石ころに付加価値をつけたコロナ

世にも危険な医療の世界史

コロナの影響で世界中が大騒ぎをしている。

信じられないことだが、たったひとつのデマを発端にスーパーからトイレットペーパーが姿を消し、水に流せるティッシュが代わりに棚に並ぶ様には目も当てられない。

しかしなによりも驚いたのは花崗岩がコロナ対策になるとしてメルカリで出品され、SOLD OUTしたことだ!

どんな経緯で花崗岩がコロナ対策に有効だと信じるひとが続出したのだろう。

簡単に調べたところ、免疫効果を高めるためにはテロメア長を延ばすのが効果的であり、テロメア長を延ばすためには花崗岩内部にあるラドンなどの成分が利く、という意味の分からないトンデモ科学がデマの発信元らしい……。

しかし、少なからずのひとがこのデマを信じて花崗岩を購入しているから、メルカリにただの石が出品されて、しかも売り切れたわけだ。
背景にはふたつの要素がある。

ひとつは、長生きしたいという強い欲求。

もうひとつは、一見すると納得できそうな理屈であること。

花崗岩がテロメア長を延ばすというウソが本当だった場合、 ”免疫をつけるために花崗岩を持つ” ことは理屈は通っているからだ。

そして、生きることへの執着で曇った目は、それっぽく見える屁理屈に簡単に騙される。
このようにして、人類は現代までに何度もとんでもない医療を繰り返してきた。

始皇帝からリンカーンまで服用した秘薬

漫画キングダムでさらに知名度を高めた始皇帝が不老不死の秘薬として水銀を服用していたことは広く知られている。

結果的に彼は50歳手前で水銀中毒で命を落とすのだが、史記によると彼の陵墓には水銀の川が何本も流れていると書かれていた。

事実、始皇帝の陵墓は水銀濃度が高く、墓を開けると有害な毒素が放出されるおそれがあるため今でも発掘作業は終わっていない

始皇帝の陵墓

数ある金属のなかで唯一常温でも液体として存在するため、神秘的なイメージが水銀にはある。

水銀の英名であるマーキュリーはローマ神話の神が由来となっているし、
インド錬金術で、水銀はシヴァ神の精子からできているとされている。

この金属に不思議なちからが宿っていると言われてしまえば、紀元前の時代を生きた始皇帝でなくとも納得してしまう。

水銀

しかし、神秘的なこの金属は、後に薬どころか恐ろしい毒物だということが判明した。
例えば日本で広く知られている水俣病も水銀中毒が原因である。

水俣病が公式に公害問題となったのが1950年代であることから、水銀の有毒性が認知されたのはつい最近だということがわかる。

第16代アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーン(1809~1865)も水銀を薬として服用していた。
幸いなことにホワイトハウスにはいってからは服用量を減らしていたらしいが……。

黄金の毒

水銀がつい最近まで薬だとして信じられていたように、ひとびとは金もまた薬として利用できると信じていた

金は非常に安定した金属であり、酸化もしにくく経年劣化に強い。
いつまで経っても姿かたちの変わらない黄金色に輝く金属に、ひとびとは不老不死との関連性を見出した

ところが、安定性の高さゆえに注目された金は、安定性の高さゆえに人体に吸収されないし、溶かしても常温では凝固してしまうため飲み薬として使用できない。

*水銀が薬として長く愛用されたのは見た目の神秘性以外にも、常温で液体という人間にとって摂取しやすい特徴があったためではないだろうか?

中世の錬金術師はこぞって「飲める金」を作ろうと試行錯誤を繰り返した。
1300年頃、ゲベルという錬金術師がついに金を溶かす溶媒として ”王水” を作ることに成功する。

王水に溶ける金

王水によって溶かした金を加工すると、塩化金が生成される。
塩化金は水に溶かして飲むことができる。
こうして、人類はついに「飲める金」を手に入れた。

おそらくあなたは予想していると思うが、「飲める金」は薬としては機能しない
それどころか、塩化金はおそろしく腐食性が強く、腎不全や頻尿を誘発する毒だった……。

当時どれだけの人間が塩化金によって被害を受けたのか定かではないが、幸いにも金は貴重なため水銀ほど人間に被害は与えなかったと推測できる。

2000回以上肛門をさらした太陽の王

結果的に猛毒だったとは言え、ポジティブなイメージのある水銀や金を体内に取り入れることによって、体の調子を良くすると信じられていた。

この考え方自体はまったく間違っていない。


たとえば、20種類あると言われる必須アミノ酸のうち、人間が体内で生成できるアミノ酸は9種類しかない。
だから、食物やサプリメントを摂取することで体内で生成できないアミノ酸を取り入れる。

