挫折した過去との向き合い方

 先日、オンラインで初めてビブリオバトルをした。めちゃくちゃ楽しかった。

参加者がなぜその本を選んだのか、選んだ本からなにを得たのかという話し合いを通して、彼らの人となりを知れたことが純粋に嬉しかった。

 俺の紹介した本はアポストロス・ドキアディス著「ペトロス伯父とゴールドバッハの予想」である。

ペトロス伯父とゴールドバッハの予想

 内容は数学者のドキュメンタリーだ。

数学と聞くと、アレルギー反応を示すひとが多い実感がある。

かく言う俺も大学入試で数学を使わなかったし、当然大学で数学を専門的に勉強したこともない。

 文系科目に進んだ多くのひとがそうであるように、この先の生涯で数学を学び直す可能性はほとんどない。

ほとんどないからこそ、一生踏み込むことのない世界に触れてみたかった。
それがこの本を買った理由だ。

実際に「ペトロス伯父とゴールドバッハの予想」を読み終えたとき、数学に対する知的好奇心は大いに刺激された。当初の目的は無事果たされた。

だが、ビブリオバトルでこの本を選んだのには、数学への知的好奇心を満たす以上のものがあったからだ。

本書は、例えるならドキュメンタリー映画を観たような読後感を味わえる。

「作品を通して何か大きなものに触れてしまった、でもそれがなんなのかはすぐにはわからない……」というあの感じだ。

俺の場合、この本を読んで触れた何かというのは、「失敗した過去とどう向き合っていくのか」という問いかけだった。

 なぜ数学者のドキュメンタリーが「失敗した過去との向き合い方」に繋がるのか、それは「落伍者」と呼ばれたペトロス伯父の生き方そのものだからである。

天才数学者の挫折

物語は次のように始まる。

「どの家庭にも黒い羊はいるものだ。うちの家族ではペトロス伯父さんがそれに当たる」

主人公の家族は、親戚であるペトロスのことを「落伍者」と呼んで侮蔑している。

ところが、幼い主人公から見たペトロスは決して「落伍者」には見えない。

年に一度の親戚の集まりで見かけるペトロスは内向的で控え目ではあるが、立ち振る舞いからは気品を感じ、青い瞳の奥に知性が伺える。

むしろ、大酒のみで愛煙家の不作法な父よりもよほど好ましい人物に見える。

 ひょんなことから、ペトロスの正体が元数学教授だということが後にわかる。

そんなペトロスがなぜ「落伍者」と侮蔑されるのか?

ペトロスの弟曰く、「あいつは、神から与えられた数学の才能を浪費し、数学で意味のある仕事をなにひとつしなかった!」という。

ペトロスの才能を浪費させた数学の問題こそが、タイトルにもある「ゴールドバッハの予想」である。その命題はシンプルだ。

全ての 3 よりも大きな偶数は2つの素数の和として表すことができる 。

ゴールドバッハの予想

 彼はゴールドバッハの予想の証明に人生を費やし、そして結局は証明できなかった。数学において、なにひとつとして功績を残せなかった。

それが、「落伍者」と呼ばれる所以である。

ところが。ところがである。

才能と時間を投げうっても証明ができなかった事実に対して、ペトロスの放つ言葉の力強さが尋常ではない。

「証明に時間を費やす途中で、わたしの疑念は動かぬものとなった。
ゴールドバッハの予想は証明不可能なのだ!わたしの直感がそう言っている!」

数学の証明問題に対して直感で答えを出そうとするペトロスに主人公が反論しようとするのを遮り、

当時の私は、本物の、完成した知の巨人だった。だから、君の直感で私の直感を判断するな、最愛の甥よ

間違いと少しマシな間違い

彼の言葉に正直痺れた。

天から与えられた数学の才能と頭脳、そして人生のほとんどの時間を費やしても達成できなかったという敗北に対し、この誇り高さは一体なんなのか……。

まさに「失敗した過去とどう向き合っていくか」というテーマが顕在化している。

ペトロスだけの話ではない。俺たちは。成し遂げることのできなかった目標と、どうやって付き合っていくのがいいのだろうか。

 学生時代、身ひとつで世界を放浪した。自分ひとりのちからで生きていけることを証明したかったからだ。

生憎と、途中でやはり人はひとりでは生きていけないってことに気付いた。

ひとりでも生きられるという傲慢さ自体は間違っていたけれど、ひとりで生きることを目指した自分は間違っていたのか?

あの頃の自分を肯定することもできないけど、否定することもできない。

挫折した過去については、誰もが同じような心境を抱くのではないだろうか?

 個人的な挫折体験から気付いたことがある。
それは、世の中に正解があるという仮定そのものが少し違うのではないかということだ。

おそらくだけど、間違いか、少しマシな間違いだけがあるんじゃないかな、と思う。

でもペトロスにとって、ゴールドバッハの予想を証明しようとしたことは紛れもない正解だったに違いない。

なぜなら数学の証明をすることは、正解にたどりつくことだから。

だから、ペトロスは成し遂げることのできなかった目標に対してあんなに強い言葉を言えたのだろう。

「当時の私は完成された本物の知の巨人だった」

しかし、本書はここで終わらない。この物語は3部構成になっておて、第2部のしめくくりがペトロスの例の言葉だ。

そして、続く第3章でこの言葉の裏にある衝撃の事実が発覚する。

この3章まで読んだうえで、挫折した自分ともう一度向き合ってほしい。

お前は失敗した過去とどう向き合うのか?」という問いに対して、答えはすぐに見つからないけど、人生をより味わい深くしてくれる良質な問いを手に入れることができる。

セックスにおける対等性と動物性愛のはなし

おもしろい話がある。

異性愛も同性愛も肯定するひとが、両性愛については否定することがあるらしい。

性の多様性が認められつつある現代社会において、なんでもかんでも許容することは正しいのだろうか?

われわれは、今一度セックスについて真剣に考えるべき、そういう時代にいるのではないだろうか?

