わかりあえなさをわかりあう

根源的なわかりあえなさ

酔いどれ詩人の肩書を持つ友人の勧めでトランスレーションズ展を観てきた。

展示会入り口の横に主催者のドミニク・チェンによる展示会の趣旨の説明がされている。

「わたしたちのコミュニケーションには、根源的な「わかりあえなさ」が横たわっています。それでも、わたしたちは互いの「言葉にできなさ」をわかりあうことはできます。

別の言い方をすれば、わたしたちがどのように自分の感覚を翻訳しようとしているのか、という過程についてもっと知ることができれば、「わかりあえなさをわかりあう」ことができるでしょう」

ドミニクの言う「根源的なわかりあえなさ」の存在を知覚していないひとと遭遇することが多くなった気がする。

自分の意見や主張を言葉にして伝えれば、わかってもらえるという思いが強いのだと推測している。

みなさん、言葉のちからを信じすぎていやしないかいと思う今日この頃だ。

言葉の強さ

三浦雅士は「孤独の発明」のなかで言語が自分さえも俯瞰する視点を与えた、と記した。

相手と自分がいるという状況を言語を持って説明するとき、自分の肉体から離れた第3の視点が必要になる。この役割を担うのが言語だ。

つまり、言語は自分が実際に目にしていないものも、言葉にすることで形作ることができてしまう。言葉とはなんてすごいのか。

だが俺は、言葉なんてものがあるから、わかりあえないのではないかと思っている。

もっと正確に言えば、言葉が通じれば気持ちが通じるという幻想に多くのひとが振り回されていると思っている。

我々は当たり前のように目に見えない気持ちを翻訳して言葉にする。そうすることでコミュニケーションを成立させてきた。

だが、自分の気持ちを100%間違いのない言葉にできたことがこれまで何度あっただろうか。

美しいものを見た時の感想を言葉にしたとして、自分の感動を一分の狂いもなく言葉で伝えることができただろうか。

また、間違った言葉にすることで気持ちや感覚が引っ張られたケースもよく見る。

「ここは今から倫理です」の25話で非常にわかりやすくまとめられているので、拝借させてもらう。

酔いどれ詩人は「言葉を尽くせ」と言っていた。思うに、そうでなければ、俺たちは言葉に騙されてしまうから。

翻訳とは何か

言葉に騙される、とは言い得て妙だ。残念ながら言葉は事実を正しく伝えることができない。

言葉が発せられるとき、それは何かが翻訳されたときだ。

 トランスレーションズ展は名前の通り「翻訳」を主軸に添えているが、その解釈は幅広い。

言葉の翻訳から、感覚の翻訳、文化の翻訳などAからBへの変換のつながりをすべて翻訳としている

例えば目の見えないひとに色を伝えるのも翻訳であり、ジェスチャーでものを表現するのも翻訳だ。

翻訳とは錦を裏側から見るようなものだと言っていたのは誰だったかな。
昔読んだ英語学習の本のどこかに書いてあって、いたく共感したことだけを憶えている。

言語を介して気持ちを翻訳するときも同じで、翻訳とは往々にしてズレが生じるものだ。

だから「エモい」って言葉を初めて知ったとき、潔さに感心してしまった。
いっそ翻訳の放棄だと思ったね。

どうせ言葉にしてしまえば事実とズレるのだから、むしろ言葉を少なくして少なくして3文字どころか0文字にしてしまうのはアリなのかもしれない。

哲学における問題をすべて解決したと豪語したウィトゲンシュタインだって言っていたじゃないか。語り得ぬものについては沈黙しなければならない、と。

まぁ、上述の内容もそうだが、俺たちはしばし日常生活のなかで言葉を信頼しすぎているのではないかと思う。

それはつまり、自分の感覚を精確に翻訳できていると疑わないからだ。

いや、初めて気づいたときには驚いたもんだけれど、俺たちって自分の感覚や気持ちでさえうまく翻訳できていないっぽいのよ。

「言葉を雑に扱うということは、世界のとらえ方が雑ということだ」と、これもウィトゲンシュタインは言ったセリフだ。うそうそ、言ったのはうちの奥さん。

適当に発言する旦那を注意するときによく使う言葉だ。

バーっと感想書いただけだから、まとめるのが難しいな……。

つまりトランスレーションズ展でどんな感想を抱いたかというと、翻訳は広い意味で弱い変換であり、翻訳を介して本質がやや捻じれていく。

それでも、俺たちは種々様々なものと翻訳を介して繋がることができるんだよね。多分に誤解を含みながら。

酔いどれ詩人は言葉を尽くせと言っていたが、やつの気持ちもわからんでもない。いや、多分誤訳しているんだけどね。