わかりあえなさをわかりあう

根源的なわかりあえなさ

酔いどれ詩人の肩書を持つ友人の勧めでトランスレーションズ展を観てきた。

展示会入り口の横に主催者のドミニク・チェンによる展示会の趣旨の説明がされている。

「わたしたちのコミュニケーションには、根源的な「わかりあえなさ」が横たわっています。それでも、わたしたちは互いの「言葉にできなさ」をわかりあうことはできます。

別の言い方をすれば、わたしたちがどのように自分の感覚を翻訳しようとしているのか、という過程についてもっと知ることができれば、「わかりあえなさをわかりあう」ことができるでしょう」

ドミニクの言う「根源的なわかりあえなさ」の存在を知覚していないひとと遭遇することが多くなった気がする。

自分の意見や主張を言葉にして伝えれば、わかってもらえるという思いが強いのだと推測している。

みなさん、言葉のちからを信じすぎていやしないかいと思う今日この頃だ。

言葉の強さ

三浦雅士は「孤独の発明」のなかで言語が自分さえも俯瞰する視点を与えた、と記した。

相手と自分がいるという状況を言語を持って説明するとき、自分の肉体から離れた第3の視点が必要になる。この役割を担うのが言語だ。

つまり、言語は自分が実際に目にしていないものも、言葉にすることで形作ることができてしまう。言葉とはなんてすごいのか。

だが俺は、言葉なんてものがあるから、わかりあえないのではないかと思っている。

もっと正確に言えば、言葉が通じれば気持ちが通じるという幻想に多くのひとが振り回されていると思っている。

我々は当たり前のように目に見えない気持ちを翻訳して言葉にする。そうすることでコミュニケーションを成立させてきた。

だが、自分の気持ちを100%間違いのない言葉にできたことがこれまで何度あっただろうか。

美しいものを見た時の感想を言葉にしたとして、自分の感動を一分の狂いもなく言葉で伝えることができただろうか。

また、間違った言葉にすることで気持ちや感覚が引っ張られたケースもよく見る。

「ここは今から倫理です」の25話で非常にわかりやすくまとめられているので、拝借させてもらう。

酔いどれ詩人は「言葉を尽くせ」と言っていた。思うに、そうでなければ、俺たちは言葉に騙されてしまうから。

翻訳とは何か

言葉に騙される、とは言い得て妙だ。残念ながら言葉は事実を正しく伝えることができない。

言葉が発せられるとき、それは何かが翻訳されたときだ。

 トランスレーションズ展は名前の通り「翻訳」を主軸に添えているが、その解釈は幅広い。

言葉の翻訳から、感覚の翻訳、文化の翻訳などAからBへの変換のつながりをすべて翻訳としている

例えば目の見えないひとに色を伝えるのも翻訳であり、ジェスチャーでものを表現するのも翻訳だ。

翻訳とは錦を裏側から見るようなものだと言っていたのは誰だったかな。
昔読んだ英語学習の本のどこかに書いてあって、いたく共感したことだけを憶えている。

言語を介して気持ちを翻訳するときも同じで、翻訳とは往々にしてズレが生じるものだ。

だから「エモい」って言葉を初めて知ったとき、潔さに感心してしまった。
いっそ翻訳の放棄だと思ったね。

どうせ言葉にしてしまえば事実とズレるのだから、むしろ言葉を少なくして少なくして3文字どころか0文字にしてしまうのはアリなのかもしれない。

哲学における問題をすべて解決したと豪語したウィトゲンシュタインだって言っていたじゃないか。語り得ぬものについては沈黙しなければならない、と。

まぁ、上述の内容もそうだが、俺たちはしばし日常生活のなかで言葉を信頼しすぎているのではないかと思う。

それはつまり、自分の感覚を精確に翻訳できていると疑わないからだ。

いや、初めて気づいたときには驚いたもんだけれど、俺たちって自分の感覚や気持ちでさえうまく翻訳できていないっぽいのよ。

「言葉を雑に扱うということは、世界のとらえ方が雑ということだ」と、これもウィトゲンシュタインは言ったセリフだ。うそうそ、言ったのはうちの奥さん。

適当に発言する旦那を注意するときによく使う言葉だ。

バーっと感想書いただけだから、まとめるのが難しいな……。

つまりトランスレーションズ展でどんな感想を抱いたかというと、翻訳は広い意味で弱い変換であり、翻訳を介して本質がやや捻じれていく。

それでも、俺たちは種々様々なものと翻訳を介して繋がることができるんだよね。多分に誤解を含みながら。

酔いどれ詩人は言葉を尽くせと言っていたが、やつの気持ちもわからんでもない。いや、多分誤訳しているんだけどね。

キャンプに行こう。仕事を忘れて

大学を卒業してから数年が経った。

皆一様に仕事に打ち込んでいるためか、久しぶりに知人友人に会うと仕事の話がメインになることが多い。

今となってはそこまでではないが、1~2年前までは「酒がまずくなるからつまらねぇ話をするな」とアグレッシブに批判していた。

他人の話を聞くのは嫌いではないし、そいつが何に興味を持っているのかを知るのは大好きだ。でも仕事の話はその限りではない。

なぜ仕事の話を好まないのか。

仕事の話をする場合、ひとは大抵、会社から与えられた役割について語っているからだ。

以前、酒の席で少年マンガよろしくこんなセリフを吐いたことがある。

「与えられた役割でお前を語るな。お前の言葉でお前を語れよ」

この言葉に俺が仕事の話を好まない理由が集約されている。

俺は、他人が自身のストーリーを語ってくれるのが好きだし、まだ知らぬ一面を話してくれる相手を愛している。

これらはあくまでも本人にしか語り得ぬ本人のアイデンティティに関わる話だ。

一方で、仕事の話というのは前述の通り会社から与えられた役割説明であり、「お前」以外からも聞ける話だ。

もちろん休日に仕事の勉強をすることは素晴らしい。残業をして仕事のクオリティを上げるそのこだわりやプロフェッショナルとしての矜持にも感嘆する。

仮に仕事の話をするならば、この辺りの話を詳しく聞かせてほしい。お前が何を思って、何を目指して、何を犠牲にして、積み重ねたものは何だったのか。

取引先の会社の名前とか福利厚生の充実とか動かした金額のでかさとか……情緒のない情報を語るために杯を交わすな

お前が誰で、何を考え、どうなりたいのかを語るのにいちいち役割を引き合いに出すな。そんな会社から与えられたバッチを磨かなくったって、俺はお前に興味があるし、お前の物語を聞きたいよ。

 例えば俺はよく「最近読んで面白かった本とか映画とかの話」を最初の話題にする。

そして、その作品についてどう感情を動かされたのか、何が一番印象的だったのか、という個人の哲学や価値観に関連する話に繋がるように誘導する。

この時に仕事関連の本を読んだという話をされると非常に手前勝手ながらマジで冷める。

だってそれは必要性に駆られたインプットであって、個人の趣味や嗜好とは関係がないだろ?

