いかにして役立たずを愛するか

大学時代の友人が本を出した。

自費出版なのだけれど、なのだからこそ、どうして本を出す気になったのか気になった。

思い返すと友人はそこそこ以上に面倒くさい男で、どう面倒くさいのか問われると「世界観が面倒くさい」と、同じく大学時代の女友達に評されていた。

彼女から言わせると俺も彼と同じくらい面倒くさい人物として挙げられていたのでショックだった。

友人は本を愛していた。本を読むひとも愛していたのではないかと思う。

俺が本を読んでいると、「それなんの本?」と聞いてくるような男で、実を言うと彼が俺の読んでいる本に興味を持ってくれるのが嬉しかった。

ちなみにそのときはポーランド旅行を終えたばかりだったので、ヒトラーの「我が闘争」を読んでいた。
正直、あまり知られたくなかった。しかもブックオフで100円で買ったやつだから手垢べたべたで読み込まれた様相に見えたに違いない。

とにかく、世界観が面倒くさい友人が自費出版で本を出したので、早速購入して読んだ。面倒くさい世界観全開の本だった。全開というか、全壊という感じだった。

よくもまぁ、些細な日常にこれだけ想いを馳せることができるものだと感心した。

思っていた以上に面倒くさい男だが、愛に溢れた人間なんだなと安易な感想を抱いた。

俺は、大学時代のわずかな期間しか彼を知らなくて、俺が知っていると思い込んでいた彼はものごとに対して好き嫌いが激しく、軽妙なくせに気難しいノッポだった。体長1,8m、主にロマネスコやパプリカを好むが雑食、生息地下北沢、みたいな。

しかし、本を読んでいる途中で、こいつは多分、得手不得手がはっきりしているが、基本的にはすべてが好きにカテゴライズされる面倒くさい男なんだなと思い直した。

ちょっと俺に似ていた。もしかしたら本当に俺は彼と同じくらい面倒くさい男なのかもしれない……。いやだなぁ。

彼の本のなかで特に共感をしたのが「いかにして役立たずを愛するか」というテーマを扱う章だ。

実用的なものとそうでないものを二分化して、そうでないものを切り捨てるような考え方に彼は慨嘆していた。

以下に、引用する。

私たちはしばしば物事を役に立つかどうかで見ている。それは人間に対する視点にしてもそうだ。他者が自分にとって役に立つかどうか。乱暴な言い方だけど、役に立つから、愛せるし、役に立たないなら愛するのは難しい。これは露悪でも優性主義でもなんでもない。


 ただ、これは愛する側の視点に立った話だ。確かに、他者を愛せないことは怖い。しかしながら、他者から愛されないことはもっと怖くないか。


 役に立たないと断じた他者に、そうなるかもしれない自分の姿を見出して、恐れてはいないか。役に立たない誰かを指差して嘲笑するのは、そうだったかもしれない自分を見出しているからではないか。

-省略-

 役に立とうとすることがダメだと言いたいわけではなくて、だから、愛されるために誰かの役に立ったり、愛するために誰かを役に立てたりしていたら、いずれ誰も愛せなくなるし、誰からも愛されなくなるんじゃないかってことが言いたい。

丸橋十二月「眼球で呼吸」

こいつ、本当に愛に溢れてるなぁ。うん、わかるよ。役に立つか立たないかの二元論を擬人化した輩がたまにいるけど、恰好つけてる童貞みたいだよね。

それこそヒトラーみたいだ。
知ってる? あの髭のおっさん、富国強兵するためにまず身体障碍者と知的障碍者を除くとこから始めたんだぜ。すげぇ効率的。狂ってやがる。

俺は、実用的ではない、それなんのために読むの? という本が好きだ。

発酵食品なんて作らないのに8500円もした発酵についてのレシピ本を読むし、クジラの生態についての本も読む。今日はサメの本が届いた。

数学や物理学の歴史について書かれた本を読んで頭が良くなったと勘違いするもの好きだ。

ファッション史も調べるし、たたら製鉄炉の作り方も覚えた。

でも小説は中学卒業以来あまり読んでいない。たまに司馬遼太郎とか池波正太郎を夏休み最終日に宿題をやるように慌ただしく読むことはあるけれど、基本的には小説は読まない。役に立たないから。

