他者を排除したがる人

独白するだけのゴリラになりたい。あとチーズ食べたい。

平穏無事な人生に憧れる年齢になってきた。

悪意や敵意に触れることは多かれ少なかれストレスだし、可能であればストレスフリーで生きていたい。ストレスの原因には爆発して霧散してほしい。

特にストレスとなるのは、他人から向けられた悪意や敵意だろう。

では、悪意や敵意の正体とは何だろうか。怒りか?いや、少し違う気がする。

悪意や敵意というのは、感情から発生するものではなく、侵害に対する反応の一種ではないかと思う。

その対象が自己の存在を揺るがすと判断した時、ひとは対象を排除しようとする。排除しようとする結果、悪意や敵意といったものがむき出しになる。

つまり、悪意ありきの排除ではなく、排除するために悪意や敵意が必要になるのだ。

悪意や敵意は、それ単独の感情のみでは存在できない。

侵害に対する反応がどういう意味かもう少し掘り下げて考えてみる。

上述した通り、自己の存在を揺るがされる時、ひとはこれを侵害されたと捉える。

これまで築いた自分というアイデンティティを根本から揺るがされた経験はないだろうか?そして、そういう時にあなたがどういう行動をしたのか憶えていれば、是非詳細に思い出す努力をしてほしい。

おそらく、揺るがしてきた震源を遠ざけようとしたはずだ。それが物理的な距離(目に映らないようにする)でも、心理的な距離(否定して同一化を避ける)でも意味は同じだ。

今回は特に後者、心理的な距離を遠ざけるケースに焦点を当てたい。

第一に、自己はアイデンティティを維持するために震源との同一化を回避しなければいけない。このため、震源を受け入れることを徹底的に拒絶する。

アイデンティティの崩壊を避けるには、震源を否定する必要がある。だから我々は震源に対して攻撃的な態度をとって、排除を試みるのだ。

攻撃に必要な武器は批難・中傷・暴力などになるが、これらの武器を研磨しようとするとどうしても表出するのが敵意や悪意である。

だからこそ、繰り返しになるが敵意や悪意は単独の感情として存在できないと自分は主張する。

となると、アイデンティティの侵害はどのような時に起こるのかを述べなくては自分の考察は中途半端なものになってしまう。

我々がこれまで生きてきた中で、形成されてきたモラル感や信念は、行動経済学的観点から言えば我々を非合理的な生物にした要因となる。

現在コロナウイルスが猛威を振るっているために、マスクが売り切れとなり、メルカリなどで相場の5倍以上の値段でマスクを売りつけている輩を見ると、正義の鉄槌を振り下ろしたくなる人がいるかもしれない。

*補足までに、自分はこの輩に対して別段否定する気はない。

しかし、そのような輩はひどく合理的に経済を理解しており、マスクの買い占めによって相場をコントロールし、実に容易い方法で利益を得ている。

合理的に金を儲けている人間は大勢いるが、我々がその他の方法で金を儲けている人間を許容し、件の輩を否定するのは、彼が我々のモラルを無視しているからに他ならない。

もっとわかりやすく言えば、自らの価値観に従って、すべきではないと誓った行動・封印した言動を他人が易々とした時に、我々はその対象から築き上げたアイデンティティを否定されたような気持になる。

これこそが侵害である。

そして、個人的な見解だが、この侵害に対して心理的な距離をとろうとするのは嫉妬の類でもあると思う。

自分が許されない言動を、彼ないし彼女だけが許容されている状況に対する嫉妬である。この見解が共感されるかわからないが、もし同じような考えの人がいれば是非酒を酌み交わして話がしたい。自分は馬乳酒を4,5盃飲んでもケロッとするくらいにはアルコールに耐性はある。

気になるようであれば、馬乳酒のアルコール度数を調べてみてほしい。

さて、価値観の縛りの強さは一種の呪いのようなものなので、平穏無事な人生を生きたいと思うのであればこれらの呪いを解呪していく必要がある。

そして、解呪のためには侵害してきた対象を部分的にでも受け入れなければいけない。これは苦痛だ。そもそも苦痛じゃない人間は価値観の縛りも弱いので、解呪しなくても平穏無事な人生を送っているに違いない。

自分などは、数年前まで「己の信念に誇りを持てない弱者は去ね!!」と思っていたようなちょっと痛い人間だったので、解呪をするためには荒療治が必要だったし、なんならそのために何度か死にかけた

その結果、人格としての面白さは失ってしまったので、別に価値観の縛りが強に人間を否定する気はないし、解呪をおすすめしているわけでもない。

なんならそういう人はこだわりが強くて面白いので一緒に馬乳酒を飲みながら話をしたい。

ただ、平穏無事に生きたいのに生きづらさを感じている人がいれば、自分の見解を少しばかり参考にしてもらえば嬉しい。

では、また。