例えばビジネス書を月に3冊読む努力家がいたとして、彼ないし彼女は年間36冊の本を読む計算になるが、読書家というのは違う気がする。

自分に不足しているものを自覚して学ぶ姿勢は尊い。その人間がどのような人格であろうと、向上心のある素晴らしい人物だ(まぁ、実際はどうだか知らないが)。

だが、俺は不必要なインプットにこそ、そいつ個人の哲学や思想、嗜好が顕在化すると思うし、その類の話が大好物だ。

必要性に駆られたインプットが生活の質を維持するためのものだとすると、不必要なインプットは教養を高めるためのものだ。

利害を度外視して、ただ自分の興味を追求する。こういうやつと飲む酒は最高。

実は俺には仕事におけるアドバイザーのような友人がいるのだが、彼と仕事の話以外にも様々なことを話す。

なかでも天皇の家系図と来賓に出す料理についての話が盛り上がった。

教養の一環としてその本を読んだらしいのだが、教養を高めるためにまず天皇の内情を知ろうとしたことが面白い。

その他に、お笑いと映画に詳しい同級生や詩人の肩書を持つ友人(詩人!)、年収1000万あるのに借金の返済を後回しにするカメレオン俳優など、彼らの偏ったものの見方や言語表現が愛おしい。
ずっと一緒に酒を飲んでいたい(2/3が下戸だが)。

ディズニーファンである大学の同級生の「アナと雪の女王」におけるアナ批判も面白かった。

長くなってしまったが、要するに「与えられた役割の話じゃなくて、お前の偏見を肴に酌み交わそうぜ」ということが言いたい。

夏もようやくくたばってキャンプシーズンが到来してきた。親父の私物だが、6人分くらいのキャンプ用具が一式揃っているので、手ぶらでキャンプしに来いよ。

ビール片手に焚火を囲いながらお前の話を聞かせてくれ。
ついでにマシュマロでも焼くか?

思ったことをすぐ口にしてしまうひとの配慮と思慮のなさ

もう辞めた会社にいた新人が凄まじかった。

コロナ流行に伴い在宅勤務を中心にしていたので彼女に直接会ったのは片手で数えるほどしかないが、それでも凄まじかった。

何が凄まじいかというと、「キミ、よくその純粋さのままで四半世紀以上生き残ってこれたね」という自己中心っぷりである。

普通、20年以上も生きていればな100%自分本位に生きるのは難しい。

他人との協力なしにひとは生きることができない。

「学生」というラベルが外れた成人に周りはいつまでも見返りのない協力はしないので、遅かれ早かれ社会に出る頃には“自分本位に生きるために相手に配慮する”という処世術を身につける。

ところが、彼女は違った。

一人一宇宙の創造主であり、他人の宇宙も自分の宇宙を輝かせるためにあると疑いなく信じている。

「わたし営業担当なので書類仕事はしたくありません」と教育係に言い放ち、仕事にミスがあったと発覚すれば「完璧にやったので絶対にミスなんかありません」と渋面するドクターXのパチモン。

*書類仕事も営業の仕事範囲だし、普通にミスもしていたし、営業としての打ち合わせはしていない

すげぇぜ。天空神ばりの威風堂々。

やつら、人間との生活に関わりがなくて結果的に礼拝されないデウス・オティオースス(暇な神)だからなぁ。

その点も類似してるよ。

その他にも彼女の打ち立てた偉業が耳にはいっているが、今後関わることもないのでそこには触れないでおく。

今回引っかかっているのは事あるごとに彼女の口から出ていたある言葉だ。

「わたし思ったことはすぐ口にしちゃうんですよね」

おそらく彼女と直接知り合いでなくとも、彼女以外のひとから聞いたことのある言葉だと思う。

このセリフを吐くやつは要注意人物だ。なぜなら、基本的に思慮と配慮に欠けているひとが好んで使う言葉だからである。

第一に、思慮に欠けている理由は簡単。

外部の刺激に対して咀嚼と思考を媒介せずに反射だけで感想を述べているからだ。

物事を理解するための咀嚼と、それに対する考察(思考)をする習慣がないということが、思慮のなさを物語っている。

気心の知れた友人とのお茶会ならまだしも、ビジネスの場では歓迎されない。

会社の飲み会でも隣に座りたくないね。帰れ。

 思慮の欠如は理解してもらえたと思う。配慮の欠如はどうか。

まず「思ったことはすぐ口にしちゃうんですよね」という発言がされる経緯がどんな時だったかを思い返してみた。

「えー、なんか生地が薄くてパジャマみたいですね」
*打ち合わせがないのでスーツではなく適当な私服で会社にきた先輩に向けて

「ちょっと疲れたので、この後の説明はメモとらなくていいですか?」
*仕事についてレクチャーしていた先輩に向けて

脊髄反射で失礼な発言をした直後にこの言葉が使用される頻度が多い。
つまり、この言葉には自己弁解的な性質が含まれている。

その性質を括弧内で表現すると、以下のようになる。

「わたし、思ったことはすぐ口にしちゃうんですよね(だから、悪気があったわけではありません)

