薄っぺらさの裏にある哲学

不倫騒動で話題沸騰中の某芸人の食についてのブログを見た。

なんだこれは……と絶句。

元々テレビで彼が食について語るときも、「これは貴重な食材で~、シェフがミシュラン3つ星レストラン出身で~」とか希少性についてばかり触れていて、薄っぺらいコメントだなぁとは思っていた。

なので、彼自身について積極的に情報収集する気は一切なかった。

不倫騒動のネットニュースから飛んだリンク先でたまたまブログを見つけたので、少し考察してみるという経緯だ。

なぜ薄っぺらく感じるのか

 彼のブログは非常に簡素なものだ。

本人が中央に立った店の外観の写真から始まり、各コースメニューの皿の写真、申し訳程度に各メニューの名前が記載されているだけのうっっっっすい内容。

こいつ、本当に食事が好きなのか?

こんな誰でも発信できる情報をプロフェッショナルぶって堂々と発信すんなよ。お前の言葉で店を推奨する理由を書けよ。

年に500店舗近くも食べ歩いているのだから、食事が好きなのは間違いないのだろう。その点については疑わない。

なにが言いたいかというと、食の伝道者みたいな顔してるのに食への愛を感じない!

多くの皿を目の前にしたという経験の重厚さがない!

ただ店について調べればわかる情報を発信しているだけ!

このひと、どういうスタンスで食を語ってるんだ?

グルメリポーターとしてのスタンス

 つい最近、某テレビ番組で高級料理研究家とのグルメ論争が話題になっていた。

以下のようなやりとりである。

料理研究家「自分で料理しないひとが、プロの料理人の苦労を理解しているのか」

料理研究家「野球経験のない方が野球解説をしているような感じです」

某芸人「リスペクトはありますが、僕は知らなくてもいいと思っている。食べ手として出されたものを『おいしい』『おいしくない』で判断して伝えればいい」

某芸人「よく食レポでも『手間がどうとかこうとか』と挟む人がいて。それってプロの話にド素人が同じ目線で話しているのと一緒なんですよ。食レポ界でもNGだし、お店の感想でも最悪」

某芸人「これ漫才で例えるとわかりやすくて『私、家で漫才すごくやるんで、○○さんの漫才すごいですよね、あの間が』って。これって、この子は漫才なんか知らなくていいじゃないですか」

某芸人「見た漫才が『おもしろい』『おもしろくない』でいいじゃないですか。ド素人がプロに向かって『わかります、その苦労』っていうのは一番小サムいです」

たしかに作るプロではない素人が作り手側に回ってプロ目線で語るのは少し違うかもしれない。

だけど本人も言っているように食べるプロである食べ手としての意見なら言えるだろ

それは「おいしい」か「おいしくないか」という舌の表面的なものだけではない。

その皿を前にしたときに自分の感性がどう動いたのか、素材の組み合わせのどこに特徴や目新しさを感じたのかという、数多の料理を食べた人間ならではの言葉だ。

どうしてその店の皿が優れたものだと思ったのか、料理人のこだわりをどこに見出したのか、五感を駆使してリポートしろよ。食べるプロだろ。

テレビの仕事だから万人にわかるように当たり障りのないコメントをしているのかもしれないが、だとしても食への熱量を感じない。

なんだろう、この不愉快さは。

グルメ好きを裏付けるものが全く見えないのに、語る言葉だけが多い。
その薄っぺらさが鼻につくのかもしれない。

グルメリポーターのポジションとしての哲学は感じるが、彼のブログやテレビのコメントからは、グルメへの哲学は感じない。

どうしても好きを突き詰めているようには見えないんだよなぁ。

以上のような話を昼下がりのモスバーガーで奥さんとしていたのだが、

「あなたは好きには必ず理由がついていると思っているが、そうじゃないひとも沢山いる。その芸人さんは食の歴史や理論について調べたりしてないかもしれないけど、単純に食べるのが好き。それでいいじゃない」