カフカの変身もサルトルの嘔吐も、だからなんだ? としか思えなかった。貧相な感性だ。

個人的な見解になるが、多くの小説は問題を解決するものではなく問題を提起するものだ。

俺は本を読む時、かならずなにかしら明確な答えを探して読む。この意味で、小説を読むことは俺にとってあまり有意性がない。

役に立たないから切り捨てるわけではないが、役に立たないものを好んで読もうとはしない。無償の愛は注げない。残念ながら。

それなら、多分、あるいは、どうだろう。私たちにいずれ必要なのは、無償の愛ではなくて、違っていたらごめん、愛着ではないだろうか。できれば双方向の愛着が良い。難儀なことよ。愛着が生まれるには時間がかかるから。愛着って言葉に愛って字が入ってるのは、なんて皮肉だろう。

丸橋十二月「眼球で呼吸」
https://m12gatsu.thebase.in/items/28230655

愛着……。なるほど。

彼の答えがあっているかどうかはこれから検証していくけれど、優しい着眼点だ。

ごめんよ、きみがこんなに優しい考え方の人間だとは知らなかったよ。それを知れただけでも本を買って良かった。

他人への怒り、裏にある嫉妬

関係のない相手に怒るひとの正体

喜怒哀楽の喜びと楽しみの区別難しくね?
その点、怒りってすげーよな、あのひと怒ってるよってすぐにわかる感情だもん。

どういうときに怒るのかによってそのひとの本質がわかるってゴン先生は言っていたけど、正確にはミトおばさんが言っていたらしいけど、いつだってひとが怒るのは自分に関係のあることがらに対してだけだ

他人から侮辱される、お気に入りのスニーカーを踏まれる、自分の親しい人の悪口を言われる。

ところが、一見自分に関係ないことで怒っているひともいる。

電車の中で化粧する女性に憤るひと、不倫をする芸能人を親の仇のごとく中傷するひと、ひどいときは働かない働きアリにまで腹を立てるひとがいる。

どうして自分に関係のないことでもひとは怒りを覚えるのだろうか。

自分が直接被害を受けていないのに他人に対して覚える怒りの正体、それは嫉妬だ。

明記する必要がある。
自分に関係のないことで怒るひとはいない。怒っているとするならば、それは自分に関係あるからだ。

われわれホモ・サピエンスは社会的生物だ。社会的生物には規律が必要である。

ご存知の通り、われわれの社会は常に明記された規律があるわけではない。
そのようなときは、その場において○○してはいけない、△△するべきであるという暗黙の了解がある。

この暗黙の了解に従わなくとも法的に罰されるわけではないが、ついついこの未表記のルールに従ってしまう。

そのすぐ横でこの暗黙の了解を無視するひとがいたとしたら、「え、なんで?信じられない」とか思うんじゃないだろうか。

ほら、文化祭の準備で積極的に手伝わないやつとかいただろ?
みんな結構文句言っていたってあとから聞いたよ。あの時はごめんね。

でも君たちが怒っていたのはさぼっていた俺に対してではなくて、頑張らなくてもいい俺に対する嫉妬だよ。

つまり関係のない他人に怒るのは、自分が守っているルールを破るひとに対する嫉妬からなんだ。

ルールを守るために進化してきたホモ・サピエンス

ルールを守らないひとに対してわれわれは厳しい態度をとる。なぜなら、ルールがなければ集団生活は成立しないからだ。

シロナガスクジラやヒグマとちがって、生きるために群れをなすことを選んだわれわれはそのように進化してきた

「そのように」とはどのようにか、家畜動物との共通点から理解できる。

豚や馬、牛や犬などの家畜が原種と比較すると脳が小さくなっていることをご存知だろうか?

