような要素か。

1世紀ごろに存在したされるローマの食通アピシウスは「最初の味は目で感じる」という格言を残した。

そして、彼の主張は科学的に見てもおそらく正しい。

我々の脳の半分以上の領域は視覚に関連する。一方で、味覚と直接関係するのは大脳皮質のみで、しかも大脳皮質の1%ほどしかない。

脳は身の回りの環境から統計的な規則性を導き出すため、我々は目の前の皿に対して味覚とは別の感覚を用いて潜在的な味や栄養価を予想している。

下記に一例を提示する。

予約待ちが半年以上と言われる三ツ星レストラン”The Fat Duck”で、シェフは蟹のリゾットにあわせて蟹風味のアイスクリームを食事客に提供した。

このレストランではどのメニューもラボと呼ばれる研究キッチンで試食され、時間のかかる厳格なプロセスを通し、最終的にシェフが納得したら、選ばれた常連客に食べさせて反応を見る。

これらのハードルを越えた料理のみが、メニューに載る。

果たして、蟹風味のアイスクリームを提供された食事客の反応は、シェフの予想していた反応と異なり、思わしくなかった。

通常、我々が淡い赤色のアイスクリームを見た時、どのような味を予想するだろうか。

きっとあなたは目の前のアイスクリームをイチゴ味の甘いアイスクリームだと予想したはずだ。

ところがいざアイスクリームを食べてみると、それは塩のきいた味だった。

あなたは予想を裏切られたショックで、不快感を覚えたかもしれない。

のちに、この蟹風味のアイスクリームは食べる人の期待を”甘い”から変えることに成功し、食事客から思わしい反応を得ることが出来た。

何をしたのか。

単純に”塩味のアイスクリーム”、あるいは”フード386”などというミステリアスな名前を付けたのだ。

その名前を聞いた客は、聞かなかった客よりも明らかにデザートを楽しみ、アイスクリームを塩辛すぎるとは感じなかった

高級レストランの価値は何か

上記の例は、チャールズ・スペンス著 ”「おいしさ」の錯覚” に載っているので、興味があれば一読していただきたい。

著者のチャールズ・スペンスは、2008年にイグ・ノーベル賞を受賞している。

研究内容が非常に面白い。

バリバリという咀嚼音をヘッドフォンで聞かせながら、しけったポテトチップスを食べさせたら、ひとはどう感じるのかという研究である。

結論として、咀嚼音を聞かせながらしけったポテトチップスを食べたひとは新鮮なポテトチップスを食べているように錯覚する。

実にバカバカしく、イグ・ノーベル賞向きの研究である。

この他、最近ではアメリカのスタートアップ企業との合同研究で、肌に張り付けるだけで肉を食べたいという衝動を抑制する”肉パッチ”を開発するなど、ユーモアにあふれた研究をしている人物だ。

愉快な研究者なので、これ以上彼について書いていると本題からそれてしまう。彼の話はこの辺にしておこう。

高級レストランの価値はどこにあるのだろうか。

ディナーでひとり2万円近くする高級レストランによく行くというひとは間違いなく多数派ではないだろう。

珍しい素材や、丁寧な調理によって完成する皿は魅力的だが、空腹を満たすことが食事の主な目的であれば2万円という金額はコストパフォーマンスが悪い。

しかし、このコストパフォーマンスの悪さはあくまでも空腹を満たすために支払う対価としてのものだ。

レストランが提供するのは食べ物だけではない。体験も提供する。

”E・T”や”ジュラシックパーク”など超有名映画をこれまでいくつも作ってきたスティーブン・スピルバーグが実はレストランを手掛けたことがあることをご存知だろうか?

彼がロサンゼルスにプロデュースしたレストラン”ダイブ”は潜水艦をテーマにしたレストランだ。

店の片側にあるたくさんのモニターから、海中の映像が点滅しながら流れる。

時折、すべての照明が消えて赤いライトだけが点灯し、スピーカから「潜水!潜水!」と警告音が響く。

あきらかにやりすぎだが、ダイブはまさに”体験”を提供するレストランであるということを理解してほしい。

この他にも、モルティブにあるガラス張りの海中レストランや、ベルリンの暗闇レストラン、興味深いものでは相席で互いに食事を食べさせあう料理アートなどもある。

体験には価値があり、高級レストランは食材とシェフの技術だけでなく、レストラン空間をも包括した、ひとつの体験として食事客に提供されるのだ

物語のあるレストラン

そうは言っても、実際にコストパフォーマンスが合わない高級レストランも当然ある。

多分に漏れず、味が記憶に残らないレストランだ。

なんだかおいしいものを食べた、見た目は非常に美しかった、聞いたことのない食材を使っていた、…具体的なこと何も覚えてないな…

初めて高級レストランに行った自分の感想である。

もう一度行ってみたが同じ感想を抱いた。

ちなみに、高級レストラン高級レストランと繰り返すと嫌味っぽいが、自分の場合は会社の接待に卑しくついていっているだけなので、普段から高級レストランに行くわけではない。

