独白するだけのゴリラになりたい。あと平穏に生きたい。
結婚式の打ち合わせに行ってきたので、愛について改めて思うことを整理してみる。
自分は妻が大好きだ。天の川銀河で一番愛している。だが、妻よりも大切にしている人間がいる。
自分自身である。
誰かを愛するということは、その人を1番大切にすることではなく、1番と2番の間にその人が入ることだと思う。
どれだけ利他的であろうと、自己犠牲をしようと、人間は自身以上に他人を大切にすることはできない。
なぜなら我々には主体的な意識があり、客観的に見て自己犠牲を払うひとでさえ、主観的に見れば「自己犠牲を払わないことが、自己犠牲を払うことよりも耐え難い」がためにそうするのである。
例えば親友の命を救うために自らの心臓を臓器移植してもよいという人間がいたとする。
当然心臓を移植すれば彼は死ぬだろう。彼は自分よりも親友の命を優先した素晴らしい人格者だ。
命において、彼は親友の方が自分より価値があると思ったかもしれないが、彼個人の中で天秤にかけられていたのは、彼の命と親友の命ではない。
彼の天秤が量っていたのは、心臓移植しないことによる損益と、心臓移植することによる損益である。
仮に心臓移植をせず、親友を喪ったとする。
助けることのできた親友の存在は彼の頭の片隅から消えることはなく、他人からは親友を見捨てた男とレッテルを張られるかもしれない。
それを思うと彼は罪悪感を抱えたまま生きることよりも、意味のある死を選び、誉れ高い存在となる方がよっぽど楽な生き方だと思った(のかもしれない)。
だから彼は、親友の命を優先したが、同時に自分の存在を死よりも大切にしたのだ。
この考え方は、マーク・トゥウェインの「人間とは何か」という本を読んでもらえばより深く納得してもらえるだろう。
自分が言いたいことは、人間は誰しも利己的である、ということではない。
ひとは自らを最も大切に扱うが、愛は限定的にその序列に他者を組み込ませるということを声を大にして言いたい。
大切にするひとの順位不動の1位は自分。これは揺るぎないものとして理解していただきたい。
では愛する人間は2位かと言うとそれも違う。
愛とはある種の同一化である。誰かを愛することにより、愛の対象を自分事のように扱うことができる。
しかし、相手を丸ごと自分のように扱うことはできないので、愛する主体がある以上、愛の対象が1位になることはできない。
だが愛によって相手を部分的に自己と同一化できるのだから、その「部分」は「自己」である。
このため愛の対象は2位を越えて1位に食い込み、1位と2位の間、つまり、1.999~以下位になる。
これが1.001位でもいいし、1.999位でもいい。
他者を部分的に自己と同列に扱うことが出来たとしたら、それは紛れもなく愛であると自分は考える。