一方で、不調をもたらす要因が体内にある場合、体内から排出することで体の調子を整えるという考え方もある。

腫瘍を取り除く外科手術はその最たる例であり、もっと身近なところでいえば鼻水や糞尿も同じことだ。

かつて人間の体液は血液を中心とした4種類の体液から構成されている ”四体液説” という考え方があった。

4つの体液のバランスが崩れると病気になると信じられ、バランスを整えるために瀉血という血液を抜く治療が流行する時代もあったのだというから恐ろしい。
*モーツアルトは死の直前に2リットルもの血液を瀉血によって抜かれている。おそらく死因は……。

便秘になると、腸にたまった糞が毒素を排出し、体が汚されるという考え方(自家中毒)もある。

糞便が体内で腐敗を起こすという考え方はわからなくもない。
このため、中世ヨーロッパでは浣腸が爆発的な流行となり、太陽王ルイ14世は生涯で2000回以上浣腸をしたという記録がある。(2000回‼)

フランス史上最も長い在位期間を誇る偉大な王 ルイ14世
心なしかおしりをこちらに向けているようにも見える

間違った情報で構成された正しい理屈

これまでに見てきたとんでもない医療の数々を、過去の人間の無知さゆえだと馬鹿にすることは誰でもできる。

しかし、注目して欲しいのはどうしてこのようなとんでもない医療がまかり通ってしまったのか、ということだ。

水銀は、常温で液体の金属という特異性から神秘のちからを持っているように思えるし、安定性の高い金を摂取することで自身も同じように安定した肉体を手に入れることができるという考え方は理屈だけは通っている。

西遊記の妖怪たちは徳の高い三蔵法師の肉を食べることで不老不死となれることを信じていた。
ファンタジーの世界などで真偽はともかくとして、妖怪たちの理屈もまた筋が通っていると思わないだろうか?

瀉血や浣腸も、体内から有害な毒素を体外へ排出するという理屈は合っている

理屈が合っているのであれば、正しい知識がない時代の常識から考えると、目を覆いたくなるこれらの危険な医療が流行した理由がわかる

花崗岩や水素水、EM菌なども同じだ。
情報が間違っているだけで理屈は通っているから多くのひとが騙されてしまう。

本書では、医療における数々の黒歴史がこれでもかとまとめられているが、われわれは今後も黒歴史を積み上げていくのだろう……

では、また。

美しさを理解するために知性は役に立つか

美しいとはどういうことか

なにかを美しいと思った経験がこれまで何回あっただろう。

冬の田舎道をひとり自転車で走り見上げた夜空、夏目漱石の ”こころ” 、クリムトの絵画、あるいは北川景子の横顔。

クリムト「接吻」

いずれも、その美しさを言語化するのが難しい。
美しいものを見たときになぜそれを美しいと感じたのか、美しいと感じる要素はなにであるか、ということを突き詰めて考えてみたことがある。

美しさとはわかりやすいことである
美しさとは足し引きを嫌う
美しさとは体験の中にのみ存在する

以上が、自分の考える美しさの定義だ。
とは言え、素人の意見ひとつだけでは独断と偏見が過ぎるので、プロフェッショナルの意見も参考にする。

美を見て死んだ男の審美眼

スペインを拠点に活動していた画家の堀越千秋は著書「美を見て死ね」のなかで、美しさについて以下のように言及している。

美しさは正しさである。
だが正義ではない。
正義の名のもとに人は悪事を働く。
国もそうだ。
しかし美の正しさは神に属する。
人には、利用されない。

堀越千秋「美を見て死ね」

「人には 、 利用されない。」
この読点に堀越の思想が滲み出ているようで最高にイカしていると思う。
そういう意味ではタイトルもいい具合にいかれていて最高だ。
他人のエゴが滲み出る瞬間とはどうしてこうも愛おしいのだろう。

美を見て死ね

「美を見て死ね」には、堀越が推奨する美術品の写真とそれぞれの作品についてのコメントが述べられている。
読み進めてくうちに、堀越の審美眼の一端を自分のものにできたように錯覚する、ある種のドーピングのような効果があるエッセイだ。

美しさについて言及するとき、我々の多くは「真の美しさは抽象的なもののなかにのみ存在する」という哲学的偏見を持っていることに気付く。

堀越は、美を神と結びつけることで美の抽象度をひとの手が届かぬところまであげてしまった。
*読点の位置から読み解くに、堀越は美とひとの関係が実際にどうであったにしろ、切り離して考えていたのだろう……。