ひとの金で高いものが食べたい。それだけである。

ぼんやりとしか記憶に残らないレストランも少なくないが、先日妻のおごりで行ったレストランは素晴らしかった。非常に楽しかった。

白金高輪にある”Les Alchimistes”という名のレストランだ。日本語で”錬金術師たち”を意味する。

食べログから引用した写真
一目でわかる高級感…
http://alchimiste.jp/japanese.html

白を基調とした店内はすでに5組の食事客で埋まっていたが、ガヤガヤとした賑わいではなくゆったりとした心地よい緊張感があった。

上述したように、レストランは体験を提供している場でもある。

何かを体験する時、フラットな心持よりは知らないことを新しく知る楽しみとほんの少しの恐れがあるくらいがバランスが良いと思う。

席には、すでに皿が用意されており、見慣れないガラスの容器が中央に置かれていた。

「なんだろうね、これ?」

「花でも飾るのかな?」

と、ふたりで首を傾げていたが、その直後にレストランの名前の意味を思い出してはっとした。

ガラスの容器はフラスコだ。錬金術で使用するフラスコがモチーフとなっている、そういえば看板にもフラスコを模したデザインが施されていた。

面白いな、とフラスコを眺めていると、ウエイターが白い錠剤のようなものをグラスにいれた。

今度は何だ?と妻と一緒に錠剤を見つめる。食べ物のようには見えない。

次に、水の入った試験管を持ったウエイターが現れた。

試験管の水がコポコポと小さな音をたてて錠剤の上に注がれていく。錠剤はへび花火のようにみるみると大きくなっていった。

「おしぼりです」

驚く自分たちの反応を楽しみながらウエイターが一言で錠剤の正体を明かす。

ここでもまた錬金術を彷彿とさせる演出。

ウエイターは続けて、自分たちにテーブルの上のコースメニューに目を向けるように促す。

お決まりの本日のコースの説明かと思いきや、コースメニューには料理名が載っていないことに気付いた。

料理名ではなく、食材の名前だけが載っている

「これらの食材がどのように料理されるか想像しながら楽しんでください」

……良い!

レストランのコンセプトがしっかりしていてある種のテーマパークのようだ。

白を基調とした店内にあわせ、食器のほとんどが白であることもおそらく意図がある。

錬金された料理が主役であり、その他の要素に食事客の注意を奪われたくないのだろう。

キッチンを振り返ると、シェフたちはスタイリッシュな黒いエプロンをかけて静かに錬金術に勤しんでいる。

黒いエプロンには白くAlchimiste”の刺繍。末尾にsがない。

レストラン名である複数形の錬金術師たちではなく、単数形の錬金術師

エプロンはレストランの名前を背負うため制服ではなく、ひとりひとりが錬金術師=料理人であるという意思表明であり誇りの表れでもある。

細部に宿る物語性が、レストラン空間におけるコンセプトの純度を高めているのだと頭で考えなくともわかる。

高級レストランの提供する体験というのが、わかりやすく理解できるレストランのひとつとして、是非一度訪れてほしい。

味についてははどうなの?と思われるかもしれないが、ここで味を語るのは、錬金術師たちの秘密を明かすことになるのであえて口を噤む。

それなりのお値段のするレストランであるのは間違いないが、何度か飲み会を断れば捻出できる金額だと思う。

土日のランチコースであれば7500円からなので、飲み会を二回断るか、欲しい服やスニーカーを買うのを我慢すれば手の届く価格帯である。

話のネタだと思って、高級レストランで得る体験を一度買ってみてほしい。

では、また。

繋がりを強化することと迫害について

独白するだけのゴリラになりたい。あと演劇を見に行きたい。

本題に入る前に確認したいのだが、アウシュビッツのホロコーストについて、学校で勉強する機会ってありましたか?