動物性愛の不道徳性

 濱野ちひろの「聖なるズー」を読んだ。動物とセックスをするひとたちの話だ。

しかし、メインテーマは動物を愛する奇異なひとの実態ではなく、愛とセックスの対等性についてだったように俺は思う。

 動物に性的魅力を感じる趣向のひとのことをズー(ズーファイル)と呼ぶ。

動物とのセックスと聞くと、おそらく多くのひとは不道徳的なものを感じるのではないだろうか。

事実、旧約聖書では動物とセックスをした人間もその相手の動物も死ななければいけないと書かれている。

アメリカの動物権利団体PETAは「動物とのセックスは動物へのレイプである」と激しく動物性愛を糾弾し、欧州では全面的にではないにしろ、動物とのセックスを法律で取り締めている。

なぜ人間同士のセックスは良くて、動物とのセックスは悪いのか。

答えは対等性の欠如だ

つまりズーが内に秘める不道徳性は、人間と動物が対等な存在ではないということに起因する。

動物との対等なセックス

 人間と動物の対等性を妨げるものは言語である。

動物が人間に対して明確なコミュニケーションをとれない以上、ズーとそのパートナーとのセックスに性的同意があったか否かを第三者は判断できない

これこそが動物とのセックスにおける不道徳性の正体だ。

*ただし、「聖なるズー」を読むと、性的同意がないとは言えないのではないかと考えるようになる。

 性的同意を欠いたセックスは、しばし人間同士のセックスでも問題とされる。

実際にスウェーデンでは2018年に明確な性的同意のないセックスはレイプとするという法律が成立している。

常に性的同意を欠いた(ように第三者からは見える)状況にあるズーは、いかにしてこの問題を克服するのか。

 結論として、動物のペニスを挿入される側に人間が立つことによって動物が積極的にセックスを始めたと、彼らは言う。

「聖なるズー」で濱野氏が聞き取り調査を行ったズーは22人(男性19人/女性3人)、そして男性19人中13人がパッシブパートである。

動物との対等性を重視しているズーの多くがパッシブ・パートに立つことは納得がいく。

なぜなら、パッシブパートのひとがセックスにおいて得る喜びは、支配者側の立場から降りることで、パートナーとの対等性を瞬間的に得ることができるからだ。

小児性愛における対等性の欠如

 対等性の欠如という点で、動物性愛はしばし小児性愛と混同視される。

小児性愛の場合はわかりやすく、大人対子どもという構図で対等性が欠如していることがわかる。

つまり、対等性のないセックスという意味において、動物性愛が小児性愛と同類のものであるという考え方は否定できない。

しかし、小児性愛が性的に未成熟な者に対する性的欲望であるとすれば、動物性愛は性的に成熟している相手をパートナーに選ぶ

これは非常に興味深い話だ。

なぜなら、賛否は置いておいて、小児性愛者にも動物性愛者にも「相手から誘ってきたから行為に応じた」と主張する者が数多く存在する。

*「聖なるズー」の登場人物に関して言えば半数以上が誘われたと証言している。

性的に成熟した、例えば犬が、人間に対して発情しているシーンは見たことがあっても、性的に未成熟の子どもが大人に対して能動的にセックスの誘いをかけるとは想像しにくい。

(映画「エスター」で似たようなシーンがあったが、あいつ子どもじゃなかったし)

 濱野氏は、多くのひとがペットを子ども視しているために、動物の性欲をないものとして考えているのではないか、と鋭い指摘をする。

ペットの子ども視、つまりペット(子ども)には性欲がないという思い込みも、動物性愛と小児性愛の混同に一役買っているのかもしれない。

セックスにおける対等性

 ここまで、対等性のないセックスについて触れてきたが、むしろ対等性のあるセックスの方が少ないのではないかと思う。

動物性愛団体ゼータでも、パッシブパートのひとは、アクティブパート(動物にペニスを挿入する)のひとに対して、やや優位性があるように振る舞う。

それはおそらく、同じズーでもパッシブパートと比較して、動物にペニスを挿入するアクティブパートは動物を支配している感が強いからだろう。

現に、「聖なるズー」では、パッシブパートのひとがアクティブパートのひとに対して「厳密な意味で、アクティブパートであることは動物を大切に扱っていないのでは?」という問いを投げかけている描写がある。

残念ながら、この問いに対しての返答はされなかったが。

 アクティブであるかパッシブであるかによって変わる対等性、言語の対等性を欠いたセックス。

このふたつは、人間同士のセックスについても対等性の問題を投げかける。

言葉による性的同意が果たして本当の性的同意になるのか、セックスはアクティブパートのものなのか

ペニスの形状が暴力性を司るのか。
*実に馬鹿げた話だが、鼻で笑う前に一度深く考えてみる必要のありそうな議題だ。

思うに、セックスは対等性のある行いだという前提の強さの反面、対等性を欠いたセックスが多いことを俺たちは知り過ぎているのではないか。

だって、否定するわけではないけれど、「仕方なくしたセックス」を経験したこともあるだろう?