うるせぇ、ぶっ飛ばすぞ。
裏表がないことと無礼を混同視するな、ボケ。

つまり何が言いたいかというと、この言葉が使用されている時点で相手への配慮に欠けた言葉が直前で繰り出された可能性が高い。

また、常日頃この調子のやつが外部刺激に応じた脊髄反射で紡ぐ言葉に配慮があるわけがないということだ。

以上を持って、「思ったことはすぐ口にしちゃうんですよね」=思慮と配慮の欠如の証明を完了した。

会社の新人のことはよく知らないので、あくまでもこの言葉の裏にある性格の考察であることをここで断っておく。

 裏表がないことと無礼を混同視するなと前述したが、このふたつの違いも思慮と配慮の有無に起因する。

YouTube芸人のフワちゃんが全方向に対してタメ口でも芸能界の第一線で活躍しているのは、全方向に対して思慮と配慮があるからだ。

他人を貶める発言がなく、いじられても痛くない場所を絶妙なタイミングでいじり、番組全体が面白くなるために前に出過ぎない。

個人的に、フワちゃんの最も長けている能力は“全体構造の把握”だと思っている。

番組中にメタ的な発言が多いのもこれに所以する。

この天下一品の能力を持って、置かれているシチュエーションのルールを把握しつつ、そのなかで遺恨をのこさずに大騒ぎするのが上手い。

彼女の発言の数々を見れば、その発言に至るまでにどれだけの思慮と配慮を重ねているのかが見えてくる。

別にフワちゃんの知り合いでもファンでもないが、「思ったことはすぐ口にしちゃう」ということを口にしちゃうやつは全員フワちゃんのYouTubeチャンネル登録してから口を開け。

Youtubeでフワちゃん見たことないから内容知らないけど、多分思慮と配慮が読み取れるよ。きっとね。知らんけど。

植物と祈りの類似性

 スリランカの山頂で祈るヒンドゥー教徒を見た。

手を合わせて、じっと動かず、ひたすら真摯に朝日に向かって祈りを捧げる。

その静けさに植物のようなちからを感じた。

同級生の撮った写真@スリー・パーダ

高校時代の同級生の体験談だ。彼女は大学を卒業して5年経つ今も世界を放浪している。

スリー・パーダの麓

祈りの空間を満たす静けさ生命力

 彼女の独特な見解によれば、祈るひとと植物は似ている

ひとが祈りを捧げているとき、その空間は静謐と生命力に埋め尽くされる。

手を合わせ、目と口を閉じ、微動だにせずただ力強く祈る。

祈りを捧げるひとびとからはいつも生命力が溢れている。

 ひとの祈りを見て初めて驚愕したのはエジプトだった。

巨大なモスクのなかでひとびとが同じ方向にむかって祈りを捧げる。しかも毎日だ。

なぜ祈るのか、と当時大学生だった俺は不躾にも彼らに質問を投げかけた。

「神様とお話するためだ。祈るとき、心が穏やかになる」

心が穏やかになる、そう答えるのはイスラム教徒だけではない。

キリスト教徒もヒンドゥー教徒もシク教徒も、みな一様に同じ答えを返す。

彼らの祈りは、願いとは違う。

あくまでも私的な見解だが、願いが欲望の実現を求めるのに対し、祈りは欲望からの解放だ。

神に祈るとき、彼らは我執から解き放たれる。

雑念は消え、神との距離が近くなる。

祈る彼らの体からは圧倒的な生命力が満ち溢れている。

祈りの始点は無私であることだ。

この意味で、瞑想もまた祈りと似ている。

我執から解き放たれ、ただ静かにそこに存在するという点が日の光を浴びて呼吸を始める植物の姿と重なるのだろう。

おもしろい見解だ。

ひとは友人を失い続ける

 俺は、多分ものすごく傲慢な人間なんだと思う。

散々他人に自分のことを知って欲しいと思って20代前半で一方的に広長舌をふるまったくせに、20代後半にはいって今度は他人に広長舌を強要している。

他人のことが知りたい。あなたのことが知りたい。

旧知の友人と親交を深めたいし、新しい友人も欲しい。

 俺は、いや多分俺だけじゃないけど、他人を既知のカテゴリに振り分けて勝手に理解した気になっていた。

これまで出会ったひとの特徴を抽象化して、こういうふるまいをするひとはAタイプ。ああいうふるまいをするひとはBタイプ、といった具合に。

でも、それって結局は相手のことを知る努力を怠っているだけなんじゃないだろうか?

俺たちはいつも目の前の相手を見ているようで、抽象化した過去の誰かを見ているような気がする。

過去の誰かを見ることの厄介な点は、過去から今における成長を考慮しないことだ。

 小学校の同級生だったガキ大将が、20年近く経った今でも同じ性格をしているはずがないのに、みんなが彼にガキ大将の面影を幻視する。

俺は、ガキ大将じゃなくなった今の彼のことを知りたい。
よく知っていると思い込んでいる地元の仲間が今考えていることを知りたい。

毎年恒例の年末年始の地元の集まりを、「時間の無駄だと」切り捨てるのはもうやめたい。

青春を分かち合った仲間との破綻

 自慢をさせてほしい。俺は片田舎の無名のサッカー部に所属していたのだが、俺の代の弱小サッカー部が県大会を制覇したことがある。

俺の代の部員数は12人で、ひとつ下の代を含めて20人ほどしかいなかった。

実のところ、サッカーは数あるスポーツのなかでも競技人口が世界で2番目に多い。

俺が学生だった当時の県大会に参加していた学校が400校近くあり、簡単な計算をすれば400×11(プレイヤー数)、さらに学校は3学年あるのでここに×3をすると13200人以上がしのぎを削っていた計算になる。

俺たちは、13200人の頂点に立つ11人だった。

さらに付け加えると、県大会には私立の無茶苦茶強いサッカー部があって、こいつらは県大会を7連覇だか、8連覇の最中だった。

このエリート連中を下して県大会を制覇したのが片田舎の公立サッカー部だった俺たちだ。

ドラマのような青春だった。最高の仲間たちが揃って、一丸となってひとつの夢を叶えようと努力した。

かつての仲間たちは、今でも最高の仲間たちだ……とはならなかった。

 つい最近LINEのトーク履歴を遡ったとき、この1年間で個人的に連絡をとったサッカー部員がひとりしかいなかったことに愕然とした。

後輩をふくめると2人になるのだが、そいつは俺の実の弟なのでさすがカウントできない……。 

3年間ともに汗を流し、最終的に10000人以上の頂点に立った11人の仲間が、仲間じゃなくなっていた。

絶望した。涙も出なかった。取り返しのつかないことをしでかしてしまったと思った。

……でも、これは俺だけの話ではないと思う。

学生の頃はめちゃくちゃ仲良くて、部活や学際なんかで心をひとつにした仲間、当時はこいつらがいれば無敵だとすら思ったその友人たちは今でも同じ距離にいますか?