恥ずかしながら、自分は高校の授業をさぼりまくっていたタイプの人間なので、世間一般でどのくらいアウシュビッツの悲劇が認知されているのかわからない。

この件について勉強する機会をくれたのはそれこそアウシュビッツ収容所を実際に見た時だった。

各地から集められたユダヤ人が、収容直前に髪を刈られるのだが、その髪がいまでも保管されている。

数メートルあるガラスケースの中を埋め尽くす夥しい量の毛髪を見た時、思考が白く染め上げられた気がした。

虐殺の歴史を振り返ると、アウシュビッツ以上の悲劇がないこともない。

しかし、人を機械的に殺すことを目的とした施設だったという点でアウシュビッツの異質さに勝る例は虐殺史でも類を見ない。

大量虐殺を淡々と、まるで事務作業のようだったからこそ、アイヒマンのような邪悪ではない人間にも務まる仕事だったのだろう。

ちなみに、普通の感性を持った人間の多くが、ホロコーストの初期に職務を断っている。このことはクリストファー・ブラウニング著の「普通の人びと」に記されている。

読み進めるのが非常にしんどいので、内容に興味があればまずは自分に聞いてもらえばと思う。

確かな情報かは不明だが、当時の秘密警察の中にユダヤ人が存在したらしい。

このユダヤ人の秘密警察は収容されたユダヤ人に対して最も残虐だったとか…。

これが事実だとすると、秘密警察である彼は残虐性を発揮することで被害者との同一性(この場合はルーツの同一性)を否定せざるを得ない立場だったのだろう。

繋がりを切る方法

秘密警察の例は色々な見方ができる。

自分は、この例に他者との繋がりを切ることの大変さを見た。

他人と縁を切るのには時間がかかる。

20代も半ばを過ぎれば、もう数年会っていない友人知人の名前をすぐに思い出せなくなる。

これはおそらく最も一般的な繋がりが弱くなった事例だ。

中には激しい口論の末に連絡を一切とらなくなった元友人という存在もいるかもしれないが、かつての口論を思い出すことで怒りを覚えるとしたら、皮肉なことにその怒りこそが相手との縁をとりもつ楔になっている。

一度つながった縁は、結局死ぬまで会うことがなかったという時間制限によって切れるか、お互いの存在を忘却した結果が縁が切れることがあっても、個人の意思のちからで暴力的に縁を切るというのは出来ないのではないかと思う。

そしてこのことこそが、秘密警察のユダヤ人を残虐にさせた理由である。

殊更に悪かったのは、彼と被害者であるユダヤ人の繋がりは、個人的な友好関係といった類のものではなく、ユダヤ人であるナショナリズム・概念の繋がりだったことだ。

一対一の関係の縁は忘却か死によって切れるが、一対全体では圧倒的に一が不利だ。

これ以上続けるとどんどん脱線しそうなので話を戻そう。

人の繋がりは兎角丈夫で、個人的なちからで弱めるのは難しいことを論じた。

では、逆に強めるにはどうしたらいいだろうか?

強い繋がりの危うさ

基本的に我々は共有するものが多いほど繋がりを強く感じる。

最も単純に繋がりを強くするのは共に過ごすことだ。これは時間の共有を意味する。

別の方法としては秘密の共有も非常に有効な手段だ。

秘密の共有の中でも、これまで聞いた話で一番興味深かった例は長野のとある集落の話だ。

その集落では、決まった日に観覧版が回る。

ただしこの観覧版には何の情報も記載されていないし、版でもない。

火の入った鳥籠だ。

この話を聞いた時、背中の毛穴が一気に開いたのをおぼえている。

鳥籠の中の火…想像するだけである種の神秘性を感じてしまう…

鳥籠は、決まった日に集落に住む家庭に回される。

これは儀式だな、と直感でわかった。

踊りや祭典と同じ性質のものだ。つまり、場の共有で、ルールの共有で、部外者にはわからない秘密の共有だ。

着目すべきは、部外者にはわからないということである。

これは内部の結束を強める反面で、外部を疎外する機能も併せ持つ。

例えばこの集落に移住してきた家族がいたとしよう。

集落に新しい入居者がきてからはじめての鳥籠を回す日がきた。

さて、鳥籠は新参者の一家にも回るだろうか?