俺たちは生理現象の延長としてのセックスではなく、対等性のあるセックスについて思索すべきなのではないか。

価値観を激しく揺さぶる本に久しぶりに出会えたことを幸いに思う。

旅人の矛盾と呪縛

大野哲也「旅を生きる人びと バックパッカーの人類学」

ひとはなにを求めて旅にでるのか。

旅は、ひとに付加価値をつける。

バックパッカーが想起させるイメージは「個性豊かでタフ」なアイデンティティである、と大野哲也氏は著書のなかで語る。

旅をすることで自分のアイデンティティがグローバル化時代にふさわしいものに刷新されたと実感できることこそが、バックパッキングの大きな特徴だ。

大野哲也「バックパッカーの人類学」

 数年前に世界を放浪している道中で、他の多くのバックパッカーに出会い、寝食をともにした。

俺たちはみな、目をキラキラと輝かせながら旅の出来事を語らい、旅の経験をなにに活かしていくのか夢想した。

多分だけど、日本にいるときよりもみんな楽しくて、自信に満ち溢れていたはずだ。

なぜなら、言葉も文化も異なる土地にうまく適応していく自分のなかに「個性豊かでタフ」なアイデンティティを再発見し、自己評価を高めることに成功していたから。

 誰かが決めたような当たり前の生き方を全うする息苦しさが、ほとんど疑問を抱く間もなく旅への扉を開く。

かつて生活を営んだ勝ち組と負け組の存在する資本主義的社会を拒絶し、俺たちは自由気ままに世界各地を放浪する。

そして、自分が本当に「やりたいこと」を旅のなかに見出す。

美談かもしれない。でも矛盾している

旅人の矛盾

 勝ち組と負け組が暗黙の裡に決められた社会から脱却し、自由に旅をするなかで自分の本当に「やりたいこと」を見つけることのなにが矛盾しているというのか。

それは、従来の価値観を否定しているはずなのに、むしろ固執しているという矛盾だ。

なぜ、矛盾が起きるのか。
大野氏は次のような見解を述べている。

旅人のアイデンティティである「個性豊かでタフ」という自己が、「強い者が勝ち、弱い者が負ける」という資本主義のルールときわめて親和的である。

前述の通り、旅人は旅のなかで「やりたいこと」を見つけていく。

旅そのものがやりたいことだという旅人もいるが、彼らも次の目的地で「やりたいこと」を見つけるなどしているので例外ではない。

俺たちは、他人からの評価などに頓着せずに自分らしさを重視する。

他人から押し付けられた価値観に唾を吐き、自分だけが自分の表現者であると鼓舞する。

自分を表現するために、貪欲に「やりたいこと」を探し、自己実現を繰り返す。

必死になって、「やりたいこと」に固執する。

でも、その必死さに、なにか言い訳めいたものを感じたのは果たして俺だけだったのだろうか?

自分らしく生きるという「やりたいこと」への執着は、「仕事はすぐ辞めずに続けるべき」「仕事には没頭するくらい取り組むべき」という従来から望ましいとされてきた価値観がいまだに温存されていることを示している。

大野哲也「バックパッカーの人類学」

 「こうあるべき」という他者評価や価値観からの逃走を試みた。

そして逃走の途中で、逃走しきれなかった自分を見つけたとき、俺は、旅とはなんて切ないものなんだと思い知った。

確固たる目的を持って世界に立ち向かっていたのだと信じていた。でも違った。

戦いですらなく、だたの逃走で、そして逃げ切ることらできないのだと理解した。

だから、他の多くの旅人と同じように、旅の経験を面接でアピールし、かつて逃走を試みた社会秩序へ再参入していく。

夏が近づき、飲み干すことのできなかった馬乳酒の味を思い出すたびに、なんだか情けない気持ちになる。

いかにして役立たずを愛するか

大学時代の友人が本を出した。

自費出版なのだけれど、なのだからこそ、どうして本を出す気になったのか気になった。

思い返すと友人はそこそこ以上に面倒くさい男で、どう面倒くさいのか問われると「世界観が面倒くさい」と、同じく大学時代の女友達に評されていた。

彼女から言わせると俺も彼と同じくらい面倒くさい人物として挙げられていたのでショックだった。

友人は本を愛していた。本を読むひとも愛していたのではないかと思う。

俺が本を読んでいると、「それなんの本?」と聞いてくるような男で、実を言うと彼が俺の読んでいる本に興味を持ってくれるのが嬉しかった。

ちなみにそのときはポーランド旅行を終えたばかりだったので、ヒトラーの「我が闘争」を読んでいた。
正直、あまり知られたくなかった。しかもブックオフで100円で買ったやつだから手垢べたべたで読み込まれた様相に見えたに違いない。

とにかく、世界観が面倒くさい友人が自費出版で本を出したので、早速購入して読んだ。面倒くさい世界観全開の本だった。全開というか、全壊という感じだった。

よくもまぁ、些細な日常にこれだけ想いを馳せることができるものだと感心した。

思っていた以上に面倒くさい男だが、愛に溢れた人間なんだなと安易な感想を抱いた。

俺は、大学時代のわずかな期間しか彼を知らなくて、俺が知っていると思い込んでいた彼はものごとに対して好き嫌いが激しく、軽妙なくせに気難しいノッポだった。体長1,8m、主にロマネスコやパプリカを好むが雑食、生息地下北沢、みたいな。

しかし、本を読んでいる途中で、こいつは多分、得手不得手がはっきりしているが、基本的にはすべてが好きにカテゴライズされる面倒くさい男なんだなと思い直した。

ちょっと俺に似ていた。もしかしたら本当に俺は彼と同じくらい面倒くさい男なのかもしれない……。いやだなぁ。

彼の本のなかで特に共感をしたのが「いかにして役立たずを愛するか」というテーマを扱う章だ。

実用的なものとそうでないものを二分化して、そうでないものを切り捨てるような考え方に彼は慨嘆していた。

以下に、引用する。

私たちはしばしば物事を役に立つかどうかで見ている。それは人間に対する視点にしてもそうだ。他者が自分にとって役に立つかどうか。乱暴な言い方だけど、役に立つから、愛せるし、役に立たないなら愛するのは難しい。これは露悪でも優性主義でもなんでもない。


 ただ、これは愛する側の視点に立った話だ。確かに、他者を愛せないことは怖い。しかしながら、他者から愛されないことはもっと怖くないか。


 役に立たないと断じた他者に、そうなるかもしれない自分の姿を見出して、恐れてはいないか。役に立たない誰かを指差して嘲笑するのは、そうだったかもしれない自分を見出しているからではないか。

-省略-

 役に立とうとすることがダメだと言いたいわけではなくて、だから、愛されるために誰かの役に立ったり、愛するために誰かを役に立てたりしていたら、いずれ誰も愛せなくなるし、誰からも愛されなくなるんじゃないかってことが言いたい。

丸橋十二月「眼球で呼吸」

こいつ、本当に愛に溢れてるなぁ。うん、わかるよ。役に立つか立たないかの二元論を擬人化した輩がたまにいるけど、恰好つけてる童貞みたいだよね。

それこそヒトラーみたいだ。
知ってる? あの髭のおっさん、富国強兵するためにまず身体障碍者と知的障碍者を除くとこから始めたんだぜ。すげぇ効率的。狂ってやがる。

俺は、実用的ではない、それなんのために読むの? という本が好きだ。

発酵食品なんて作らないのに8500円もした発酵についてのレシピ本を読むし、クジラの生態についての本も読む。今日はサメの本が届いた。

数学や物理学の歴史について書かれた本を読んで頭が良くなったと勘違いするもの好きだ。

ファッション史も調べるし、たたら製鉄炉の作り方も覚えた。

でも小説は中学卒業以来あまり読んでいない。たまに司馬遼太郎とか池波正太郎を夏休み最終日に宿題をやるように慌ただしく読むことはあるけれど、基本的には小説は読まない。役に立たないから。