と言われてしまった。

なるほど。納得……。

某芸人の店選びの基準

 では某芸人がなにを考えているのかを理解してみようと思い、初めてkindleを使用して書籍を購入。

アンジャッシュ○○の大人のための「いい店」選び方の極意

 まず、この本のテーマは「いい店」の選び方であり、「おいしい店」ではないことに注目。

著書曰く、いい店の基準は以下の5つである。

  1. 値段
  2. サービス
  3. 予約のとりやすさ
  4. キャッチ度

1~4番はわかるが、5番目に挙げられているキャッチ度とはなんだろうか。

キャッチ度とは、店のオリジナリティだ。

冒頭で彼の料理についてのコメントにいちゃもんをつけたが、店選びの基準にキャッチ度が挙げられているように、彼が食において「希少性」を重視していることがわかる。

著書全体を通して、料理の味についてはほとんど触れていない。店の雰囲気とその店の「ならでは感」に多くの項が割かれている。

これは実に面白いことだ。

というのも、彼のお笑いスタイルと食へのこだわりが一致しているからだ。

アンジャッシュは漫才ではなくコント師である。

コントというのは役割を決めて世界観を作り、その世界観のなかで演劇をするようなものだ。

店の雰囲気とその店の「ならでは感」に強いこだわりをみせるのはコント師として世界観を重視しているからではないか。

つまり、彼にとって食とは雰囲気とキャッチ度(特別性)が主であり、料理(味)はそれらを構成する要素のひとつに過ぎないのだろう。

こうなってくると彼への態度も変わってくる。

コメントの薄っぺらさの理由

 彼の薄っぺらいブログを見て、なんでこんなのにフォロワーが沢山つくのか理解できなかった。

だが、彼が紹介する店がことごとく悪くない店であるとしたら話は変わってくる。

年間500件の店を食べ歩く男だ。当然、よくない店にも当たっただろう。

いい店を知っているというより、悪い店をおすすめしないことが人気の秘訣なのかもしれない。

 最後に、料理へのコメントに独創性がなく面白くないと批判したがその理由についても本書では触れている。

個人的にはこの部分が一番なるほどなと思わされた。

彼は、食はえこひいきの文化だという。

飲食店も客商売である以上、当然の如くより多く金を落としてくれる客にサービスをする。

これは差別ではなく区別だ。

となると、グルメリポーターとしてもテレビで活躍していた彼にとって仕事を継続させるためにも「店に嫌われない」技術は欠かせない。

それゆえに、店への批評は控えて偏差値の高い客であることを心掛けたのだろう。

だから、独創的な意見が一切ないのか!得心である。

なんだよ、しっかり哲学あるじゃん!よく知りもしないで批判してごめんよ!

妻子持ちとしての倫理観にも哲学があれば完璧だったな!

植物と祈りの類似性

 スリランカの山頂で祈るヒンドゥー教徒を見た。

手を合わせて、じっと動かず、ひたすら真摯に朝日に向かって祈りを捧げる。

その静けさに植物のようなちからを感じた。

同級生の撮った写真@スリー・パーダ

高校時代の同級生の体験談だ。彼女は大学を卒業して5年経つ今も世界を放浪している。

スリー・パーダの麓

祈りの空間を満たす静けさ生命力

 彼女の独特な見解によれば、祈るひとと植物は似ている

ひとが祈りを捧げているとき、その空間は静謐と生命力に埋め尽くされる。

手を合わせ、目と口を閉じ、微動だにせずただ力強く祈る。

祈りを捧げるひとびとからはいつも生命力が溢れている。

 ひとの祈りを見て初めて驚愕したのはエジプトだった。

巨大なモスクのなかでひとびとが同じ方向にむかって祈りを捧げる。しかも毎日だ。

なぜ祈るのか、と当時大学生だった俺は不躾にも彼らに質問を投げかけた。

「神様とお話するためだ。祈るとき、心が穏やかになる」

心が穏やかになる、そう答えるのはイスラム教徒だけではない。

キリスト教徒もヒンドゥー教徒もシク教徒も、みな一様に同じ答えを返す。

彼らの祈りは、願いとは違う。

あくまでも私的な見解だが、願いが欲望の実現を求めるのに対し、祈りは欲望からの解放だ。

神に祈るとき、彼らは我執から解き放たれる。

雑念は消え、神との距離が近くなる。

祈る彼らの体からは圧倒的な生命力が満ち溢れている。

祈りの始点は無私であることだ。

この意味で、瞑想もまた祈りと似ている。

我執から解き放たれ、ただ静かにそこに存在するという点が日の光を浴びて呼吸を始める植物の姿と重なるのだろう。

おもしろい見解だ。