強い繋がりは複雑な絡み合いで構成されているため、入るにも抜けるにも文字通り一筋縄でいかない。

うまいこと言えたので、これ以上余計なことは語るまい。

では、また。

性行為は怖いことか

独白するだけのゴリラになりたい。あと転職したい。

今更ながら映画「娼年」を観た。

性行為における深淵を垣間見たような気がしたので、セックスについて真剣に考えてみた。

セックスは暴力的なまでに自己開示を迫る行為だと思っている。セックスにおける「愛」の要不要は置いて話を進める。

物理的に衣服を纏っていないという自己開示だけでなく、裸体を見せても良いと心を開くところまで含めての話だ。

世間がどう思ているかは知らないが、セックスはあまりポジティブに語られることがない。

性行為が子どもに秘匿されているために開けっ広げに語ることが出来ない風潮も関与しているかもしれないが、個人的にはセックスが恐ろしい行為だからだと思う。

ところが、何故恐ろしいと思うのかを深堀して考えたことがなかったので、ヒントになりそうな本を適当に買ってみた。

上述したように、セックスの恐ろしさは自己開示の強制力だと考えている。

だから、なるべくこの自己開示の強制力の恐ろしさについて書いてありそうなタイトルの本を探した。

それが、デンマークで牧師をしながら心理療法士やセラピストとして多方面で活動をしているイルセ・サン著の「心がつながるのが怖い」という本だ。

心がつながるのが怖い

結論から言うと、この本はセックスについての考察を深めるのに有効ではなかった。

しかし、自分に新しい考え方を与えたくれたので、本日はタイトル詐欺になるが、この本の内容について記していく。

本書は、自分の痛みや悲しみから目を背けるために、他人と対等な関係を築くのが難しいと感じている人のための読むセラピーであるらしい。

らしいというのは、帯にそう書いてあるからだ。

著者は、こういう症状に悩まされている人の多くは幼少期の親との関係が原因であると述べている。

親の存在が大人になってからの精神形成にも大いに影響を与えるという観点はユングっぽいな、と思ったが、調べてみると著者はユングに関する修士論文を執筆した過去があった。

基本的にテーマは「自己防衛」についてだ。

本人も理由はわからないが、他人が近づいたり愛情を表現してくれるとその関係を遠ざけるような言動をとってしまう。これは、幼少期に形成された習慣で、自己防衛である、という観点から原因と対策について書かれている。

この辺りについては特に思うこともなかったので気になるのであれば自分で本を買ってみるといい。「読むセラピー」というだけあって、特定の人には確かに効果がありそうだった。

感情は重なり合って互いを隠している

前の記事にも書いたが、あらゆる感情の中で最もエネルギーが高い(カロリーが高いと言ったほうが適切かも…)のは怒りだ。

イルセ・サンは感情を完全に理解するには体・衝動・頭の3つの面においての意識する必要がある。

例えば恐怖という感情を例にとってみる。

●体:震えるのを感じる。

●衝動:叫びながら走って逃げたい衝動を感じる。

●頭:恐怖していると頭で知る。

喜びなら、

●体:体の中に踊りたくなる感覚がする。

●衝動:突然歌いだしたくなるような衝動が湧く。

●頭:自分が喜んでいるのを頭で知る。

お粗末な説明だが、そのままの引用なので勘弁してほしい…

ここで注目して欲しいのは衝動についてだが、自分に限って述べるのであれば怒りの衝動はその他の感情を圧倒的に上回る。

なにせ強すぎる怒りの衝動のあまり、超サイヤ人になるサイヤ人まで出てくるの始末である。怒りで黒髪から金髪に変わるのだからその衝動力たるや筆舌に尽くせない。

怒りの衝動で超サイヤ人になった孫悟空さん(本名カカロットさん)
こちらも怒りの衝動で超サイヤ人になったベジータさん

怒りが最もカロリーの高い感情であることは今も疑っていないが、イルセ・サンの著書によると感情というのは複数の感情が重なりあい、ある感情が別の感情を覆い隠している場合があるという。

そして怒りはその重なりの一番上の層にある。

何故怒りが一番上の層にあるのかについても説明がある。

曰く、怒りとは内と外の両方から効率的に身を守る戦略なのだ。

怒りにより、他人を追い払うことで外部から自分を守り、一番上の層にある怒りを強く感じることで、その下の層にある無気力や悲しみなどの他の感情を感じないようにする自らを内側からも守る。

怒りはそのカロリーの高さから、消化するまでに他の繊細な感情を感じにくくする。

面白かったのはこの後だ。

著者のスタンスは、ひとは潜在的に痛みを避けたがるので、自らが傷つかないように自己防衛の戦略(他人との関係に距離を置く)をとる。この自己防衛戦略のちからが弱まると、多くの場合ひとは怒り(もしくは不安)の感情を表す。

そして、その下の層には悲しみや渇望があるとしている。

セラピストとして活躍する著者は、この悲しみや渇望に自ら気付き、表現することで、他者に近づいてつながるという大きな体験をさせることを目標に相手と向き合っている。

つまり、自己防衛の戦略として他人を遠ざけるひとは、自信が気が付かないうちに悲しみをブロックし、体験すべき悲しみを自分の性格に統合しないように働きかけている。

だから、悲しみと向き合えるように働きかけるのだ。

悲しみを感じるのが傷を癒すプロセスなのだ!

