独白するだけのゴリラになりたい。
食の喜びは、心で感じる。口ではない。
食事を印象付け、人々に高い代金を支払わせるのはどのような要素か。
1世紀ごろに存在したされるローマの食通アピシウスは「最初の味は目で感じる」という格言を残した。
そして、彼の主張は科学的に見てもおそらく正しい。
我々の脳の半分以上の領域は視覚に関連する。一方で、味覚と直接関係するのは大脳皮質のみで、しかも大脳皮質の1%ほどしかない。
脳は身の回りの環境から統計的な規則性を導き出すため、我々は目の前の皿に対して味覚とは別の感覚を用いて潜在的な味や栄養価を予想している。
下記に一例を提示する。
予約待ちが半年以上と言われる三ツ星レストラン”The Fat Duck”で、シェフは蟹のリゾットにあわせて蟹風味のアイスクリームを食事客に提供した。
このレストランではどのメニューもラボと呼ばれる研究キッチンで試食され、時間のかかる厳格なプロセスを通し、最終的にシェフが納得したら、選ばれた常連客に食べさせて反応を見る。
これらのハードルを越えた料理のみが、メニューに載る。
果たして、蟹風味のアイスクリームを提供された食事客の反応は、シェフの予想していた反応と異なり、思わしくなかった。
通常、我々が淡い赤色のアイスクリームを見た時、どのような味を予想するだろうか。
きっとあなたは目の前のアイスクリームをイチゴ味の甘いアイスクリームだと予想したはずだ。
ところがいざアイスクリームを食べてみると、それは塩のきいた味だった。
あなたは予想を裏切られたショックで、不快感を覚えたかもしれない。
のちに、この蟹風味のアイスクリームは食べる人の期待を”甘い”から変えることに成功し、食事客から思わしい反応を得ることが出来た。
何をしたのか。
単純に”塩味のアイスクリーム”、あるいは”フード386”などというミステリアスな名前を付けたのだ。
その名前を聞いた客は、聞かなかった客よりも明らかにデザートを楽しみ、アイスクリームを塩辛すぎるとは感じなかった。
高級レストランの価値は何か
上記の例は、チャールズ・スペンス著 ”「おいしさ」の錯覚” に載っているので、興味があれば一読していただきたい。
著者のチャールズ・スペンスは、2008年にイグ・ノーベル賞を受賞している。
研究内容が非常に面白い。
バリバリという咀嚼音をヘッドフォンで聞かせながら、しけったポテトチップスを食べさせたら、ひとはどう感じるのかという研究である。
結論として、咀嚼音を聞かせながらしけったポテトチップスを食べたひとは新鮮なポテトチップスを食べているように錯覚する。
実にバカバカしく、イグ・ノーベル賞向きの研究である。
この他、最近ではアメリカのスタートアップ企業との合同研究で、肌に張り付けるだけで肉を食べたいという衝動を抑制する”肉パッチ”を開発するなど、ユーモアにあふれた研究をしている人物だ。
愉快な研究者なので、これ以上彼について書いていると本題からそれてしまう。彼の話はこの辺にしておこう。
高級レストランの価値はどこにあるのだろうか。
ディナーでひとり2万円近くする高級レストランによく行くというひとは間違いなく多数派ではないだろう。
珍しい素材や、丁寧な調理によって完成する皿は魅力的だが、空腹を満たすことが食事の主な目的であれば2万円という金額はコストパフォーマンスが悪い。
しかし、このコストパフォーマンスの悪さはあくまでも空腹を満たすために支払う対価としてのものだ。
レストランが提供するのは食べ物だけではない。体験も提供する。
”E・T”や”ジュラシックパーク”など超有名映画をこれまでいくつも作ってきたスティーブン・スピルバーグが実はレストランを手掛けたことがあることをご存知だろうか?