イギリスの美術評論家ジョン・ラスキンもまた、知性を介さずに歓びを与えてくれるものをなんであれ美しいと定義している。

ジョン・ラスキン

知性を介さないということはつまり、美は直感的に理解されるものであり、複雑性を持たない抽象的な世界に存在している。

上述した3者(他2名に比べて自分は圧倒的に美に対する知識が浅いが……)の意見をまとめると、美について各々のスタンスはあれど、抽象的なものとして語られていることがわかる。

誰もが、美について語ろうとすると抽象的になってしまう。
そして、このことがわれわれに美しさは抽象的なもののなかにしか存在しないという偏見を持たせる。

この哲学的偏見に異議を唱えるのが本日紹介するロバート・P・クリースの「世界でもっとも美しい10の科学実験」だ。

知性の領分に存在する美

世界でもっとも美しい10の科学実験

科学実験が美しいとはどういうことだろう。

少なくとも小・中・高で勉強した理科の実験のなかで美しいと感じたことは一度もない。
というよりも実験という作業を美しいと感じることができるのは、その領域で当たり前のように呼吸をしてきたいわゆる専門家のような人間だけの特権なのではないか。

タイトルを見た時点でこのように考えてしまったのであれば、あなたは美に対する哲学的偏見に支配されている。

われわれがなにかを美しいと感じるとき、その美しさは直感的に把握されるべきであり、知性は不要だという暗黙の了解がはびこっている。

この暗黙の了解に対し、科学実験は客観と知性の領分からうまれるために、 ”美しい” と表現するには違和感を覚えるかもしれない。

ところがクリースは、科学実験という客観的、且つ、知性的な作業にも美はあると異論を唱える。

哲学的偏見の先にある美の特徴

クリースの主張を理解するために、われわれの中にしつこく根付いている哲学的偏見(美は抽象的なものの中にのみ存在す)を取り払わなくてはいけない。

仮に美の構成要素を理解したとしても、その構成要素から新しい美を創造するのは難しい。
*ピカソの使った道具や、彼の技術、思想を理解していたとしてもオリジナルの美を簡単に創作できるわけではない。

このために、われわれは美を抽象的なものと捉えがちだ。

しかし美についての考察をひとつ先に進めると、ある特徴に気付く。
美は人の内面に特殊な充足感を引き起こす

言い換えると、美しいものは「私が求めていたのはこれだ!」という喜ばしい気づきをもたらす

どれだけ審美眼を鍛えたところで、新しく出会う美がどのようなものであるかは推測できない。

しかし、今まで出会わなかった美を前にしたとき、ひとは自分の求めていた美がどのようなものだったかを知る。

そして、科学実験にもまたこのような特徴が確かにある。

クリースは本書を通して、 ”もしも実験に美があるのなら、それは美にとってなにを意味するか?” という問いに答えを出す。

問いかけの答えは、より古い伝統を持つ美の意味をよみがえらせるのに役立つ。

われわれは哲的偏見に囚われてしまっているため、古い美の意味も忘れている。

古代ギリシャ人は美と芸術作品に特別な結びつきを認めず、模範的なものとの関係において美を捉えた。
*法則、制度、魂、行為など

その結果として彼らは真と美と善に密接に絡み合い、深い根元で結びついていると考えた。

そして、ワインの歴史背景を理解したものだけが、高価なワインの味に感動できるように真と善と結びついた美を味わうために、ひとは知覚を行使しなくてはその意味に気が付けない。

本書では、クリースが独自に選んだ10の科学実験がとりあげられているが、科学実験そのものについてはウィキペディアを参照にしても得られる知識だ。

この本の真の価値は、ひとつひとつの実験の説明後にはいるクリースのコラムに発揮される

実験内容の説明によって科学への理解を深め、コラムで美に対する偏見を丁寧に剥がされる。
この繰り返しによる知覚の行使が心地よい。

知識が増えるということは、真に自分が求める美に対して敏感になるということでもある。

では、また。

Googleマップを騙した幻の島

積極的に意見交換するゴリラになりたい。

2005年にGoogleマップが登場した。
ご存知だとは思うが、Googleマップは目的地までの最短距離や手段別の経路、目的地までかかる時間など、地図上のありとあらゆる情報を詳細に提供してくれる。
初めての土地でも端末にこの地図さえダウンロードされていれば道に迷う心配もない。

ところで、地図が現実世界を正しく描写したのは西暦何年頃だろう?

コロンブスがアメリカ大陸を発見したのが1492年。
1582年に没した織田信長にルイス・フロイスが地球儀を献上していることを考えると、16世紀には大方の島は発見されていた。

また、1821年に伊能忠敬が日本地図を完成させたことから、19世紀には現実世界の細部まで地図は描写していたのではないか、などと漠然と推測できる。

ところが、1876年に捕鯨船がニューカレドニア島から400㎞離れたところに新しい島を発見している。

19世紀後半になっても世界はまだ発見され尽くしていなかったのだ!