インサイドヘッドとの共通点

この悲しみについての認識は、自分に映画インサイドヘッドを思い出させた。

2015年に上映されたディズニーピクサー映画で、11歳の少女ライリーの持つ5つの感情(ヨロコビ、ビビリ、カナシミ、イカリ、ムカムカ)についての物語だ。

本作は、多くの神経学者からアドバイスをもらいながら5年の年月をかけて完成させた力作であり、ひとの感情の働きや仕組みについてユーモアたっぷりに描いている。

例えば、作中で考えの列車に積まれた箱が倒れて、中のカードが出てきてしまうシーン。

「”意見”と”事実”のカードがごちゃごちゃ!」

「平気、いつものことさ」

これなどは思わず笑ってしまうが、なるほどと考えさせられる上質なユーモアだ。

5つの感情の中で主に司令官を務めるヨロコビは、ライリーが暗い感情を抱かないようにとカナシミの干渉をなるべく回避する。

わけあってヨロコビとカナシミは2人で行動を共にするのだが、ここでも行動の主導権を握るのはヨロコビだ。

ヨロコビは行動的で、常に明るく場の空気を楽しくさせるために振る舞う。

道中、2人はライリーが昔遊んでいたイマジナリーフレンド(幼少期に子どもが作る想像上の友達)であるビンボンと出会い、3人で冒険することになる。

途中でビンボンが、昔はいつも遊んでいたライリーが自分のことを忘れ始めていることにショックを受けて足を止めてしますシーンがある。

ヨロコビは大丈夫、他にも楽しいことがあると励まして前進を促すのだが、ビンボンはすっかり落ち込んでしまって動けない。

ここで初めてカナシミがポジティブな働きをする。

ポジティブな働きと言っても、カナシミの言動は徹頭徹尾ネガティブな感情とされる悲しみの表現でしかないのだが、悲しみという感情がポジティブに描写されるのだ。

カナシミは落ち込むビンボンに寄り添い、一緒に悲しんだのだ。

ビンボンはカナシミと抱き合って泣くと、「もう大丈夫」と立ち上がり再び前進する。

まさに悲しみを感じることが癒しのプロセスであることがここに描かれている。

インサイドヘッドは、ヨロコビがライリーの幸せを願うあまりに、カナシミを厄介者として扱い、遠ざけていたが、そのカナシミの重要性に気が付くという王道のストーリーだ。

これは、イルセ・サンの本の内容をそのまま表している。

彼は喜びと悲しみはとても近い感情だと見解を述べているが、これに当てはまるような描写も本作の中で見られる。

ヨロコビが、ライリーが大好きなアイスホッケーの試合に勝利して仲間たちと喜んでいる思い出を見ていた時。

喜びを仲間と分かち合う前に、別の試合でライリーが決勝点をいれることができずに落ち込んでいる悲しみの思い出があることに気付く。

悲しむライリーに両親が寄り添って彼女を励ますのだ。その思い出を見てヨロコビはカナシミがどれほどライリーにとって大切な感情なのかを認識する。

「カナシミ…ママもパパもチーム仲間も、みんなが励ました…カナシミのために」

カナシミは、傷を癒し次の喜びの感情をより高める役割を担っている。悲しみから、喜びが生まれるのだ。

悲しいという感情が持つ特異性

インサイドヘッドでは、5つの感情たちの中でカナシミだけが他の感情の思い出を自分の色に染めるちからを持っている。

それ故に、ヨロコビはカナシミの接触を避けようとするのだが、何故カナシミだけがこのような力を持っているのだろうか。

作中で、悲しみが他者に寄りそうことで癒しの効果を発揮する描写が何度も繰り返される。

つまり、カナシミは寄り添いと共感に秀でていることが強調されているのだ。

この特性こそが、他の思い出を自分の色に染める力に表れているのだと思う。

イルセ・サンの言うように、感情がいくつもの層で覆われているとしたら、我々は日々の生活の中で自らのカナシミの声に気付いていないのかもしれない。

他人に対して深い共感を持つ時、思い返せばそれは相手の悲しみに共感していることが多い。

学生時代の知人の女子が、彼氏にいわゆるヤリ捨てをされたと憤慨していたことがある。

最初、彼女の怒りは真っ当なものだと思っていたし、自分も彼女の彼氏に不快な感情を抱いた。

しかし、話をしていくうちに彼女はとうとうポロポロと泣き出して「悔しい、悲しい」と漏らした。

涙を流す彼女を見て、自分も彼女の気持ちに同調して泣きそうになった。

当時は、何故自分は彼女の痛みを理解できたのかわからなかったが、あれは自分を大切に扱ってくれなかったことに対する彼女の悲しみに共感していたのだろう。

以上を踏まえると、悲しみは優しさにも似ている。

他者に共感して寄り添う、こう書けばそれはまさしく優しさのことではないか。

やさしくなりたい。カナシミの声にもっと耳を傾けよう。思わぬところで結局セラピーを受けたようになってしまった。

では、また。

音楽の聴き方と優しさ

独白するだけのゴリラになりたい。あと親しい友人がもっとほしい。

海外の大学院で研究している友人が一時帰国したので当時の仲間と飲んだ時に音楽の話になった。