社会人になってから、かつての最高の仲間たちと何回会いましたか?

彼らは今でも最高の仲間ですか?

ひとは友人を失い続ける

 2016年にイギリスの心理学会が1万5千人からとったアンケートをもとに発表した研究によると、親しい友達を持ち、社会的に親密なつながりがある人ほど幸福度が高いだけでなく、より健康的であるということがわかっている。

友人というのは精神面だけでなく身体面でも非常に大切な存在であることがこの研究からわかる。

ところが、内閣府の調査やいくつかの研究データを調べたところ、どの研究データも学生時代に比べて社会人は友達が減るということを示している。

 ニューヨーク大学のアイリーン・レバイン教授は、われわれが友人を失い続ける理由について、「人はそれぞれの方向で成長していく。成長に従って、他人との共通点が少なることが原因だ」と説明している。

正しいと思う。

会社に所属し、同僚を友人と呼ぶのは幼稚な考えだが、突き詰めていく先で友情のようなものが生まれるのは事実だ。

だが、それとかつて親しくしていた友人が減っていくことを許容するのは別だ!

俺は、仲間が仲間でなくなることを「仕方がない」と諦めたくはない。

年に一度の集まりで、1年前と同じ内容の話をするつもりは毛頭ないが、彼らとの交友を積極的に切り捨てるのは嫌だ。

いや、確かに、一時期は切り捨てようとしていたのも事実だ。

だが、それは壊れたレコードテープのように、同じ話をすることが時間の無駄だと判断しただけで、彼らと築き上げた関係を切り捨てたつもりはまったくない。

 学生時代に築いた友情がどれ程貴重なのかを示す研究がある。 

この研究によると、他人に対して親密度を高めるには50時間以上の時間を共有する必要があり、親友となるためにはさらに150時間以上の時間が必要だということが判明している。

言うまでもなく、日々仕事に追われる多忙なわれわれが新しい知り合いと150時間を共有することは難しい。

つまり、学生時代に意図せずして築き上げた関係は非常に貴重だと言いたい。

友人を失わないために

 日本人に「あなたの仲の良い友人はなんにんいますか?}と問えば、平均的に8人だという答えが返ってくる。

この場合の「仲の良い友人」の定義はひとそれぞれだが、8人というのは少ない気がする。

生物学的な観点から言うと、霊長類は最大で150人までの団体であれば全体がコミュニケーションをとってうまく生活することができる

有名なダンパー数というやつだ。

つまり、新しい友人を作るために旧知の仲をわざわざ切らなくても、むしろ旧知の友人も含めて、実感よりもはるかに多い数の人間とコミュニケーションをとり続けることができる。

だから俺は友人の輪を強化したい。

関係の持続ではない、強化である。

ウォルト・ディズニーの格言の通り、現状維持は退歩と同義だ。環境が刻一刻と変化していくなかで、これまでと変わらない関係を続けていくことは難しい。

積極的に友好関係を強化することによって、関係の強化が必要だと断言する。

そのために必要なのは、能動的な自己開示だと思う。

自分がどういう人間で、日々なにを思っているのかを開けっ広げに伝えることで、返報性の法則に従って相手も自己開示をしてくれるようになる。

いつもと同じ居酒屋で、いつもと同じ話をすることは楽しいけど、関係を強化するには足りない。

 実を言えば、俺はサッカー部のメンバーの好きな食べ物や趣味についてひとつも知らない。

当然、彼らがどんな考えで今キャリアを積んでいるかも知らない。

俺が質問しなかったし、彼らも俺の前でそういうことを話す機会がなかったからだと思っている。

でも、彼らの内面をもっと深く知ろうとしていれば、LINEのトーク履歴は今と違っていたはずだ。

各々の内面をより深く知る事によって、その人間のもつ信念や哲学を面白いと思えたら、そういう人とは長く友人関係を続けたくなる。

 だから俺はひとに自らの信念や哲学を語ってほしいし、そういう場を作りたい。

今、仲間内でオンラインプレゼン大会や読書会、ビブリオバトルなどを実践している。

興味があるひとには遠慮なく連絡をして欲しいし、旧知の仲でないひととも繋がりたい。

 エリック・G・ウィルソンは世界と豊かに繋がりたい欲求のことを憂鬱状態であると定義した

彼の見解に従えば、俺はきっと憂鬱なのだろう。

願わくば、同じく憂鬱なあなたの話を聞かせてほしい。

セックスにおける対等性と動物性愛のはなし

おもしろい話がある。

異性愛も同性愛も肯定するひとが、両性愛については否定することがあるらしい。

性の多様性が認められつつある現代社会において、なんでもかんでも許容することは正しいのだろうか?

われわれは、今一度セックスについて真剣に考えるべき、そういう時代にいるのではないだろうか?

動物性愛の不道徳性

 濱野ちひろの「聖なるズー」を読んだ。動物とセックスをするひとたちの話だ。

しかし、メインテーマは動物を愛する奇異なひとの実態ではなく、愛とセックスの対等性についてだったように俺は思う。

 動物に性的魅力を感じる趣向のひとのことをズー(ズーファイル)と呼ぶ。

動物とのセックスと聞くと、おそらく多くのひとは不道徳的なものを感じるのではないだろうか。

事実、旧約聖書では動物とセックスをした人間もその相手の動物も死ななければいけないと書かれている。

アメリカの動物権利団体PETAは「動物とのセックスは動物へのレイプである」と激しく動物性愛を糾弾し、欧州では全面的にではないにしろ、動物とのセックスを法律で取り締めている。