新たに発見された島はサンディ島と命名され、Googleマップにもその姿が確認された。
しかし、真に驚くべき事態が2012年に発覚する。

なんと、オーストラリアの海洋調査チームの報告により、地図上に記されたサンディ島が存在しないことが判明したのだ。

Googleマップの誕生が2005年。
サンディ島が地図上から消されたのが2012年。
なぜGoogleマップに7年間も存在しない島が載っていたのだろうか?

古い地図のもつ価値

エドワード・ブルック=ヒッチングの著書 ”The Phantom Atlas” は、かつて実在したと信じられている島や川、大陸などが描かれた古い地図がまとめられている。

上述したサンディ島もそのうちのひとつだ。

どうしてひとは存在しない島が存在していると信じてしまったのだろう。
しかも、100年以上もの長い間。

この理由こそがまさに ”The Phantom Atlas” の邦題にある。

つまり、地図に描かれていたからである。

かつて人類は、現実には存在しないが地図上に存在する島を探して多くの時間を費やした。
まさに世界をまどわせた地図だ。

正確な描写ではない過去の地図に何の意味があるのか?
確かに、間違った地図には地図としての価値はないかもしれない
しかし視点を変えれば別の価値に気付けるに違いない。

間違った地図に描かれているのは、その当時にひとびとが見たかった幻想だ。

オーストラリア内陸部の水源

下図は1830年に発行されたオーストラリアの地図だ。
なにかおかしなところはないだろうか?

世界をまどわせた地図より

ぱっと見ただけでは大きな違和感を抱かないかもしれない。
では続けて、実際のオーストラリアの地図を見てほしい。

現代のオーストラリア地図

……
*正確には内海

1830年の地図では、オーストラリアの内陸に大きな水源が広がっているのに対し、現代の地図には水源はない。
当然、現実世界のオーストラリア内陸部にも大きな水源などない。

笑ってしまうぐらい豪快に間違っている地図だ。

しかし、水源こそなかったものの1830年の地図と現代の地図を比較しても国の輪郭はほとんど変わらないことに注視してほしい。

ふたつの地図の重ね合わせ

どうしてこれほど精度の高い地図に、ありもしない水源が描かれてしまったのだろう?

オーストラリアがヨーロッパ人(ジェームズ・クック 英)に発見されたのは1770年のことである。

当初、オーストラリアは囚人の島流し先となっていた。
後にイギリスは植民地政策拡大のため、未踏だった内陸部の探索に踏み出した。

当時のイギリス人は、オーストラリアのような大きな島をひとつの大陸のようなものだと考えていた。
そして、他の大陸と同じであれば、内陸部から流れる川は山につながっており、そこから別の川へつながっていることを彼らは経験から知っていた。

広大なオーストラリアの中心には緑豊かな楽園が広がっているという希望的観測に基づいて描かれたために、ありもしない水源がオーストラリア内陸部に堂々と登場したのだ。

現実と幻想が混在する面白さ

この他に、平面状の地球図も紹介されている。なんと発行されたのは1893年だ。

信長が地球儀を受け取ったのが16世紀であることを考えれば、信じられないくらい時代錯誤の地図であると言わざるを得ない。

幻想の大陸として最も名高いアトランティスは我々を長年魅了してやまない。
(プラトンがアトランティスについて記述したのが紀元前360年……!)

もちろん、アトランティスが描かれた世界地図も存在するし、当然この本に掲載されている。

まさに見たいものが描かれた地図たちだ。

それぞれの地図を見ればわかるのだが、地図に描かれたすべてが荒唐無稽な空想の産物というわけではなく、細部はむしろ現実世界を忠実に描写しているものが多い。

つまり、現実世界のなかにひとびとが見ようとした幻想がリアルな形を持って描かれている。

”世界をまどわせた地図” は、現実と幻想が混在するロマンあふれる世界の特集なのだ。

とはいえ、そのロマンに2012年まで騙されていたことを思い出していただきたい。
現実と幻想が混在していることを前提として見れば面白いが、それを知らなかった人々にはたまったものではない。

なにしろ ”現実に存在しないもの” を求めて長い航路に旅出ているのだ。
求めているお宝は見つかるわけがなく、実際に本書にはあるはずのないものを探し求めた悲劇がいくつも書かれている。

しかし、いくつもの悲劇を乗り越えて、現代のGoogleマップが完成した。
アニメワンピースの主題歌にもあったフレーズだ。

埃かぶってた宝の地図も確かめたのなら伝説じゃない。

きただにひろし「ウィーアー!」

間違いが発覚することもまた前進である。

では、また。