そう、勘のいいあなたなら気が付いただろう。「そのように」とは、集団生活を行うために脳が小さくなる進化をしてきたということだ。

化石を調査すると、家畜化した動物は必ず脳が小さくなっていることがわかる。
犬と狼では30%ほど脳の容量が違う。

脳の縮小にともない、原種に比べて攻撃性が弱く、穏やかになり、社会性が高くなる。

ジャレド・ダイアモンドによると、家畜とは人間によって食料や交配をコントロールされたことで品種改良の過程を経た動物である。

このため、攻撃性の強い横暴な家畜は、他の家畜に悪影響を与えかねないので間引きされる。

そしてこの間引きは社会的生物であるホモ・サピエンスにもあてはまることだ。死刑や刑務所がいい例である。

興味深いことに、脳の容量が縮小しているというのは人間が自らを家畜化していると言えるわけだ。

つまり、われわれは横暴な個体を間引いて脳を縮小することによって、規律を守るように進化してきた。

この進化はあくまでも集団で生き抜くためであり、個が気持ちよく生きるためではない。

集団を優先すると、当然個の欲望を抑制しなければいけないときが来る。
文化祭の準備をサボらなければもう少しクラスに馴染めてたのかな……。

やりたくないことをやる、もしくは、やりたいことをやらない。
自分が我慢している隣で他人が我慢していない様を見たら、そりゃ嫉妬するし怒るわな。

でももっと寛容になろうぜ。嫉妬で怒るのはなんか無駄に労力かかる気しない?
肩のちからを抜いて文化祭の準備をサボるやつを笑って許してやろうぜ。

象-世界を支える柱-

動物が好きだ。
デートコースとして提案すると毎回断られるが動物園に行くのも好きだ。

なかでも熊が一番好きだ。
英語とロシア語で熊の動画を検索するぐらい好きだ。一度は猟師になろうかと思ったぐらい熊が好きなのだが、今日は象について書く。

たまたま手にとった本がよくわからない象の本だったので、象について書く。

ロベール・ド・ロール著「象の物語」

アジア-大切にされた象-

象と聞いたときに思い浮かべるイメージは、大きくて、力強く、なにかほのぼのとした大きな愛情のようなものだ。

事実、インドの俗信の世界では象はしばし雲と同一視される。

ちなみにサンスクリット語の「ナーガ」は蛇のほかに、象と雲を意味する。

インドの象といえば商業の神ガネーシャも有名だ。
ガネーシャの存在は水野忠著「夢をかなえるゾウ」で知ったひとも多いのではないだろうか。

人生を幸せにする方法を関西弁のインド象が教えるロックな自己啓発書

ラオスやミャンマーでは白い象は比類なく尊いものと神聖視され、人間の中で際立って賢いものは、ひとに生まれ変わる直前に白象の段階を経たと信じられている。

森で発見された白象は人間によって丁重に捕獲され、宮中で金銀宝石に囲まれる一生を過ごす

また、白象はその神聖さから裁きの正当性を体現する生物とされ、死刑囚を踏み潰すためにも用いられた。

以上のように象はアジア諸国の宗教において特別な動物だった。

一方で、同じく象が生息するアフリカは、アジアと比較すると象に対して冷淡であるとロベール・ド・ロールは述べる。

アフリカ-殺す対象としての象-

どういうわけか、アフリカでは象がほかの動物を圧して文学や絵画に現れたり、崇拝や恐れの対象にはならなかった。

アジアでは至るところで象が飼育されたのに対して、アフリカでは象を飼育したのもヌビアやエチオピア周辺だけであり、その習慣もこれらの地域から象が姿を消すとともに廃れた。