なぜ人間同士のセックスは良くて、動物とのセックスは悪いのか。

答えは対等性の欠如だ

つまりズーが内に秘める不道徳性は、人間と動物が対等な存在ではないということに起因する。

動物との対等なセックス

 人間と動物の対等性を妨げるものは言語である。

動物が人間に対して明確なコミュニケーションをとれない以上、ズーとそのパートナーとのセックスに性的同意があったか否かを第三者は判断できない

これこそが動物とのセックスにおける不道徳性の正体だ。

*ただし、「聖なるズー」を読むと、性的同意がないとは言えないのではないかと考えるようになる。

 性的同意を欠いたセックスは、しばし人間同士のセックスでも問題とされる。

実際にスウェーデンでは2018年に明確な性的同意のないセックスはレイプとするという法律が成立している。

常に性的同意を欠いた(ように第三者からは見える)状況にあるズーは、いかにしてこの問題を克服するのか。

 結論として、動物のペニスを挿入される側に人間が立つことによって動物が積極的にセックスを始めたと、彼らは言う。

「聖なるズー」で濱野氏が聞き取り調査を行ったズーは22人(男性19人/女性3人)、そして男性19人中13人がパッシブパートである。

動物との対等性を重視しているズーの多くがパッシブ・パートに立つことは納得がいく。

なぜなら、パッシブパートのひとがセックスにおいて得る喜びは、支配者側の立場から降りることで、パートナーとの対等性を瞬間的に得ることができるからだ。

小児性愛における対等性の欠如

 対等性の欠如という点で、動物性愛はしばし小児性愛と混同視される。

小児性愛の場合はわかりやすく、大人対子どもという構図で対等性が欠如していることがわかる。

つまり、対等性のないセックスという意味において、動物性愛が小児性愛と同類のものであるという考え方は否定できない。

しかし、小児性愛が性的に未成熟な者に対する性的欲望であるとすれば、動物性愛は性的に成熟している相手をパートナーに選ぶ

これは非常に興味深い話だ。

なぜなら、賛否は置いておいて、小児性愛者にも動物性愛者にも「相手から誘ってきたから行為に応じた」と主張する者が数多く存在する。

*「聖なるズー」の登場人物に関して言えば半数以上が誘われたと証言している。

性的に成熟した、例えば犬が、人間に対して発情しているシーンは見たことがあっても、性的に未成熟の子どもが大人に対して能動的にセックスの誘いをかけるとは想像しにくい。

(映画「エスター」で似たようなシーンがあったが、あいつ子どもじゃなかったし)

 濱野氏は、多くのひとがペットを子ども視しているために、動物の性欲をないものとして考えているのではないか、と鋭い指摘をする。

ペットの子ども視、つまりペット(子ども)には性欲がないという思い込みも、動物性愛と小児性愛の混同に一役買っているのかもしれない。

セックスにおける対等性

 ここまで、対等性のないセックスについて触れてきたが、むしろ対等性のあるセックスの方が少ないのではないかと思う。

動物性愛団体ゼータでも、パッシブパートのひとは、アクティブパート(動物にペニスを挿入する)のひとに対して、やや優位性があるように振る舞う。

それはおそらく、同じズーでもパッシブパートと比較して、動物にペニスを挿入するアクティブパートは動物を支配している感が強いからだろう。

現に、「聖なるズー」では、パッシブパートのひとがアクティブパートのひとに対して「厳密な意味で、アクティブパートであることは動物を大切に扱っていないのでは?」という問いを投げかけている描写がある。

残念ながら、この問いに対しての返答はされなかったが。

 アクティブであるかパッシブであるかによって変わる対等性、言語の対等性を欠いたセックス。

このふたつは、人間同士のセックスについても対等性の問題を投げかける。

言葉による性的同意が果たして本当の性的同意になるのか、セックスはアクティブパートのものなのか

ペニスの形状が暴力性を司るのか。
*実に馬鹿げた話だが、鼻で笑う前に一度深く考えてみる必要のありそうな議題だ。

思うに、セックスは対等性のある行いだという前提の強さの反面、対等性を欠いたセックスが多いことを俺たちは知り過ぎているのではないか。

だって、否定するわけではないけれど、「仕方なくしたセックス」を経験したこともあるだろう?

俺たちは生理現象の延長としてのセックスではなく、対等性のあるセックスについて思索すべきなのではないか。

価値観を激しく揺さぶる本に久しぶりに出会えたことを幸いに思う。

他人への怒り、裏にある嫉妬

関係のない相手に怒るひとの正体

喜怒哀楽の喜びと楽しみの区別難しくね?
その点、怒りってすげーよな、あのひと怒ってるよってすぐにわかる感情だもん。

どういうときに怒るのかによってそのひとの本質がわかるってゴン先生は言っていたけど、正確にはミトおばさんが言っていたらしいけど、いつだってひとが怒るのは自分に関係のあることがらに対してだけだ

他人から侮辱される、お気に入りのスニーカーを踏まれる、自分の親しい人の悪口を言われる。

ところが、一見自分に関係ないことで怒っているひともいる。

電車の中で化粧する女性に憤るひと、不倫をする芸能人を親の仇のごとく中傷するひと、ひどいときは働かない働きアリにまで腹を立てるひとがいる。

どうして自分に関係のないことでもひとは怒りを覚えるのだろうか。

自分が直接被害を受けていないのに他人に対して覚える怒りの正体、それは嫉妬だ。

明記する必要がある。
自分に関係のないことで怒るひとはいない。怒っているとするならば、それは自分に関係あるからだ。

われわれホモ・サピエンスは社会的生物だ。社会的生物には規律が必要である。

ご存知の通り、われわれの社会は常に明記された規律があるわけではない。
そのようなときは、その場において○○してはいけない、△△するべきであるという暗黙の了解がある。

この暗黙の了解に従わなくとも法的に罰されるわけではないが、ついついこの未表記のルールに従ってしまう。

そのすぐ横でこの暗黙の了解を無視するひとがいたとしたら、「え、なんで?信じられない」とか思うんじゃないだろうか。

ほら、文化祭の準備で積極的に手伝わないやつとかいただろ?
みんな結構文句言っていたってあとから聞いたよ。あの時はごめんね。

でも君たちが怒っていたのはさぼっていた俺に対してではなくて、頑張らなくてもいい俺に対する嫉妬だよ。

つまり関係のない他人に怒るのは、自分が守っているルールを破るひとに対する嫉妬からなんだ。

ルールを守るために進化してきたホモ・サピエンス

ルールを守らないひとに対してわれわれは厳しい態度をとる。なぜなら、ルールがなければ集団生活は成立しないからだ。

シロナガスクジラやヒグマとちがって、生きるために群れをなすことを選んだわれわれはそのように進化してきた

「そのように」とはどのようにか、家畜動物との共通点から理解できる。

豚や馬、牛や犬などの家畜が原種と比較すると脳が小さくなっていることをご存知だろうか?