自分は音楽をあまり聴かない。かっこつけて家でジャズを流す痛い人種だし、通勤中はラジオかNHKスペシャルとかなんか教養番組っぽいの聞いて勉強した気になっている。

音楽は、情報量という点で他の媒体(ラジオ、本、テレビ、youtubeなど)より劣っているというのが、自分が音楽を聴かない理由だ。

しかし、最近ラップに目覚めた友人や学生時代バンドをやっていた友人から言わせると音楽というのはリズムや曲調が歌詞を強化させる、深い情報量を持っているとのこと。

面白い言い分だと思う。情報量を多寡で見ず、深浅で考えたことはなかった。確かに、映画天気の子で話題になった「グランドエスケープ」の立体音響は音が深く体に入ってくるような気がしたし、オペラに行ったときも言語化できないけどなんかすごかった…

歌詞を考察してみる

とりあえず適当にJポップを聴いてみたが、正直言うと何が深いのかよくわからなかった。

いや、Jポップを馬鹿にしているわけではなく、音楽の深さを理解できるほどの感受性と教養が自分には圧倒的に不足しているからだと思う。

サビがどこなのかくらいはわかるので、歌手が強調したい部分はわかる。しかし、音楽の作り手側の視点に立てば、彼らがある制限の下で伝えたいメッセージを厳選しているのだからすべての歌詞には意味があるのだろう…よくわからないがそんな気がする。

クラシックとは異なり、歌詞のある音楽は伝えたいメッセージがはっきりしている。

だから、まずは歌詞を考察すればメロディの深さなども理解しやすくなるのかもしれないと思い、とりあえず松嶋菜々子が好きなので家政婦のミタの主題歌「やさしくなりたい」を聴くところから始めた。

地球儀を回して世界100周旅行

君がはしゃいでる まぶしい瞳で

恋人との思い出を振り返っているのだろう。地球儀を回しながらあの国に行きたい、この国に行きたいと盛り上がっている様子がわかる。

光のうしろ側 忍びよる影法師

なつかしの昨日はいま雨の中に

最初で明るい思い出について触れ、即座に暗い雰囲気を出す。「うしろ側」や「昨日」というワードはもう戻れないことを暗示しているのかもしれない。

たったの4行で明暗を表現してこの歌がただハッピーな歌ではないことをさりげなく印象付けている。

やさしくなりたい × 2

自分ばかりじゃ 虚しさばかりじゃ

自分ばかりじゃ、虚しさばかりじゃ…の後に続く言葉がないが、これはその前の「やさしくなりたい」を受けているのだと思う。

やさしくなりたいのは誰のためなのか?このやさしさは誰に向いているのか?

少なくとも自分ばかりに向いているやさしさではないことは読みとれる。

一見、他人に向けられたやさしさが結果的に自分にしか向いていないやさしさであるということがある。

こういう人間は自分ではそのことに気付かず、だから自分は優しい人間だと信じて疑わず、周囲との認識の差に首をひねるばかりだ。

自分の友人にも似たようなタイプがいる。

初対面のひと誰にでも分け隔てなく接することができ、そうかと言ってズカズカとプライベートに首を突っ込んだ質問をするわけでもない。

常にフラットな立場でものを言うので敵も少なく、常に人に囲まれている。

ところが、ひとりの人間が所有するやさしさの絶対量は日によって多少の上下はするが、基本的には有限だ。

誰にでもやさしく見える人間の本質は、「誰に対しても平等に興味がない」人間なのではないかとその友人を見ていて思ったことがある。

この歌詞はそんな彼が自身の本質に気付いた後のようだと思った。

だから、やさしくなりたいの後に続く「自分ばかりじゃ」も「虚しさばかりじゃ」もあまり違和感なく受け入れることができたが、もし友人の存在がなければこの歌詞は理解できなかっただろう。

愛なき時代に生まれたわけじゃない

キミといきたい キミを笑わせたい

愛なき時代に生まれたわけじゃない

強くなりたい やさしくなりたい

やさしいとはどういうことか

サビに対して特筆すべき箇所は歌のタイトルである「やさしくなりたい」と「強くなりたい」が並んでいる点だ。

歌の2番以降でも「強くなりたい」は「やさしくなりたい」の隣に位置している。

おそらく、やさしくなるにはやさしさだけでは足りない。

何を言っているのかと思うかもしれないが、やさしさを体現するためには強さが必要なのだと、人生のバイブルである「金色のガッシュ」に教わったので間違いない。

簡単にガッシュの説明をすると、100人の魔物が魔界の王の座を巡って戦うという王道少年漫画である。

主人公であるガッシュはある出来事をきっかけに「やさしい王様」を目指すことを決意するのだが、王を目指す途中で別の魔物に敗北してしまう。

そしてこの別の魔物はガッシュとの戦いを通して「強い王様」を目指すことになる。

ここではやさしさが強さに勝てなかったように描かれているが、そうではなく、やさしさを継続していくためには強くあらねばならぬのだ!