象が崇拝や恐れの対象にならなかったとは言え、とるにたらない動物と見なされたわけではない。

事実、アフリカのピグミー族、ファン族の一部では象を人格化している。
神格化ではない…。

身長が低いためにピグミー族と呼ばれる

彼らは、長老や力のあるものが死ぬと象に生まれ変わると信じている。
それもただの象ではなく、群れを率いるリーダー象になる

群れのうち数頭を殺しても祟られないように、生まれ変わった象を敬わなければいけない。

あくまでも象を「殺す対象」として考えられている。

アフリカとアジアにおける象への意識の違いはなにからうまれているのか。
ロベール・ド・ロールの主張は独特である。

トラとライオンの生息地の違いだ。

ライオンの生息分布 青(現在の生息分布) 赤(歴史上の生息分布)

アジアにはライオンよりも獰猛なトラが人間の生活圏内にいた。

1900年代のトラの生息分布 アフリカにはトラがいないことがわかる

この地域の人びとにとって、象は恐ろしいトラを追い払ってくれる存在だった。

サンスクリット語の叙事詩には、象に対する虎の恐怖をテーマにした詩もあるほどだ。

実際にトラ狩りでは象が使役されてひとの手助けをしている。

戦闘用大型哺乳類-象-

トラ狩りに用いられた象はまもなくその怪力を認められて戦争にも駆り出された。

漫画キングダムにも登場する戦象さん

戦に象を駆り出したもっとも有名な例はポエニ戦争におけるハンニバルのアルプス越えだろう。

アジア諸国(ミャンマー、ラオス、タイ、カンボジア、ベトナム、中国)でも戦闘用動物として象の重要性が強調されている。

しかし、機動力の低さ・コストパフォーマンスの悪さ(ラクダの3倍の荷物を運べるが、6倍の食欲をもつ)・的の大きさなどから戦象の限界は早いうちに認識された。

戦象は、キングダムでも言及されていたように、象を見たことがない相手に対して有効な初見殺しではあるが、象がパニックを起こすと象使いはなすすべがなくなり、おとなしく殺されるしかない……。

トラ狩りにも駆り出された象を、犬や馬のように戦闘用に調教できなかったのはなぜか。

これを理解するためには犬と馬が家畜化できたのに対して、象は家畜化されなかったということを押さえる必要がある。

家畜になれなかった象

象が家畜ではないと聞くと、その主張は間違っているように感じるかもしれない。

タイやインドに行けば、ラクダや馬と同じように、象に乗って移動するひとを日常的に見ることできる。
そのうえ、象は器用なので鼻先で筆を持って絵も描ける。

これほど訓練される象が家畜ではないというのは一体どういうことか。

歴史学者ジャレド・ダイアモンドによると「家畜とは、人間の役に立つように食料や交配をコントロールし、選抜的に繁殖させて、野生の原種から作り出した動物」である。

つまり、動物が家畜化されていく過程で、人間による品種改良がされる。

象は、人間によって飼い慣らされた使役動物ではあるが、品種改良はされていない。

使役化までできたのだから、家畜化することで戦闘用としてさらに優れた品種に改良できる可能性は高い。

しかし、実際問題として象のように成長に時間がかかりすぎる動物は家畜化する意味があまりない。

一人前の大きさになるまで15年も待たなければいけない動物を飼育しようと考える牧場主がいるだろうか。
*参考までに、象は1日あたり200㎏の餌を必要とし、100ℓ以上の水を飲む。