そう、勘のいいあなたなら気が付いただろう。「そのように」とは、集団生活を行うために脳が小さくなる進化をしてきたということだ。

化石を調査すると、家畜化した動物は必ず脳が小さくなっていることがわかる。
犬と狼では30%ほど脳の容量が違う。

脳の縮小にともない、原種に比べて攻撃性が弱く、穏やかになり、社会性が高くなる。

ジャレド・ダイアモンドによると、家畜とは人間によって食料や交配をコントロールされたことで品種改良の過程を経た動物である。

このため、攻撃性の強い横暴な家畜は、他の家畜に悪影響を与えかねないので間引きされる。

そしてこの間引きは社会的生物であるホモ・サピエンスにもあてはまることだ。死刑や刑務所がいい例である。

興味深いことに、脳の容量が縮小しているというのは人間が自らを家畜化していると言えるわけだ。

つまり、われわれは横暴な個体を間引いて脳を縮小することによって、規律を守るように進化してきた。

この進化はあくまでも集団で生き抜くためであり、個が気持ちよく生きるためではない。

集団を優先すると、当然個の欲望を抑制しなければいけないときが来る。
文化祭の準備をサボらなければもう少しクラスに馴染めてたのかな……。

やりたくないことをやる、もしくは、やりたいことをやらない。
自分が我慢している隣で他人が我慢していない様を見たら、そりゃ嫉妬するし怒るわな。

でももっと寛容になろうぜ。嫉妬で怒るのはなんか無駄に労力かかる気しない?
肩のちからを抜いて文化祭の準備をサボるやつを笑って許してやろうぜ。

石ころに付加価値をつけたコロナ

世にも危険な医療の世界史

コロナの影響で世界中が大騒ぎをしている。

信じられないことだが、たったひとつのデマを発端にスーパーからトイレットペーパーが姿を消し、水に流せるティッシュが代わりに棚に並ぶ様には目も当てられない。

しかしなによりも驚いたのは花崗岩がコロナ対策になるとしてメルカリで出品され、SOLD OUTしたことだ!

どんな経緯で花崗岩がコロナ対策に有効だと信じるひとが続出したのだろう。

簡単に調べたところ、免疫効果を高めるためにはテロメア長を延ばすのが効果的であり、テロメア長を延ばすためには花崗岩内部にあるラドンなどの成分が利く、という意味の分からないトンデモ科学がデマの発信元らしい……。

しかし、少なからずのひとがこのデマを信じて花崗岩を購入しているから、メルカリにただの石が出品されて、しかも売り切れたわけだ。
背景にはふたつの要素がある。

ひとつは、長生きしたいという強い欲求。

もうひとつは、一見すると納得できそうな理屈であること。

花崗岩がテロメア長を延ばすというウソが本当だった場合、 ”免疫をつけるために花崗岩を持つ” ことは理屈は通っているからだ。

そして、生きることへの執着で曇った目は、それっぽく見える屁理屈に簡単に騙される。
このようにして、人類は現代までに何度もとんでもない医療を繰り返してきた。

始皇帝からリンカーンまで服用した秘薬

漫画キングダムでさらに知名度を高めた始皇帝が不老不死の秘薬として水銀を服用していたことは広く知られている。

結果的に彼は50歳手前で水銀中毒で命を落とすのだが、史記によると彼の陵墓には水銀の川が何本も流れていると書かれていた。

事実、始皇帝の陵墓は水銀濃度が高く、墓を開けると有害な毒素が放出されるおそれがあるため今でも発掘作業は終わっていない

始皇帝の陵墓

数ある金属のなかで唯一常温でも液体として存在するため、神秘的なイメージが水銀にはある。

水銀の英名であるマーキュリーはローマ神話の神が由来となっているし、
インド錬金術で、水銀はシヴァ神の精子からできているとされている。

この金属に不思議なちからが宿っていると言われてしまえば、紀元前の時代を生きた始皇帝でなくとも納得してしまう。

水銀

しかし、神秘的なこの金属は、後に薬どころか恐ろしい毒物だということが判明した。
例えば日本で広く知られている水俣病も水銀中毒が原因である。

水俣病が公式に公害問題となったのが1950年代であることから、水銀の有毒性が認知されたのはつい最近だということがわかる。

第16代アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーン(1809~1865)も水銀を薬として服用していた。
幸いなことにホワイトハウスにはいってからは服用量を減らしていたらしいが……。

黄金の毒

水銀がつい最近まで薬だとして信じられていたように、ひとびとは金もまた薬として利用できると信じていた

金は非常に安定した金属であり、酸化もしにくく経年劣化に強い。
いつまで経っても姿かたちの変わらない黄金色に輝く金属に、ひとびとは不老不死との関連性を見出した

ところが、安定性の高さゆえに注目された金は、安定性の高さゆえに人体に吸収されないし、溶かしても常温では凝固してしまうため飲み薬として使用できない。

*水銀が薬として長く愛用されたのは見た目の神秘性以外にも、常温で液体という人間にとって摂取しやすい特徴があったためではないだろうか?

中世の錬金術師はこぞって「飲める金」を作ろうと試行錯誤を繰り返した。
1300年頃、ゲベルという錬金術師がついに金を溶かす溶媒として ”王水” を作ることに成功する。

王水に溶ける金

王水によって溶かした金を加工すると、塩化金が生成される。
塩化金は水に溶かして飲むことができる。
こうして、人類はついに「飲める金」を手に入れた。

おそらくあなたは予想していると思うが、「飲める金」は薬としては機能しない
それどころか、塩化金はおそろしく腐食性が強く、腎不全や頻尿を誘発する毒だった……。

当時どれだけの人間が塩化金によって被害を受けたのか定かではないが、幸いにも金は貴重なため水銀ほど人間に被害は与えなかったと推測できる。

2000回以上肛門をさらした太陽の王

結果的に猛毒だったとは言え、ポジティブなイメージのある水銀や金を体内に取り入れることによって、体の調子を良くすると信じられていた。

この考え方自体はまったく間違っていない。


たとえば、20種類あると言われる必須アミノ酸のうち、人間が体内で生成できるアミノ酸は9種類しかない。
だから、食物やサプリメントを摂取することで体内で生成できないアミノ酸を取り入れる。

