おもしろい話がある。
異性愛も同性愛も肯定するひとが、両性愛については否定することがあるらしい。
性の多様性が認められつつある現代社会において、なんでもかんでも許容することは正しいのだろうか?
われわれは、今一度セックスについて真剣に考えるべき、そういう時代にいるのではないだろうか?
動物性愛の不道徳性
濱野ちひろの「聖なるズー」を読んだ。動物とセックスをするひとたちの話だ。
しかし、メインテーマは動物を愛する奇異なひとの実態ではなく、愛とセックスの対等性についてだったように俺は思う。
動物に性的魅力を感じる趣向のひとのことをズー(ズーファイル)と呼ぶ。
動物とのセックスと聞くと、おそらく多くのひとは不道徳的なものを感じるのではないだろうか。
事実、旧約聖書では動物とセックスをした人間もその相手の動物も死ななければいけないと書かれている。
アメリカの動物権利団体PETAは「動物とのセックスは動物へのレイプである」と激しく動物性愛を糾弾し、欧州では全面的にではないにしろ、動物とのセックスを法律で取り締めている。
なぜ人間同士のセックスは良くて、動物とのセックスは悪いのか。
答えは対等性の欠如だ。
つまりズーが内に秘める不道徳性は、人間と動物が対等な存在ではないということに起因する。
動物との対等なセックス
人間と動物の対等性を妨げるものは言語である。
動物が人間に対して明確なコミュニケーションをとれない以上、ズーとそのパートナーとのセックスに性的同意があったか否かを第三者は判断できない。
これこそが動物とのセックスにおける不道徳性の正体だ。
*ただし、「聖なるズー」を読むと、性的同意がないとは言えないのではないかと考えるようになる。
性的同意を欠いたセックスは、しばし人間同士のセックスでも問題とされる。
実際にスウェーデンでは2018年に明確な性的同意のないセックスはレイプとするという法律が成立している。
常に性的同意を欠いた(ように第三者からは見える)状況にあるズーは、いかにしてこの問題を克服するのか。
結論として、動物のペニスを挿入される側に人間が立つことによって動物が積極的にセックスを始めたと、彼らは言う。
「聖なるズー」で濱野氏が聞き取り調査を行ったズーは22人(男性19人/女性3人)、そして男性19人中13人がパッシブパートである。
動物との対等性を重視しているズーの多くがパッシブ・パートに立つことは納得がいく。
なぜなら、パッシブパートのひとがセックスにおいて得る喜びは、支配者側の立場から降りることで、パートナーとの対等性を瞬間的に得ることができるからだ。
小児性愛における対等性の欠如
対等性の欠如という点で、動物性愛はしばし小児性愛と混同視される。
小児性愛の場合はわかりやすく、大人対子どもという構図で対等性が欠如していることがわかる。
つまり、対等性のないセックスという意味において、動物性愛が小児性愛と同類のものであるという考え方は否定できない。
しかし、小児性愛が性的に未成熟な者に対する性的欲望であるとすれば、動物性愛は性的に成熟している相手をパートナーに選ぶ。
これは非常に興味深い話だ。
なぜなら、賛否は置いておいて、小児性愛者にも動物性愛者にも「相手から誘ってきたから行為に応じた」と主張する者が数多く存在する。
*「聖なるズー」の登場人物に関して言えば半数以上が誘われたと証言している。
性的に成熟した、例えば犬が、人間に対して発情しているシーンは見たことがあっても、性的に未成熟の子どもが大人に対して能動的にセックスの誘いをかけるとは想像しにくい。
(映画「エスター」で似たようなシーンがあったが、あいつ子どもじゃなかったし)
濱野氏は、多くのひとがペットを子ども視しているために、動物の性欲をないものとして考えているのではないか、と鋭い指摘をする。
ペットの子ども視、つまりペット(子ども)には性欲がないという思い込みも、動物性愛と小児性愛の混同に一役買っているのかもしれない。
セックスにおける対等性
ここまで、対等性のないセックスについて触れてきたが、むしろ対等性のあるセックスの方が少ないのではないかと思う。
動物性愛団体ゼータでも、パッシブパートのひとは、アクティブパート(動物にペニスを挿入する)のひとに対して、やや優位性があるように振る舞う。
それはおそらく、同じズーでもパッシブパートと比較して、動物にペニスを挿入するアクティブパートは動物を支配している感が強いからだろう。
現に、「聖なるズー」では、パッシブパートのひとがアクティブパートのひとに対して「厳密な意味で、アクティブパートであることは動物を大切に扱っていないのでは?」という問いを投げかけている描写がある。
残念ながら、この問いに対しての返答はされなかったが。
アクティブであるかパッシブであるかによって変わる対等性、言語の対等性を欠いたセックス。
このふたつは、人間同士のセックスについても対等性の問題を投げかける。
言葉による性的同意が果たして本当の性的同意になるのか、セックスはアクティブパートのものなのか。
ペニスの形状が暴力性を司るのか。
*実に馬鹿げた話だが、鼻で笑う前に一度深く考えてみる必要のありそうな議題だ。
思うに、セックスは対等性のある行いだという前提の強さの反面、対等性を欠いたセックスが多いことを俺たちは知り過ぎているのではないか。
だって、否定するわけではないけれど、「仕方なくしたセックス」を経験したこともあるだろう?
俺たちは生理現象の延長としてのセックスではなく、対等性のあるセックスについて思索すべきなのではないか。
価値観を激しく揺さぶる本に久しぶりに出会えたことを幸いに思う。