カフカの変身もサルトルの嘔吐も、だからなんだ? としか思えなかった。貧相な感性だ。

個人的な見解になるが、多くの小説は問題を解決するものではなく問題を提起するものだ。

俺は本を読む時、かならずなにかしら明確な答えを探して読む。この意味で、小説を読むことは俺にとってあまり有意性がない。

役に立たないから切り捨てるわけではないが、役に立たないものを好んで読もうとはしない。無償の愛は注げない。残念ながら。

それなら、多分、あるいは、どうだろう。私たちにいずれ必要なのは、無償の愛ではなくて、違っていたらごめん、愛着ではないだろうか。できれば双方向の愛着が良い。難儀なことよ。愛着が生まれるには時間がかかるから。愛着って言葉に愛って字が入ってるのは、なんて皮肉だろう。

丸橋十二月「眼球で呼吸」
https://m12gatsu.thebase.in/items/28230655

愛着……。なるほど。

彼の答えがあっているかどうかはこれから検証していくけれど、優しい着眼点だ。

ごめんよ、きみがこんなに優しい考え方の人間だとは知らなかったよ。それを知れただけでも本を買って良かった。

象-世界を支える柱-

動物が好きだ。
デートコースとして提案すると毎回断られるが動物園に行くのも好きだ。

なかでも熊が一番好きだ。
英語とロシア語で熊の動画を検索するぐらい好きだ。一度は猟師になろうかと思ったぐらい熊が好きなのだが、今日は象について書く。

たまたま手にとった本がよくわからない象の本だったので、象について書く。

ロベール・ド・ロール著「象の物語」

アジア-大切にされた象-

象と聞いたときに思い浮かべるイメージは、大きくて、力強く、なにかほのぼのとした大きな愛情のようなものだ。

事実、インドの俗信の世界では象はしばし雲と同一視される。

ちなみにサンスクリット語の「ナーガ」は蛇のほかに、象と雲を意味する。

インドの象といえば商業の神ガネーシャも有名だ。
ガネーシャの存在は水野忠著「夢をかなえるゾウ」で知ったひとも多いのではないだろうか。

人生を幸せにする方法を関西弁のインド象が教えるロックな自己啓発書

ラオスやミャンマーでは白い象は比類なく尊いものと神聖視され、人間の中で際立って賢いものは、ひとに生まれ変わる直前に白象の段階を経たと信じられている。

森で発見された白象は人間によって丁重に捕獲され、宮中で金銀宝石に囲まれる一生を過ごす

また、白象はその神聖さから裁きの正当性を体現する生物とされ、死刑囚を踏み潰すためにも用いられた。

以上のように象はアジア諸国の宗教において特別な動物だった。

一方で、同じく象が生息するアフリカは、アジアと比較すると象に対して冷淡であるとロベール・ド・ロールは述べる。

アフリカ-殺す対象としての象-

どういうわけか、アフリカでは象がほかの動物を圧して文学や絵画に現れたり、崇拝や恐れの対象にはならなかった。

アジアでは至るところで象が飼育されたのに対して、アフリカでは象を飼育したのもヌビアやエチオピア周辺だけであり、その習慣もこれらの地域から象が姿を消すとともに廃れた。

象が崇拝や恐れの対象にならなかったとは言え、とるにたらない動物と見なされたわけではない。

事実、アフリカのピグミー族、ファン族の一部では象を人格化している。
神格化ではない…。

身長が低いためにピグミー族と呼ばれる

彼らは、長老や力のあるものが死ぬと象に生まれ変わると信じている。
それもただの象ではなく、群れを率いるリーダー象になる

群れのうち数頭を殺しても祟られないように、生まれ変わった象を敬わなければいけない。

あくまでも象を「殺す対象」として考えられている。

アフリカとアジアにおける象への意識の違いはなにからうまれているのか。
ロベール・ド・ロールの主張は独特である。

トラとライオンの生息地の違いだ。

ライオンの生息分布 青(現在の生息分布) 赤(歴史上の生息分布)

アジアにはライオンよりも獰猛なトラが人間の生活圏内にいた。

1900年代のトラの生息分布 アフリカにはトラがいないことがわかる

この地域の人びとにとって、象は恐ろしいトラを追い払ってくれる存在だった。

サンスクリット語の叙事詩には、象に対する虎の恐怖をテーマにした詩もあるほどだ。

実際にトラ狩りでは象が使役されてひとの手助けをしている。

戦闘用大型哺乳類-象-

トラ狩りに用いられた象はまもなくその怪力を認められて戦争にも駆り出された。

漫画キングダムにも登場する戦象さん

戦に象を駆り出したもっとも有名な例はポエニ戦争におけるハンニバルのアルプス越えだろう。

アジア諸国(ミャンマー、ラオス、タイ、カンボジア、ベトナム、中国)でも戦闘用動物として象の重要性が強調されている。

しかし、機動力の低さ・コストパフォーマンスの悪さ(ラクダの3倍の荷物を運べるが、6倍の食欲をもつ)・的の大きさなどから戦象の限界は早いうちに認識された。

戦象は、キングダムでも言及されていたように、象を見たことがない相手に対して有効な初見殺しではあるが、象がパニックを起こすと象使いはなすすべがなくなり、おとなしく殺されるしかない……。

トラ狩りにも駆り出された象を、犬や馬のように戦闘用に調教できなかったのはなぜか。

これを理解するためには犬と馬が家畜化できたのに対して、象は家畜化されなかったということを押さえる必要がある。

家畜になれなかった象

象が家畜ではないと聞くと、その主張は間違っているように感じるかもしれない。

タイやインドに行けば、ラクダや馬と同じように、象に乗って移動するひとを日常的に見ることできる。
そのうえ、象は器用なので鼻先で筆を持って絵も描ける。

これほど訓練される象が家畜ではないというのは一体どういうことか。

歴史学者ジャレド・ダイアモンドによると「家畜とは、人間の役に立つように食料や交配をコントロールし、選抜的に繁殖させて、野生の原種から作り出した動物」である。

つまり、動物が家畜化されていく過程で、人間による品種改良がされる。

象は、人間によって飼い慣らされた使役動物ではあるが、品種改良はされていない。

使役化までできたのだから、家畜化することで戦闘用としてさらに優れた品種に改良できる可能性は高い。

しかし、実際問題として象のように成長に時間がかかりすぎる動物は家畜化する意味があまりない。

一人前の大きさになるまで15年も待たなければいけない動物を飼育しようと考える牧場主がいるだろうか。
*参考までに、象は1日あたり200㎏の餌を必要とし、100ℓ以上の水を飲む。