小象を育てるより、成長した野生の象を捕まえて飼い慣らしたほうが安上がりであることは自明の理であり、アジアでは実際にそうしている。

思いがけず象について多くを学べたが、象を語るのであれば象牙の密猟問題を避けることは出来ない……のだが、長くなってしまったので別の機会にさせてほしい。

もしも象牙問題に興味がある人がいれば三浦英之著「牙 アフリカゾウの「密猟組織」を追って」を推奨する。

本書では象牙の密猟を促進させているのは日本だというショッキングな事実が語られている。

興味のないもの、関係のないことだと割り切っているその態度こそが、問題を重大化させている場合がある。

日常生活に役に立たない本を読む利点は、こういうことに気付くきっかけを与えてくれることだ。

では、また。

生命を救う金属

武力の象徴としての鉄

鉄、すべての金属のなかで特異的に総量の多い元素であり、地球の重量の30%を占める。
青銅製の武器をことごとく粉砕し、青銅器時代を終わらせた征服の金属。

製鉄技術を持たなかったインカ帝国は、鉄器を装備したスペイン軍の一隊によって滅ぼされた。

武力としての鉄の有用性はドイツ統一の立役者であるビスマルクの鉄血演説のなかでも強調されている。

現在の問題は演説や多数決 ―これが1848年から1849年の大きな過ちであったが― によってではなく、鉄と血によってのみ解決される。

1862年9月30日プロイセン衆議院予算委員会での演説

生涯で2000回以上浣腸をした太陽王ルイ14世が「朕は国家なり」と発言した一方で、ビスマルクは「鉄は国家なり」と考えた。
この時代、鉄は国家の土台だった。

鉄器時代到来以降、刀や槍の原料として用いられた鉄は、近代戦争においてさらに必要性を増していく。

近代戦争では巨大戦艦と大砲が主力となり、その脅威から兵士を守る鉄兜が大量生産され、戦争は鉄と鉄の戦いとなっていった。

鉄の歴史は製鉄炉の歴史

製鉄技術が武力をそのまま表すとすれば、鉄の発展は人類の発展に直結する

金やプラチナとちがって鉄は希少性も低く、ごく一部の地域を除けば世界中どこでも入手することが可能だ。

インカ帝国などの特定の地域で製鉄技術が発展しなかった理由はなんだろうか。

「銃・病原菌・鉄」の著者ジャレド・ダイアモンドによると、食料の過剰生産ができず、技術者を育成する余裕がなかったことが金属加工技術の格差をつくった原因である。

製鉄技術が文明の発展に及ぼした影響を調べようとすると、どうしても製鉄炉の変遷に行きつく。

おかげさまで製鉄炉の仕組みと作り方を学ぶことになったが、どう料理しても面白おかしく伝えることができない……。
というか、どの本読んでも半分以上(ひどいと8割)は製鉄炉についてだった。

製鉄炉は、鉄鉱石を燃やす炉である。なんの意外性もない。

鉄の融点は1536℃なので、製鉄炉の変遷とは炉内の温度をいかに高くして、連続生産を可能な構造にするための工夫である。

炉内を高温に熱して、鉄鉱石から鉄以外の不純物を取り除き、純度の高い鉄を生産する。
ところが、純粋な鉄(純鉄)は軟らかいため、純鉄を作るのは製鉄炉の役割ではない。

製鉄炉の役割はをつくることにある。
鋼とは、炭素含有量が2%以下の鉄を示す。

鋼のなかでも炭素の含有量によって名称が異なり……いや、製鉄炉の話はこのあたりで終わりにしよう。
興味を持ってもらえるよう伝える技術が足りない。
そのうち友人を巻き込んで製鉄炉を自作してみるのでそのときにまたブログに詳細を書こうと思う。

とにかく、製鉄炉で鉄を溶かすのは鉄鉱石から不純物を取り除くためだということだけ知ってもらえればよい。

「悪金」と呼ばれた鉄

純粋な鉄を溶かすために必要な温度は1500℃以上。
製鉄炉内で、鉄鉱石が1500℃まで温まるまでに(ここまでくると温まるというには違和感があるが)、鉄鉱石に含まれた不純物は融点の違いから鉄より先に溶けるか気体になる。

