教育に潜む悪意

独白するだけのゴリラになりたい。あと、人に頼って生きたい。

「お節介なもので悪意を持たないものはいない」

イギリスの哲学者でありながら弁護士を本職としたフランシス・ベーコンの言葉だ。

「知識は力なり」で知られるフランシス・ベーコン(1561-1626)

あなたの周りにもひとの世話をやくのが好きなひとはいないだろうか。

なにを隠そう自分もお節介な部類の人間である。だから、フランシス・ベーコンの言葉には強く共感した。

我々のようなお節介が率先して他人の世話をやくのは、”好意”からであっても”善意”からではない

関心のない人間に対してお節介をやく人間はいない。ナイチン・ゲールが言ったように、愛の反対は無関心だ。つまり愛≒好意であり、好意がある対象にしか我々はお節介をやかない。

好意があるのであれば、善意ではないのかと思われるかもしれないが、この認識は危険な間違いだ。お節介な人間当人ですら自分は善意から世話をやいていると思い込んでいる。

大きな間違いだ。結論から言えば、お節介な人間はやはり悪意の持ち主である。そして、ここで言う悪意の正体は”支配欲”である。

支配欲ゆえの干渉

他人に対してお節介するとき、”こうなって欲しい”という恣意的な欲望が働いている。言い換えれば、自分の望んだとおりに物事が動いてほしいと願っている。こんなものが善意であってたまるか。

自発的なお節介はすべてが相手に対して、自分が望んだ結果に近づいてほしいという支配欲からの行動だ。

考えるまでもないことだが、相手に影響を与える(支配する)ためには相手に干渉する必要がある。

お節介は明らかに干渉だ。相手のことを好ましく思うからこそ、より好ましい存在でいてほしい。

より好ましい存在にするために、お節介を媒介にして他人を支配しようとしているのだ。

そして、厄介なことにお節介は一見すると善意に基づいた行動に見えてしまう。このため、お節介をする側の人間も自分の持つ醜い支配欲に気が付きにくい

最たる例は教育者である。

経験も知識も劣る相手(子ども)に対し、自分が助けてあげなくてはという見せかけの善意のために相手を望んだ方向へ支配しようとする。

自覚しなくてはいけない。どうあがいても教育とは価値観の押し付けであることを。

教育に潜む支配欲

ひとは人生のどこかのフェーズで教育する立場になる可能性が高い。

常に新しいことに挑戦し、所属する場所をコロコロと変えるチャレンジャーを除いて、我々は後輩や新人にその場所のルールを教える機会に遭遇しやすいからだ。

この時、相手の行動が場の規範に沿うように支配しなくてはいけない。

その場における経験が豊富なあなたは慣れない環境で居心地悪そうにしている新人にいくつかのアドバイスを与える。相手はあなたに感謝し、あなたも相手の役に立てたことに喜びを感じるだろう。

誰もが幸せになった経験を通して、あなたはより教育熱心になるかもしれないし、そんなあなたを上司は新人教育担当にするかもしれない。

あなたは新人教育にやりがいと喜びを感じ、ますます仕事に精を出す。そして多くの場合、喜びは己のなかにある支配欲を覆い隠す。

誤解を避けるために明言するが、お節介や教育を悪く言っているわけではない。お節介も教育も両者にwin-winの関係をもたらす可能性を多分に秘めた行為である。

しかし、教育したがり、お節介したがりの自分のようなひとは自身が少なからず持つ”悪意”を強く自覚しなければいけない!

教育を受ける立場ではなく、教育をする立場を自ら選んだ人間の多くが自分は善良な人間だと信じている。

自分こそが教育者に足る存在であると。少なくとも悪意から教育を行っているとは夢にも思っていない。

”善い行い”をしていると思っている人間は反省をしない。

自分が何故教育をする立場にこだわったのか、今一度見つめなおしてほしい。そして、その教育は相手のニーズを間違いなく満たすものであるかと自問してほしい。

支配できない相手に腹を立てたことがあるのであれば、危険な兆候だ。

一方で、自らのうちにある支配欲と向き合い、付き合い方を再考する良い機会である。

この記事をきっかけに、あなたの教育にかける熱意は、相手からうまれたものではなく、自分からうまれたものだと思い出してくれると嬉しい。

では、また。