小象を育てるより、成長した野生の象を捕まえて飼い慣らしたほうが安上がりであることは自明の理であり、アジアでは実際にそうしている。

思いがけず象について多くを学べたが、象を語るのであれば象牙の密猟問題を避けることは出来ない……のだが、長くなってしまったので別の機会にさせてほしい。

もしも象牙問題に興味がある人がいれば三浦英之著「牙 アフリカゾウの「密猟組織」を追って」を推奨する。

本書では象牙の密猟を促進させているのは日本だというショッキングな事実が語られている。

興味のないもの、関係のないことだと割り切っているその態度こそが、問題を重大化させている場合がある。

日常生活に役に立たない本を読む利点は、こういうことに気付くきっかけを与えてくれることだ。

では、また。

生命を救う金属

武力の象徴としての鉄

鉄、すべての金属のなかで特異的に総量の多い元素であり、地球の重量の30%を占める。
青銅製の武器をことごとく粉砕し、青銅器時代を終わらせた征服の金属。

製鉄技術を持たなかったインカ帝国は、鉄器を装備したスペイン軍の一隊によって滅ぼされた。

武力としての鉄の有用性はドイツ統一の立役者であるビスマルクの鉄血演説のなかでも強調されている。

現在の問題は演説や多数決 ―これが1848年から1849年の大きな過ちであったが― によってではなく、鉄と血によってのみ解決される。

1862年9月30日プロイセン衆議院予算委員会での演説

生涯で2000回以上浣腸をした太陽王ルイ14世が「朕は国家なり」と発言した一方で、ビスマルクは「鉄は国家なり」と考えた。
この時代、鉄は国家の土台だった。

鉄器時代到来以降、刀や槍の原料として用いられた鉄は、近代戦争においてさらに必要性を増していく。

近代戦争では巨大戦艦と大砲が主力となり、その脅威から兵士を守る鉄兜が大量生産され、戦争は鉄と鉄の戦いとなっていった。

鉄の歴史は製鉄炉の歴史

製鉄技術が武力をそのまま表すとすれば、鉄の発展は人類の発展に直結する

金やプラチナとちがって鉄は希少性も低く、ごく一部の地域を除けば世界中どこでも入手することが可能だ。

インカ帝国などの特定の地域で製鉄技術が発展しなかった理由はなんだろうか。

「銃・病原菌・鉄」の著者ジャレド・ダイアモンドによると、食料の過剰生産ができず、技術者を育成する余裕がなかったことが金属加工技術の格差をつくった原因である。

製鉄技術が文明の発展に及ぼした影響を調べようとすると、どうしても製鉄炉の変遷に行きつく。

おかげさまで製鉄炉の仕組みと作り方を学ぶことになったが、どう料理しても面白おかしく伝えることができない……。
というか、どの本読んでも半分以上(ひどいと8割)は製鉄炉についてだった。

製鉄炉は、鉄鉱石を燃やす炉である。なんの意外性もない。

鉄の融点は1536℃なので、製鉄炉の変遷とは炉内の温度をいかに高くして、連続生産を可能な構造にするための工夫である。

炉内を高温に熱して、鉄鉱石から鉄以外の不純物を取り除き、純度の高い鉄を生産する。
ところが、純粋な鉄(純鉄)は軟らかいため、純鉄を作るのは製鉄炉の役割ではない。

製鉄炉の役割はをつくることにある。
鋼とは、炭素含有量が2%以下の鉄を示す。

鋼のなかでも炭素の含有量によって名称が異なり……いや、製鉄炉の話はこのあたりで終わりにしよう。
興味を持ってもらえるよう伝える技術が足りない。
そのうち友人を巻き込んで製鉄炉を自作してみるのでそのときにまたブログに詳細を書こうと思う。

とにかく、製鉄炉で鉄を溶かすのは鉄鉱石から不純物を取り除くためだということだけ知ってもらえればよい。

「悪金」と呼ばれた鉄

純粋な鉄を溶かすために必要な温度は1500℃以上。
製鉄炉内で、鉄鉱石が1500℃まで温まるまでに(ここまでくると温まるというには違和感があるが)、鉄鉱石に含まれた不純物は融点の違いから鉄より先に溶けるか気体になる。

製鉄過程において鉄の最大の不純物は酸素だ。
鉄の原料である鉄鉱石はいわば酸化鉄である。

酸素が金属に結び付く酸化現象を、我々は「錆びる」という。

塗料の下からのぞく錆

錆びた鉄を見たことがないというひとは珍しいのではないか。
小学校の校庭で遊具を使用したことがあれば必ずといってもいいほど、酸化した鉄製の遊具と接する。

そして、われわれは錆びた遊具を見るなどして、普段の生活のなかで鉄は錆びやすい金属であるということを学ぶ。

鉄から酸素を取り除く技術が発達していない時代、鉄はすぐに脆くなるため中国では「悪金」と呼ばれて、青銅(美金)と区別されていた。

ちなみに酸化鉄から酸素を取り除くために必要な温度が400~800℃であり、青銅(銅と錫の合金)の融点は700℃程である。
どちらの金属がより簡単に扱えるかは明らかだ。

事実、青銅器は現代でもきれいな形で遺っているが、鉄器は遺っていても酸化してぼろぼろになっている。

比較的きれいな状態で保管されていてもぼろぼろな鉄器

いや、ちょっと待て。インドに1500年以上前につくられた錆びない鉄塔があると聞いたことがある。
あれはたしか、不純物の無い純粋な鉄でできているから錆びないのではなかったか。

チャンドラバルマンの鉄塔

この鉄塔の成分を調べたところ99.72%が鉄で出来ていることがわかっている。
残念ながらこの程度の純鉄であれば簡単に作れるし、50年ほど雨ざらせば錆びてしまう。
純鉄だから錆びないというのは迷信だ。

インドの鉄塔が1500年以上錆びない理由は表面がリン酸化合物でコーティングされているからだとか諸説あるが真実はわかっていない。

物質は与えられた条件下でもっとも安定した形をとろうとする。
つまり、鉄は酸化することで安定するのであり、このため銅や銀のように自然銅・自然銀と呼ばれるような自然鉄というものは存在しない。