一方で、不調をもたらす要因が体内にある場合、体内から排出することで体の調子を整えるという考え方もある。

腫瘍を取り除く外科手術はその最たる例であり、もっと身近なところでいえば鼻水や糞尿も同じことだ。

かつて人間の体液は血液を中心とした4種類の体液から構成されている ”四体液説” という考え方があった。

4つの体液のバランスが崩れると病気になると信じられ、バランスを整えるために瀉血という血液を抜く治療が流行する時代もあったのだというから恐ろしい。
*モーツアルトは死の直前に2リットルもの血液を瀉血によって抜かれている。おそらく死因は……。

便秘になると、腸にたまった糞が毒素を排出し、体が汚されるという考え方(自家中毒)もある。

糞便が体内で腐敗を起こすという考え方はわからなくもない。
このため、中世ヨーロッパでは浣腸が爆発的な流行となり、太陽王ルイ14世は生涯で2000回以上浣腸をしたという記録がある。(2000回‼)

フランス史上最も長い在位期間を誇る偉大な王 ルイ14世
心なしかおしりをこちらに向けているようにも見える

間違った情報で構成された正しい理屈

これまでに見てきたとんでもない医療の数々を、過去の人間の無知さゆえだと馬鹿にすることは誰でもできる。

しかし、注目して欲しいのはどうしてこのようなとんでもない医療がまかり通ってしまったのか、ということだ。

水銀は、常温で液体の金属という特異性から神秘のちからを持っているように思えるし、安定性の高い金を摂取することで自身も同じように安定した肉体を手に入れることができるという考え方は理屈だけは通っている。

西遊記の妖怪たちは徳の高い三蔵法師の肉を食べることで不老不死となれることを信じていた。
ファンタジーの世界などで真偽はともかくとして、妖怪たちの理屈もまた筋が通っていると思わないだろうか?

瀉血や浣腸も、体内から有害な毒素を体外へ排出するという理屈は合っている

理屈が合っているのであれば、正しい知識がない時代の常識から考えると、目を覆いたくなるこれらの危険な医療が流行した理由がわかる

花崗岩や水素水、EM菌なども同じだ。
情報が間違っているだけで理屈は通っているから多くのひとが騙されてしまう。

本書では、医療における数々の黒歴史がこれでもかとまとめられているが、われわれは今後も黒歴史を積み上げていくのだろう……

では、また。

美しさを理解するために知性は役に立つか

美しいとはどういうことか

なにかを美しいと思った経験がこれまで何回あっただろう。

冬の田舎道をひとり自転車で走り見上げた夜空、夏目漱石の ”こころ” 、クリムトの絵画、あるいは北川景子の横顔。

クリムト「接吻」

いずれも、その美しさを言語化するのが難しい。
美しいものを見たときになぜそれを美しいと感じたのか、美しいと感じる要素はなにであるか、ということを突き詰めて考えてみたことがある。

美しさとはわかりやすいことである
美しさとは足し引きを嫌う
美しさとは体験の中にのみ存在する

以上が、自分の考える美しさの定義だ。
とは言え、素人の意見ひとつだけでは独断と偏見が過ぎるので、プロフェッショナルの意見も参考にする。

美を見て死んだ男の審美眼

スペインを拠点に活動していた画家の堀越千秋は著書「美を見て死ね」のなかで、美しさについて以下のように言及している。

美しさは正しさである。
だが正義ではない。
正義の名のもとに人は悪事を働く。
国もそうだ。
しかし美の正しさは神に属する。
人には、利用されない。

堀越千秋「美を見て死ね」

「人には 、 利用されない。」
この読点に堀越の思想が滲み出ているようで最高にイカしていると思う。
そういう意味ではタイトルもいい具合にいかれていて最高だ。
他人のエゴが滲み出る瞬間とはどうしてこうも愛おしいのだろう。

美を見て死ね

「美を見て死ね」には、堀越が推奨する美術品の写真とそれぞれの作品についてのコメントが述べられている。
読み進めてくうちに、堀越の審美眼の一端を自分のものにできたように錯覚する、ある種のドーピングのような効果があるエッセイだ。

美しさについて言及するとき、我々の多くは「真の美しさは抽象的なもののなかにのみ存在する」という哲学的偏見を持っていることに気付く。

堀越は、美を神と結びつけることで美の抽象度をひとの手が届かぬところまであげてしまった。
*読点の位置から読み解くに、堀越は美とひとの関係が実際にどうであったにしろ、切り離して考えていたのだろう……。

イギリスの美術評論家ジョン・ラスキンもまた、知性を介さずに歓びを与えてくれるものをなんであれ美しいと定義している。

ジョン・ラスキン

知性を介さないということはつまり、美は直感的に理解されるものであり、複雑性を持たない抽象的な世界に存在している。

上述した3者(他2名に比べて自分は圧倒的に美に対する知識が浅いが……)の意見をまとめると、美について各々のスタンスはあれど、抽象的なものとして語られていることがわかる。

誰もが、美について語ろうとすると抽象的になってしまう。
そして、このことがわれわれに美しさは抽象的なもののなかにしか存在しないという偏見を持たせる。

この哲学的偏見に異議を唱えるのが本日紹介するロバート・P・クリースの「世界でもっとも美しい10の科学実験」だ。

知性の領分に存在する美

世界でもっとも美しい10の科学実験

科学実験が美しいとはどういうことだろう。

少なくとも小・中・高で勉強した理科の実験のなかで美しいと感じたことは一度もない。
というよりも実験という作業を美しいと感じることができるのは、その領域で当たり前のように呼吸をしてきたいわゆる専門家のような人間だけの特権なのではないか。

タイトルを見た時点でこのように考えてしまったのであれば、あなたは美に対する哲学的偏見に支配されている。

われわれがなにかを美しいと感じるとき、その美しさは直感的に把握されるべきであり、知性は不要だという暗黙の了解がはびこっている。

この暗黙の了解に対し、科学実験は客観と知性の領分からうまれるために、 ”美しい” と表現するには違和感を覚えるかもしれない。

ところがクリースは、科学実験という客観的、且つ、知性的な作業にも美はあると異論を唱える。

哲学的偏見の先にある美の特徴

クリースの主張を理解するために、われわれの中にしつこく根付いている哲学的偏見(美は抽象的なものの中にのみ存在す)を取り払わなくてはいけない。

仮に美の構成要素を理解したとしても、その構成要素から新しい美を創造するのは難しい。
*ピカソの使った道具や、彼の技術、思想を理解していたとしてもオリジナルの美を簡単に創作できるわけではない。