彼がロサンゼルスにプロデュースしたレストラン”ダイブ”は潜水艦をテーマにしたレストランだ。
店の片側にあるたくさんのモニターから、海中の映像が点滅しながら流れる。
時折、すべての照明が消えて赤いライトだけが点灯し、スピーカから「潜水!潜水!」と警告音が響く。
あきらかにやりすぎだが、ダイブはまさに”体験”を提供するレストランであるということを理解してほしい。
この他にも、モルティブにあるガラス張りの海中レストランや、ベルリンの暗闇レストラン、興味深いものでは相席で互いに食事を食べさせあう料理アートなどもある。
体験には価値があり、高級レストランは食材とシェフの技術だけでなく、レストラン空間をも包括した、ひとつの体験として食事客に提供されるのだ。
物語のあるレストラン
そうは言っても、実際にコストパフォーマンスが合わない高級レストランも当然ある。
多分に漏れず、味が記憶に残らないレストランだ。
なんだかおいしいものを食べた、見た目は非常に美しかった、聞いたことのない食材を使っていた、…具体的なこと何も覚えてないな…
初めて高級レストランに行った自分の感想である。
もう一度行ってみたが同じ感想を抱いた。
ちなみに、高級レストラン高級レストランと繰り返すと嫌味っぽいが、自分の場合は会社の接待に卑しくついていっているだけなので、普段から高級レストランに行くわけではない。
ひとの金で高いものが食べたい。それだけである。
ぼんやりとしか記憶に残らないレストランも少なくないが、先日妻のおごりで行ったレストランは素晴らしかった。非常に楽しかった。
白金高輪にある”Les Alchimistes”という名のレストランだ。日本語で”錬金術師たち”を意味する。
白を基調とした店内はすでに5組の食事客で埋まっていたが、ガヤガヤとした賑わいではなくゆったりとした心地よい緊張感があった。
上述したように、レストランは体験を提供している場でもある。
何かを体験する時、フラットな心持よりは知らないことを新しく知る楽しみとほんの少しの恐れがあるくらいがバランスが良いと思う。
席には、すでに皿が用意されており、見慣れないガラスの容器が中央に置かれていた。
「なんだろうね、これ?」
「花でも飾るのかな?」
と、ふたりで首を傾げていたが、その直後にレストランの名前の意味を思い出してはっとした。
ガラスの容器はフラスコだ。錬金術で使用するフラスコがモチーフとなっている、そういえば看板にもフラスコを模したデザインが施されていた。
面白いな、とフラスコを眺めていると、ウエイターが白い錠剤のようなものをグラスにいれた。
今度は何だ?と妻と一緒に錠剤を見つめる。食べ物のようには見えない。
次に、水の入った試験管を持ったウエイターが現れた。
試験管の水がコポコポと小さな音をたてて錠剤の上に注がれていく。錠剤はへび花火のようにみるみると大きくなっていった。
「おしぼりです」
驚く自分たちの反応を楽しみながらウエイターが一言で錠剤の正体を明かす。
ここでもまた錬金術を彷彿とさせる演出。
ウエイターは続けて、自分たちにテーブルの上のコースメニューに目を向けるように促す。
お決まりの本日のコースの説明かと思いきや、コースメニューには料理名が載っていないことに気付いた。
「これらの食材がどのように料理されるか想像しながら楽しんでください」
……良い!
レストランのコンセプトがしっかりしていてある種のテーマパークのようだ。
白を基調とした店内にあわせ、食器のほとんどが白であることもおそらく意図がある。
錬金された料理が主役であり、その他の要素に食事客の注意を奪われたくないのだろう。
キッチンを振り返ると、シェフたちはスタイリッシュな黒いエプロンをかけて静かに錬金術に勤しんでいる。
黒いエプロンには白く”Alchimiste”の刺繍。末尾にsがない。
レストラン名である複数形の錬金術師たちではなく、単数形の錬金術師。
エプロンはレストランの名前を背負うため制服ではなく、ひとりひとりが錬金術師=料理人であるという意思表明であり誇りの表れでもある。
細部に宿る物語性が、レストラン空間におけるコンセプトの純度を高めているのだと頭で考えなくともわかる。
高級レストランの提供する体験というのが、わかりやすく理解できるレストランのひとつとして、是非一度訪れてほしい。
味についてははどうなの?と思われるかもしれないが、ここで味を語るのは、錬金術師たちの秘密を明かすことになるのであえて口を噤む。
それなりのお値段のするレストランであるのは間違いないが、何度か飲み会を断れば捻出できる金額だと思う。
土日のランチコースであれば7500円からなので、飲み会を二回断るか、欲しい服やスニーカーを買うのを我慢すれば手の届く価格帯である。
話のネタだと思って、高級レストランで得る体験を一度買ってみてほしい。
では、また。