人体のなかの鉄

突然だが、あなたは何分くらい水中に潜れるだろうか?
5分?素晴らしい記録だ。

ギネス記録を見るとどうだろう。驚くことなかれ、なんと24分3秒だ!
*Youtubeで動画をみることができる24分間ずっと潜っているだけで起承転結をぶん投げたクレイジーな動画だ。

なぜわれわれは水中に長時間潜ることができないか。酸素がないからだ。

地上にいる時、われわれは口と鼻をつかって酸素を取り込む。取り込んだ酸素は肺から全身に運搬される。

このとき、酸素の運搬を助けるのが鉄だ。

血中にはヘモグロビンという鉄分子を含んだタンパク質が存在する。
ヘモグロビンは、酸素と結びつきやすいという鉄の性質を活かし、肺で酸素と結合し全身に酸素を運搬する。

ヘモグロビンの量が少ないと、全身に供給される酸素量も減少するのでめまいや立ちくらみを起こしやすくなる。
この症状を貧血という

鉄がいかに人体に必要不可欠なものか理解してもらえただろうか。

悪金と呼ばれた鉄は、その悪名の云われとなった性質を利用して人体で大活躍している。

酸化しやすいという短所を克服する技術としての製鉄、短所を利用したヘモグロビン。
役に立てない環境はあっても、役に立たないものはないのだ。

では、また…と締めくくりたいところだが、せっかくなのでヘモグロビンの特性と、とんでも医療についても少しだけ触れたい。

鉄は錆びると赤くなる。(錆び方には2種類あるが、ここでは赤錆についてのみ書く)

酸素と結びついたヘモグロビンは赤くなるため、動脈の血(全身に酸素を運搬中)は赤く、静脈の血(運搬が終わったので肺に帰宅中)は黒い。

ちまたでは静脈から抜いた血液にオゾン(酸素)を注入して赤くした血をまた体内に戻す血液クレンジングとかいう世にも奇妙な医療が一瞬だけ話題になっていたが、上記の仕組みを理解していればこの医療に金を払うのがいかに馬鹿げているかわかる。

普通に呼吸していれば血液クレンジングだ。
とは言え、目の前で自分のどす黒い血が鮮やかな赤に変わっていく様子を見れば非常に良い医療のように感じてしまうのもわからなくはない。

では、また。

石ころに付加価値をつけたコロナ

世にも危険な医療の世界史

コロナの影響で世界中が大騒ぎをしている。

信じられないことだが、たったひとつのデマを発端にスーパーからトイレットペーパーが姿を消し、水に流せるティッシュが代わりに棚に並ぶ様には目も当てられない。

しかしなによりも驚いたのは花崗岩がコロナ対策になるとしてメルカリで出品され、SOLD OUTしたことだ!

どんな経緯で花崗岩がコロナ対策に有効だと信じるひとが続出したのだろう。

簡単に調べたところ、免疫効果を高めるためにはテロメア長を延ばすのが効果的であり、テロメア長を延ばすためには花崗岩内部にあるラドンなどの成分が利く、という意味の分からないトンデモ科学がデマの発信元らしい……。

しかし、少なからずのひとがこのデマを信じて花崗岩を購入しているから、メルカリにただの石が出品されて、しかも売り切れたわけだ。
背景にはふたつの要素がある。

ひとつは、長生きしたいという強い欲求。

もうひとつは、一見すると納得できそうな理屈であること。

花崗岩がテロメア長を延ばすというウソが本当だった場合、 ”免疫をつけるために花崗岩を持つ” ことは理屈は通っているからだ。

そして、生きることへの執着で曇った目は、それっぽく見える屁理屈に簡単に騙される。
このようにして、人類は現代までに何度もとんでもない医療を繰り返してきた。

始皇帝からリンカーンまで服用した秘薬

漫画キングダムでさらに知名度を高めた始皇帝が不老不死の秘薬として水銀を服用していたことは広く知られている。

結果的に彼は50歳手前で水銀中毒で命を落とすのだが、史記によると彼の陵墓には水銀の川が何本も流れていると書かれていた。

事実、始皇帝の陵墓は水銀濃度が高く、墓を開けると有害な毒素が放出されるおそれがあるため今でも発掘作業は終わっていない

始皇帝の陵墓

数ある金属のなかで唯一常温でも液体として存在するため、神秘的なイメージが水銀にはある。

水銀の英名であるマーキュリーはローマ神話の神が由来となっているし、
インド錬金術で、水銀はシヴァ神の精子からできているとされている。

この金属に不思議なちからが宿っていると言われてしまえば、紀元前の時代を生きた始皇帝でなくとも納得してしまう。

水銀

しかし、神秘的なこの金属は、後に薬どころか恐ろしい毒物だということが判明した。
例えば日本で広く知られている水俣病も水銀中毒が原因である。

水俣病が公式に公害問題となったのが1950年代であることから、水銀の有毒性が認知されたのはつい最近だということがわかる。

第16代アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーン(1809~1865)も水銀を薬として服用していた。
幸いなことにホワイトハウスにはいってからは服用量を減らしていたらしいが……。

黄金の毒

水銀がつい最近まで薬だとして信じられていたように、ひとびとは金もまた薬として利用できると信じていた

金は非常に安定した金属であり、酸化もしにくく経年劣化に強い。
いつまで経っても姿かたちの変わらない黄金色に輝く金属に、ひとびとは不老不死との関連性を見出した

ところが、安定性の高さゆえに注目された金は、安定性の高さゆえに人体に吸収されないし、溶かしても常温では凝固してしまうため飲み薬として使用できない。

*水銀が薬として長く愛用されたのは見た目の神秘性以外にも、常温で液体という人間にとって摂取しやすい特徴があったためではないだろうか?