このために、われわれは美を抽象的なものと捉えがちだ。

しかし美についての考察をひとつ先に進めると、ある特徴に気付く。
美は人の内面に特殊な充足感を引き起こす

言い換えると、美しいものは「私が求めていたのはこれだ!」という喜ばしい気づきをもたらす

どれだけ審美眼を鍛えたところで、新しく出会う美がどのようなものであるかは推測できない。

しかし、今まで出会わなかった美を前にしたとき、ひとは自分の求めていた美がどのようなものだったかを知る。

そして、科学実験にもまたこのような特徴が確かにある。

クリースは本書を通して、 ”もしも実験に美があるのなら、それは美にとってなにを意味するか?” という問いに答えを出す。

問いかけの答えは、より古い伝統を持つ美の意味をよみがえらせるのに役立つ。

われわれは哲的偏見に囚われてしまっているため、古い美の意味も忘れている。

古代ギリシャ人は美と芸術作品に特別な結びつきを認めず、模範的なものとの関係において美を捉えた。
*法則、制度、魂、行為など

その結果として彼らは真と美と善に密接に絡み合い、深い根元で結びついていると考えた。

そして、ワインの歴史背景を理解したものだけが、高価なワインの味に感動できるように真と善と結びついた美を味わうために、ひとは知覚を行使しなくてはその意味に気が付けない。

本書では、クリースが独自に選んだ10の科学実験がとりあげられているが、科学実験そのものについてはウィキペディアを参照にしても得られる知識だ。

この本の真の価値は、ひとつひとつの実験の説明後にはいるクリースのコラムに発揮される

実験内容の説明によって科学への理解を深め、コラムで美に対する偏見を丁寧に剥がされる。
この繰り返しによる知覚の行使が心地よい。

知識が増えるということは、真に自分が求める美に対して敏感になるということでもある。

では、また。

教育に潜む悪意

独白するだけのゴリラになりたい。あと、人に頼って生きたい。

「お節介なもので悪意を持たないものはいない」

イギリスの哲学者でありながら弁護士を本職としたフランシス・ベーコンの言葉だ。

「知識は力なり」で知られるフランシス・ベーコン(1561-1626)

あなたの周りにもひとの世話をやくのが好きなひとはいないだろうか。

なにを隠そう自分もお節介な部類の人間である。だから、フランシス・ベーコンの言葉には強く共感した。

我々のようなお節介が率先して他人の世話をやくのは、”好意”からであっても”善意”からではない

関心のない人間に対してお節介をやく人間はいない。ナイチン・ゲールが言ったように、愛の反対は無関心だ。つまり愛≒好意であり、好意がある対象にしか我々はお節介をやかない。

好意があるのであれば、善意ではないのかと思われるかもしれないが、この認識は危険な間違いだ。お節介な人間当人ですら自分は善意から世話をやいていると思い込んでいる。

大きな間違いだ。結論から言えば、お節介な人間はやはり悪意の持ち主である。そして、ここで言う悪意の正体は”支配欲”である。

支配欲ゆえの干渉

他人に対してお節介するとき、”こうなって欲しい”という恣意的な欲望が働いている。言い換えれば、自分の望んだとおりに物事が動いてほしいと願っている。こんなものが善意であってたまるか。

自発的なお節介はすべてが相手に対して、自分が望んだ結果に近づいてほしいという支配欲からの行動だ。

考えるまでもないことだが、相手に影響を与える(支配する)ためには相手に干渉する必要がある。

お節介は明らかに干渉だ。相手のことを好ましく思うからこそ、より好ましい存在でいてほしい。

より好ましい存在にするために、お節介を媒介にして他人を支配しようとしているのだ。

そして、厄介なことにお節介は一見すると善意に基づいた行動に見えてしまう。このため、お節介をする側の人間も自分の持つ醜い支配欲に気が付きにくい

最たる例は教育者である。

経験も知識も劣る相手(子ども)に対し、自分が助けてあげなくてはという見せかけの善意のために相手を望んだ方向へ支配しようとする。

自覚しなくてはいけない。どうあがいても教育とは価値観の押し付けであることを。

教育に潜む支配欲

ひとは人生のどこかのフェーズで教育する立場になる可能性が高い。

常に新しいことに挑戦し、所属する場所をコロコロと変えるチャレンジャーを除いて、我々は後輩や新人にその場所のルールを教える機会に遭遇しやすいからだ。

この時、相手の行動が場の規範に沿うように支配しなくてはいけない。

その場における経験が豊富なあなたは慣れない環境で居心地悪そうにしている新人にいくつかのアドバイスを与える。相手はあなたに感謝し、あなたも相手の役に立てたことに喜びを感じるだろう。

誰もが幸せになった経験を通して、あなたはより教育熱心になるかもしれないし、そんなあなたを上司は新人教育担当にするかもしれない。

あなたは新人教育にやりがいと喜びを感じ、ますます仕事に精を出す。そして多くの場合、喜びは己のなかにある支配欲を覆い隠す。

誤解を避けるために明言するが、お節介や教育を悪く言っているわけではない。お節介も教育も両者にwin-winの関係をもたらす可能性を多分に秘めた行為である。

しかし、教育したがり、お節介したがりの自分のようなひとは自身が少なからず持つ”悪意”を強く自覚しなければいけない!

教育を受ける立場ではなく、教育をする立場を自ら選んだ人間の多くが自分は善良な人間だと信じている。

自分こそが教育者に足る存在であると。少なくとも悪意から教育を行っているとは夢にも思っていない。

”善い行い”をしていると思っている人間は反省をしない。

自分が何故教育をする立場にこだわったのか、今一度見つめなおしてほしい。そして、その教育は相手のニーズを間違いなく満たすものであるかと自問してほしい。

支配できない相手に腹を立てたことがあるのであれば、危険な兆候だ。

一方で、自らのうちにある支配欲と向き合い、付き合い方を再考する良い機会である。

この記事をきっかけに、あなたの教育にかける熱意は、相手からうまれたものではなく、自分からうまれたものだと思い出してくれると嬉しい。

では、また。