やさしさの出どころ

基本的な感情の中で最もエネルギーを生み出すのは怒りだが、怒り由来でやさしさを目指す人間というのはいないはずである。もしいれば是非会ってみたい。

怒りと同じくらい高いエネルギーを生む動機として挙げられるのは感謝だ。

恩返しと言ったほうがわかりやすいかもしれない。行動の動機としての恩返しは非常に面白く、その多くは他人に対する恩返しだが、時折恩返しの対象が人以外のものに向くこともある。

例えばある宗教に属す人間が熱心に布教活動を行ったり、スポーツ選手がきつい練習を活き活きとした表情でこなすのは、自分が自分らしく生きることのできる場所を与えられたことに対する恩返しで、その対象は場である

再び斉藤和義の歌詞に戻るが、「愛なき時代にうまれたわけじゃない」というのは、自分は愛に触れたことがあるという意味だ。

愛のある時代にうまれたのだから。

そして、この歌詞の中での愛はニアイコールやさしさなのだろう。

大切な人からやさしさをもらった恩返し、もしくは、やさしさを返せなかった後悔から、彼はやさしくなりたいと願っている。

なんとなくだが、この歌詞の場合は恩返しよりも後悔が動機っぽい。

というのも、歌詞の前半はどちらかというとネガティブな雰囲気を漂わせているので、ポジティブな動機としての恩返しとはちぐはぐになるからだ。

とまぁ、音楽についての造詣が浅いので結局音楽の情報としての深さを理解することは出来なかっし、これ以上書いても脱線に逃げることしかできなさそうなのでこれぐらいにしておく。

では、また。

発酵について調べてみた

独白するだけのゴリラになりたい。あと優しくなりたい。

休日にチーズを作ってみた。

ワインと牛乳だけで簡単に作れるカッテージチーズだ。

チーズの原料は乳に含まれるカゼインというたんぱく質で、ph値の低い酸性の液体を乳に混ぜることでたんぱく質を変性させて固まらせる。レモン水などでも作れるのだが、酸味がくどくなるのでワインで代用してみた。

結果、使用したワインがえっらい酸化していたため、ワインで作ったカッテージチーズは普通に酸味がくどかった…

自分はチーズが好きだ。学生時代に色々な国に赴いたが、中でも気に入っているのはポーランドの山岳地帯で生産されている山羊のスモークチーズが好きだ。

装飾された樽のような形状をしており、クランベリーのジャムをかけて食べる。

あまりにも気に入りすぎて10㎏程買ったことがある。

先日、ポーランド人と話す機会があり、あのチーズの素晴らしさを熱弁したのだが、「実はあれ、現地ではあまり人気ないよ」と言われてショックだった。

何が嫌いかよりは何が好きかで自分を語るから、別に気にしてはいないが。

原初のチーズ

基本的にまずいチーズというのに出会ったことはないが、唯一好きになれなかったチーズがある。

モンゴルで遊牧していた頃に食べさせられたハードチーズだ。

とにかく固いので、現地の人が石で割っていた。

しかもめちゃくちゃしょっぱかった。

しょっぱさの原因は塩だ。遊牧民は栄養が偏るし、遊牧するために食料の貯槽もできないため、栄養価の高いチーズを保存食としている。

保存性を高めるために必要なことは、食物の中から不要な水分を取り除くことだ。

生物にとって水は生命の源であり、だから生物はまず乾燥に対策を打つ。これはカビや菌などの微生物にも同じことが言えるので、微生物の繁殖を防ぐためには彼らが増殖するための余分な水をなくさなくてはいけない。