中世の錬金術師はこぞって「飲める金」を作ろうと試行錯誤を繰り返した。
1300年頃、ゲベルという錬金術師がついに金を溶かす溶媒として ”王水” を作ることに成功する。

王水に溶ける金

王水によって溶かした金を加工すると、塩化金が生成される。
塩化金は水に溶かして飲むことができる。
こうして、人類はついに「飲める金」を手に入れた。

おそらくあなたは予想していると思うが、「飲める金」は薬としては機能しない
それどころか、塩化金はおそろしく腐食性が強く、腎不全や頻尿を誘発する毒だった……。

当時どれだけの人間が塩化金によって被害を受けたのか定かではないが、幸いにも金は貴重なため水銀ほど人間に被害は与えなかったと推測できる。

2000回以上肛門をさらした太陽の王

結果的に猛毒だったとは言え、ポジティブなイメージのある水銀や金を体内に取り入れることによって、体の調子を良くすると信じられていた。

この考え方自体はまったく間違っていない。


たとえば、20種類あると言われる必須アミノ酸のうち、人間が体内で生成できるアミノ酸は9種類しかない。
だから、食物やサプリメントを摂取することで体内で生成できないアミノ酸を取り入れる。

一方で、不調をもたらす要因が体内にある場合、体内から排出することで体の調子を整えるという考え方もある。

腫瘍を取り除く外科手術はその最たる例であり、もっと身近なところでいえば鼻水や糞尿も同じことだ。

かつて人間の体液は血液を中心とした4種類の体液から構成されている ”四体液説” という考え方があった。

4つの体液のバランスが崩れると病気になると信じられ、バランスを整えるために瀉血という血液を抜く治療が流行する時代もあったのだというから恐ろしい。
*モーツアルトは死の直前に2リットルもの血液を瀉血によって抜かれている。おそらく死因は……。

便秘になると、腸にたまった糞が毒素を排出し、体が汚されるという考え方(自家中毒)もある。

糞便が体内で腐敗を起こすという考え方はわからなくもない。
このため、中世ヨーロッパでは浣腸が爆発的な流行となり、太陽王ルイ14世は生涯で2000回以上浣腸をしたという記録がある。(2000回‼)

フランス史上最も長い在位期間を誇る偉大な王 ルイ14世
心なしかおしりをこちらに向けているようにも見える

間違った情報で構成された正しい理屈

これまでに見てきたとんでもない医療の数々を、過去の人間の無知さゆえだと馬鹿にすることは誰でもできる。

しかし、注目して欲しいのはどうしてこのようなとんでもない医療がまかり通ってしまったのか、ということだ。

水銀は、常温で液体の金属という特異性から神秘のちからを持っているように思えるし、安定性の高い金を摂取することで自身も同じように安定した肉体を手に入れることができるという考え方は理屈だけは通っている。

西遊記の妖怪たちは徳の高い三蔵法師の肉を食べることで不老不死となれることを信じていた。
ファンタジーの世界などで真偽はともかくとして、妖怪たちの理屈もまた筋が通っていると思わないだろうか?

瀉血や浣腸も、体内から有害な毒素を体外へ排出するという理屈は合っている

理屈が合っているのであれば、正しい知識がない時代の常識から考えると、目を覆いたくなるこれらの危険な医療が流行した理由がわかる

花崗岩や水素水、EM菌なども同じだ。
情報が間違っているだけで理屈は通っているから多くのひとが騙されてしまう。

本書では、医療における数々の黒歴史がこれでもかとまとめられているが、われわれは今後も黒歴史を積み上げていくのだろう……

では、また。

美しさを理解するために知性は役に立つか

美しいとはどういうことか

なにかを美しいと思った経験がこれまで何回あっただろう。

冬の田舎道をひとり自転車で走り見上げた夜空、夏目漱石の ”こころ” 、クリムトの絵画、あるいは北川景子の横顔。

クリムト「接吻」

いずれも、その美しさを言語化するのが難しい。
美しいものを見たときになぜそれを美しいと感じたのか、美しいと感じる要素はなにであるか、ということを突き詰めて考えてみたことがある。

美しさとはわかりやすいことである
美しさとは足し引きを嫌う
美しさとは体験の中にのみ存在する

以上が、自分の考える美しさの定義だ。
とは言え、素人の意見ひとつだけでは独断と偏見が過ぎるので、プロフェッショナルの意見も参考にする。

美を見て死んだ男の審美眼

スペインを拠点に活動していた画家の堀越千秋は著書「美を見て死ね」のなかで、美しさについて以下のように言及している。

美しさは正しさである。
だが正義ではない。
正義の名のもとに人は悪事を働く。
国もそうだ。
しかし美の正しさは神に属する。
人には、利用されない。

堀越千秋「美を見て死ね」

「人には 、 利用されない。」
この読点に堀越の思想が滲み出ているようで最高にイカしていると思う。
そういう意味ではタイトルもいい具合にいかれていて最高だ。
他人のエゴが滲み出る瞬間とはどうしてこうも愛おしいのだろう。

美を見て死ね

「美を見て死ね」には、堀越が推奨する美術品の写真とそれぞれの作品についてのコメントが述べられている。
読み進めてくうちに、堀越の審美眼の一端を自分のものにできたように錯覚する、ある種のドーピングのような効果があるエッセイだ。

美しさについて言及するとき、我々の多くは「真の美しさは抽象的なもののなかにのみ存在する」という哲学的偏見を持っていることに気付く。

堀越は、美を神と結びつけることで美の抽象度をひとの手が届かぬところまであげてしまった。
*読点の位置から読み解くに、堀越は美とひとの関係が実際にどうであったにしろ、切り離して考えていたのだろう……。

イギリスの美術評論家ジョン・ラスキンもまた、知性を介さずに歓びを与えてくれるものをなんであれ美しいと定義している。

ジョン・ラスキン

知性を介さないということはつまり、美は直感的に理解されるものであり、複雑性を持たない抽象的な世界に存在している。

上述した3者(他2名に比べて自分は圧倒的に美に対する知識が浅いが……)の意見をまとめると、美について各々のスタンスはあれど、抽象的なものとして語られていることがわかる。

誰もが、美について語ろうとすると抽象的になってしまう。
そして、このことがわれわれに美しさは抽象的なもののなかにしか存在しないという偏見を持たせる。

この哲学的偏見に異議を唱えるのが本日紹介するロバート・P・クリースの「世界でもっとも美しい10の科学実験」だ。

知性の領分に存在する美

世界でもっとも美しい10の科学実験

科学実験が美しいとはどういうことだろう。

少なくとも小・中・高で勉強した理科の実験のなかで美しいと感じたことは一度もない。
というよりも実験という作業を美しいと感じることができるのは、その領域で当たり前のように呼吸をしてきたいわゆる専門家のような人間だけの特権なのではないか。

