独白するだけのゴリラになりたい。
歯を食いしばって幸せを手に入れるってしんどくない?
先日、ある企業の説明会で「幸せを手に入れるためには高い山を登らなければいけない! その手段のひとつが我が社で働くことだ」と言われた。
面白い言い分である。
”幸せになるために努力する”
一見してこの文章に違和感はない。では、次のように言い換えてみよう。
”幸せになるために苦労する”
バラバラにするために石を積むような生産性の無さを感じる……賽の河原か。
苦労の総量が幸せの総量より多い場合、幸せになるための苦労の価値って何だろうか。
もし苦労の先に望んでいた幸せがなかったとしたら、幸せになれなかったという観点から見ると、不幸であるということになるのだろうか?
一般的に報酬を得るためには対価を支払う必要がある。
では、幸せになるためには何を支払うのが正しいのか。
何を捨てればよいのか。
幸せになるためには、幸せになりたいという気持ちを捨てるところからスタートしないといけないのではないか……?
幸せを目標にするのは遠回り
幸せという概念についての自分の定義は、”当人がなんとなくポジティブな状態”である。
”なんとなく”というのが重要だ。
つまり、幸せという概念には具体性がない。
何をもって幸せとするかはひとそれぞれであるが、ひとが幸せを感じる時は具体があることが多い。
恋人と一緒にいる時が幸せ、美味しいものを食べている時が幸せ、スポーツをしている時が幸せ、といった具合だ。
だから、幸せになるために○○しましょう、というのは実に無責任な助言だと思う。
幸せを追求する時、ひとは世間一般で幸せとされるものを追いかけているだけである。
具体のない幸せを追い求めるのは、幸せになる遠回りだ。
まずは幸せになることを諦めて、何をしている時に自分が幸せなのかを思い返すべきである。
ところが、ここで厄介なことがある。
そもそも何故人が具体の無い幸せを追い求めるかというと、具体の無い幸せは現実的に存在するからだ。
小学校の休み時間、親の運転する車の中でしたうたた寝、友達との中身のない談笑。
なんの不安もなく、ただ幸せを提供してくれる場というものがある。
しかし、場が与える幸せは環境要因によるものであり、個人のちからで確保するのは難しい。
難しいだけで不可能ではないだろうが、場の確保に固執してしまえば、”場を確保している間が幸せ”という具体のある幸せになってしまう。
具体のない幸せを追い求めるのであれば、やはりその幸せを一度具体化させるのが近道となる。
ひとは幸せになるために行動している
すべての行動は当人の幸せに直結している。
これが自分の幸せに対するスタンスだ。
長期的、もしくは客観的に見れば愚かな選択をする人間はいる。
しかし短期的、主観的に見ればすべての人間はその瞬間自分に最もメリットのある行動を選択する。
パートナーと口論になった際に、これ以上言い合っても生産性がないどころか関係を悪化させるという場面に心当たりはあるだろうか?
このような状況でもなお、相手を批難する言葉を発する人間が何故、口を閉じることができないのか。
その瞬間において、黙っているよりも言いたいことを言ったほうがすっきりするからだ。本人にとって得だからだ。
同じ状況で言葉を飲み込むひとは、今関係を悪化させるよりは黙って仲直りした方が、言いたいことを言ってすっきりするよりも得だから黙るのだ。
ひとの行動がすべて幸せに直結しているのだから、何が自分にとって幸せなのか理解することは難しくない。
休日は恥ずかしながら家でだらだら寝て過ごすだけです、と言うひとがいればそのひとにとっては家で寝て過ごすことが幸せなのだ。
存分に幸せを堪能すればよい。
我々には等しく幸せになる権利がある。
害をもたらす幸せ
「幸せになりたいです!」という人間と出会えば、おそらく我々の多くはどうぞ幸せになってくださいと、彼ないし彼女の提案を受け入れるだろう。
では、彼ないし彼女にとっての幸せが例えば次のようなものだったら?
・小動物の命を奪うことが幸せ
・児童を性的に虐待している時が幸せ
・自分の作ったフェイクニュースで世間が混乱するのを見るのが幸せ
・放火で燃え上がる炎の美しさを感じるのが幸せ
思う存分幸せになりなさい、とあなたは躊躇なく言えるだろうか?
幸せになりたい人間の邪魔をする権利はないが、自分の幸せを侵害するものを拒絶する権利はある。
では逆の立場に立って考えてほしい。
例えばあなたが社内で昇進するのが幸せだと思い、幸せを獲得するために奮起する。
あなたの行動は批難されるものではないし、向上心の高さは素晴らしい。
ところが、あなたが目指している席に現在座っている立場の人間から見ると、幸せになろうとしているだけのあなたは彼を脅かす恐ろしいものとなる。
「こいつはどうして活き活きしながら自分に害をもたらそうとしているのだ!迫害せねば!」
このような考えに行きつくのはそれほど突飛なことではなく、むしろ至極当然の成り行きだと言える。
我々は幸せになる権利があるし、常に幸せになるために行動している。
個人にとって、当然個人の幸せは重要なものだ。
しかし、自分が幸せを獲得した時に、害を受ける人間がどこにいて、彼らがどのように報復してくるのかまでに想像を及ばせることも重要ではないだろうか?
幸せになる覚悟
自分の幸せを押し通すために、自分の人生を幸せにするために他人の幸せをどこまで侵害していいものか。
何度でも言うが、我々には幸せになる権利がある。
そして、幸せになろうとする人間の多くが見落としているのは、自分の幸せの先で不幸になるかもしれない人間の存在だ。
知ったこっちゃない。十把一絡げにもならない他人から嫌われるだけで自分が幸せになれるなら喜んで嫌われてやるね!
そんな風に思っているひとももしかしたらいるかもしれない。
ちなみに自分は他人から嫌われることが1㎜も苦にならないタイプの人間だった。
非常に危険な考え方なので、もし似たような考え方のひとがいれば絶対にこの先も読んで欲しい。
嫌われる覚悟を決めた人間は、自分の人間関係から相手を切り離してものを考える傾向にある。
つまり、自分が幸せを押し通すことで被害を受ける相手の感情の動きに一切の関心を示さないようになる。
中居正広も言っていたが、0%か100%ではなく、1%か99%の間でものを考えるという視点がここでは完全に抜けていることがわかるだろうか。
相手に嫌われても自分の幸せを押し通す。それはいい。
しかしその結果さらに大きな障害が立ち塞がるかもしれないことを考えれば、必要以上に嫌われるのは避けるべきだ。
どこまで嫌われてもいいのか、このメモリを決める。
メモリの上限を越えそうであれば、一旦自分の幸せを押し通す方法を変えたほうがよい。
そしてもうひとつ重要なのは、相手に嫌われる覚悟を決めた上で、嫌われないための根回しをすること。
ちなみにメモリも根回しも、自分からうまれた考え方ではない。
先日渋谷の本屋であったトークイベントの中で博報堂から独立したクリエイター三浦崇宏の言葉だ。
全然知らないひとだったし、暇つぶし程度でイベントに行ったが非常にためになった。
著書、”言語化力”も買った。まだ読んでいないが売れ行き好調らしい。
下北沢のB&Bや、渋谷の青山ブックセンターでは高頻度でトークイベントが行われているので、暇なひとは行ってみれば面白い発見があるかもしれない。
では、また。