製鉄過程において鉄の最大の不純物は酸素だ。
鉄の原料である鉄鉱石はいわば酸化鉄である。

酸素が金属に結び付く酸化現象を、我々は「錆びる」という。

塗料の下からのぞく錆

錆びた鉄を見たことがないというひとは珍しいのではないか。
小学校の校庭で遊具を使用したことがあれば必ずといってもいいほど、酸化した鉄製の遊具と接する。

そして、われわれは錆びた遊具を見るなどして、普段の生活のなかで鉄は錆びやすい金属であるということを学ぶ。

鉄から酸素を取り除く技術が発達していない時代、鉄はすぐに脆くなるため中国では「悪金」と呼ばれて、青銅(美金)と区別されていた。

ちなみに酸化鉄から酸素を取り除くために必要な温度が400~800℃であり、青銅(銅と錫の合金)の融点は700℃程である。
どちらの金属がより簡単に扱えるかは明らかだ。

事実、青銅器は現代でもきれいな形で遺っているが、鉄器は遺っていても酸化してぼろぼろになっている。

比較的きれいな状態で保管されていてもぼろぼろな鉄器

いや、ちょっと待て。インドに1500年以上前につくられた錆びない鉄塔があると聞いたことがある。
あれはたしか、不純物の無い純粋な鉄でできているから錆びないのではなかったか。

チャンドラバルマンの鉄塔

この鉄塔の成分を調べたところ99.72%が鉄で出来ていることがわかっている。
残念ながらこの程度の純鉄であれば簡単に作れるし、50年ほど雨ざらせば錆びてしまう。
純鉄だから錆びないというのは迷信だ。

インドの鉄塔が1500年以上錆びない理由は表面がリン酸化合物でコーティングされているからだとか諸説あるが真実はわかっていない。

物質は与えられた条件下でもっとも安定した形をとろうとする。
つまり、鉄は酸化することで安定するのであり、このため銅や銀のように自然銅・自然銀と呼ばれるような自然鉄というものは存在しない。

人体のなかの鉄

突然だが、あなたは何分くらい水中に潜れるだろうか?
5分?素晴らしい記録だ。

ギネス記録を見るとどうだろう。驚くことなかれ、なんと24分3秒だ!
*Youtubeで動画をみることができる24分間ずっと潜っているだけで起承転結をぶん投げたクレイジーな動画だ。

なぜわれわれは水中に長時間潜ることができないか。酸素がないからだ。

地上にいる時、われわれは口と鼻をつかって酸素を取り込む。取り込んだ酸素は肺から全身に運搬される。

このとき、酸素の運搬を助けるのが鉄だ。

血中にはヘモグロビンという鉄分子を含んだタンパク質が存在する。
ヘモグロビンは、酸素と結びつきやすいという鉄の性質を活かし、肺で酸素と結合し全身に酸素を運搬する。

ヘモグロビンの量が少ないと、全身に供給される酸素量も減少するのでめまいや立ちくらみを起こしやすくなる。
この症状を貧血という

鉄がいかに人体に必要不可欠なものか理解してもらえただろうか。

悪金と呼ばれた鉄は、その悪名の云われとなった性質を利用して人体で大活躍している。

酸化しやすいという短所を克服する技術としての製鉄、短所を利用したヘモグロビン。
役に立てない環境はあっても、役に立たないものはないのだ。

では、また…と締めくくりたいところだが、せっかくなのでヘモグロビンの特性と、とんでも医療についても少しだけ触れたい。

鉄は錆びると赤くなる。(錆び方には2種類あるが、ここでは赤錆についてのみ書く)

酸素と結びついたヘモグロビンは赤くなるため、動脈の血(全身に酸素を運搬中)は赤く、静脈の血(運搬が終わったので肺に帰宅中)は黒い。

ちまたでは静脈から抜いた血液にオゾン(酸素)を注入して赤くした血をまた体内に戻す血液クレンジングとかいう世にも奇妙な医療が一瞬だけ話題になっていたが、上記の仕組みを理解していればこの医療に金を払うのがいかに馬鹿げているかわかる。

普通に呼吸していれば血液クレンジングだ。
とは言え、目の前で自分のどす黒い血が鮮やかな赤に変わっていく様子を見れば非常に良い医療のように感じてしまうのもわからなくはない。

では、また。