だから、たいていの保存食は食品内の余分な水を塩や砂糖と結合させて、微生物の生息地を極力なくすのだ。

そういうわけで、水分を失ったチーズはめちゃくちゃ固くなるし、しょっぱい。

そういえばベドウィンと呼ばれるラクダの遊牧民も同じようなチーズを食べると聞いた。

発酵とは何か

チーズを作ろうと思ったきかけは、以前購入した発酵についての本を読んだからだ。

まず発酵と腐敗は基本的に同じで、人間にとって良いか悪いかだけの違いである。

食品内のたんぱく質やデンプンなどの多糖類を微生物が分解し、アミノ酸やペプチドに変えることで香りや風味、旨味などが変わる。

発酵食品を作る微生物は大きく分けると3種類で、カビ・発酵菌・酵母である。

チーズを作る微生物はこのうち発酵菌に分類され、よく乳製品のパッケージにでかでかと書かれている乳酸菌がこれにあたる。

乳酸菌は、乳酸を発生させて液体中性から酸性に変える役割を果たす。これにより、酸性の液体内では雑菌の繁殖が抑制されるので腐敗を防ぐ。

そして、酸性値の高い環境では酵母が活発になり、分解された多糖類を酵母がさらに分解してアルコールと二酸化炭素を生成する。

アルコールは揮発性が高く、脱水作用がある。上述したように、生物は水がなくては生きていけないので乾燥から身を守るが、アルコールの中では雑菌は生命の源である水を奪われるので生きていけない。

濡れた手でアルコール消毒しても意味がないのは、雑菌が脱水してもすぐに水分を補給できてしまうからだ。

アルコール発酵

アルコールの話が出たのでついでに酒の話をしようと思う。

酒には、アルコール発酵したままの酒・醸造酒(ワイン、日本酒、ビール)と、醸造酒を蒸留してアルコール濃度を高めた蒸留酒(ウイスキー、ブランデー、焼酎)に分けられる。

これらの酒はアルコール発酵によって生成されたアルコールを含んでいるのだが、そもそもアルコール発酵とは何か。

ブドウ糖を酵母が発酵させて、エタノールと二酸化炭素を生成させることである。

このアルコール発酵は酒以外にもパンを作るのにも利用されている。

パンを生地から作ったことがある人、もしくはそういう資料か何かを見たことがある人はご存知と思うが、パン生地はイースト菌をまぜてしばらく置いておくと大きくなる。

これはアルコール発酵によって、生成された二酸化炭素が生地を膨らませているのだ。

古代エジプトでは、生焼けのパンを水につけることでさらにアルコール発酵を促進させて酒を造っていたらしいが、焼成されたパンでは酵母菌が死滅しているのでアルコール発酵はしないし、そもそもイースト菌や酵母菌の代わりにベーキングパウダーを使用している場合は菌が存在しないので再発酵はできない。

遊牧時代に飲んだ酒

肝心の酒の話は、また別の機会に書こうと思うが、せっかくアルコール発酵の話をしているので最後にひとつだけ。

モンゴルで遊牧民として生活していた時に、馬乳酒を飲んだことがある。

これは馬の乳をアルコール発酵させたものだ。

友人知人に馬乳酒の存在を当然知っているものとしてこの話をすると、まず馬乳酒を知らないひとが多くて驚いたことがある。

そこで記憶を掘り返してみたが、おそらく自分が馬乳酒を知ったきっかけは小学校低学年の時に国語の教科書に出てきた「スーホと白い馬」という話だ。

この話に興味を持って調べていた時に馬乳酒という言葉を知ったのだろう。思えば、この頃から遊牧民として生きたかったのかもしれない。

ちなみに憧れの馬乳酒はカルピスから甘さを抜いて腐らせたような味だった。

普通に吐いた。

この馬乳酒だが、馬の乳に含まれる乳糖をもとにアルコール発酵させるのだが、酵母菌はすでに出来ている馬乳酒をまぜるか、ツリガネ草科の野草をぶちこむ。

そして2~3日かけてずっと攪拌させる地獄の作業の先に、あの腐った白濁色のわけのわからない酒が完成する。

馬の乳に含まれる乳糖は全体の7%程なので、これが分解されてできた馬乳酒のアルコール含量は1~2%しかない。

こんな不味くて酔えない酒をなんのために飲むのかと聞いたら、腹をこわすためだと答えが返ってきた。

曰く、馬乳酒は1年のうちで夏にしかのむことのできないもので、これを飲むことによって現地人も腹を下すのだとか。

そして、体内から不浄なものを便として排出することで肉体を清めるらしい。

面白い考え方をするなぁ、と思ったが、何より面白かったのは死体でもいれるのかってぐらいでかい壺いっぱいに馬乳酒が造られていたことだ

一杯飲めば腹を下すのに何故あんなに大量に用意されていたのか意味が分からない。

発酵についてよりよく知るために、世界一予約のとれないレストランnomaのシェフが著した発酵ガイドを8,000円ぐらいで買ったけどあれ全然読めてないなぁ。

誰か要約してくれる人がいれば貸すので遠慮なく言ってください。

では、また。