タイトルを見た時点でこのように考えてしまったのであれば、あなたは美に対する哲学的偏見に支配されている。

われわれがなにかを美しいと感じるとき、その美しさは直感的に把握されるべきであり、知性は不要だという暗黙の了解がはびこっている。

この暗黙の了解に対し、科学実験は客観と知性の領分からうまれるために、 ”美しい” と表現するには違和感を覚えるかもしれない。

ところがクリースは、科学実験という客観的、且つ、知性的な作業にも美はあると異論を唱える。

哲学的偏見の先にある美の特徴

クリースの主張を理解するために、われわれの中にしつこく根付いている哲学的偏見(美は抽象的なものの中にのみ存在す)を取り払わなくてはいけない。

仮に美の構成要素を理解したとしても、その構成要素から新しい美を創造するのは難しい。
*ピカソの使った道具や、彼の技術、思想を理解していたとしてもオリジナルの美を簡単に創作できるわけではない。

このために、われわれは美を抽象的なものと捉えがちだ。

しかし美についての考察をひとつ先に進めると、ある特徴に気付く。
美は人の内面に特殊な充足感を引き起こす

言い換えると、美しいものは「私が求めていたのはこれだ!」という喜ばしい気づきをもたらす

どれだけ審美眼を鍛えたところで、新しく出会う美がどのようなものであるかは推測できない。

しかし、今まで出会わなかった美を前にしたとき、ひとは自分の求めていた美がどのようなものだったかを知る。

そして、科学実験にもまたこのような特徴が確かにある。

クリースは本書を通して、 ”もしも実験に美があるのなら、それは美にとってなにを意味するか?” という問いに答えを出す。

問いかけの答えは、より古い伝統を持つ美の意味をよみがえらせるのに役立つ。

われわれは哲的偏見に囚われてしまっているため、古い美の意味も忘れている。

古代ギリシャ人は美と芸術作品に特別な結びつきを認めず、模範的なものとの関係において美を捉えた。
*法則、制度、魂、行為など

その結果として彼らは真と美と善に密接に絡み合い、深い根元で結びついていると考えた。

そして、ワインの歴史背景を理解したものだけが、高価なワインの味に感動できるように真と善と結びついた美を味わうために、ひとは知覚を行使しなくてはその意味に気が付けない。

本書では、クリースが独自に選んだ10の科学実験がとりあげられているが、科学実験そのものについてはウィキペディアを参照にしても得られる知識だ。

この本の真の価値は、ひとつひとつの実験の説明後にはいるクリースのコラムに発揮される

実験内容の説明によって科学への理解を深め、コラムで美に対する偏見を丁寧に剥がされる。
この繰り返しによる知覚の行使が心地よい。

知識が増えるということは、真に自分が求める美に対して敏感になるということでもある。

では、また。

Googleマップを騙した幻の島

積極的に意見交換するゴリラになりたい。

2005年にGoogleマップが登場した。
ご存知だとは思うが、Googleマップは目的地までの最短距離や手段別の経路、目的地までかかる時間など、地図上のありとあらゆる情報を詳細に提供してくれる。
初めての土地でも端末にこの地図さえダウンロードされていれば道に迷う心配もない。

ところで、地図が現実世界を正しく描写したのは西暦何年頃だろう?

コロンブスがアメリカ大陸を発見したのが1492年。
1582年に没した織田信長にルイス・フロイスが地球儀を献上していることを考えると、16世紀には大方の島は発見されていた。

また、1821年に伊能忠敬が日本地図を完成させたことから、19世紀には現実世界の細部まで地図は描写していたのではないか、などと漠然と推測できる。

ところが、1876年に捕鯨船がニューカレドニア島から400㎞離れたところに新しい島を発見している。

19世紀後半になっても世界はまだ発見され尽くしていなかったのだ!

新たに発見された島はサンディ島と命名され、Googleマップにもその姿が確認された。
しかし、真に驚くべき事態が2012年に発覚する。

なんと、オーストラリアの海洋調査チームの報告により、地図上に記されたサンディ島が存在しないことが判明したのだ。

Googleマップの誕生が2005年。
サンディ島が地図上から消されたのが2012年。
なぜGoogleマップに7年間も存在しない島が載っていたのだろうか?

古い地図のもつ価値

エドワード・ブルック=ヒッチングの著書 ”The Phantom Atlas” は、かつて実在したと信じられている島や川、大陸などが描かれた古い地図がまとめられている。

上述したサンディ島もそのうちのひとつだ。

どうしてひとは存在しない島が存在していると信じてしまったのだろう。
しかも、100年以上もの長い間。

この理由こそがまさに ”The Phantom Atlas” の邦題にある。

つまり、地図に描かれていたからである。

かつて人類は、現実には存在しないが地図上に存在する島を探して多くの時間を費やした。
まさに世界をまどわせた地図だ。

正確な描写ではない過去の地図に何の意味があるのか?
確かに、間違った地図には地図としての価値はないかもしれない
しかし視点を変えれば別の価値に気付けるに違いない。

間違った地図に描かれているのは、その当時にひとびとが見たかった幻想だ。

オーストラリア内陸部の水源

下図は1830年に発行されたオーストラリアの地図だ。
なにかおかしなところはないだろうか?

世界をまどわせた地図より

ぱっと見ただけでは大きな違和感を抱かないかもしれない。
では続けて、実際のオーストラリアの地図を見てほしい。

現代のオーストラリア地図

……
*正確には内海

1830年の地図では、オーストラリアの内陸に大きな水源が広がっているのに対し、現代の地図には水源はない。
当然、現実世界のオーストラリア内陸部にも大きな水源などない。

笑ってしまうぐらい豪快に間違っている地図だ。

しかし、水源こそなかったものの1830年の地図と現代の地図を比較しても国の輪郭はほとんど変わらないことに注視してほしい。

ふたつの地図の重ね合わせ

どうしてこれほど精度の高い地図に、ありもしない水源が描かれてしまったのだろう?

オーストラリアがヨーロッパ人(ジェームズ・クック 英)に発見されたのは1770年のことである。

当初、オーストラリアは囚人の島流し先となっていた。
後にイギリスは植民地政策拡大のため、未踏だった内陸部の探索に踏み出した。

当時のイギリス人は、オーストラリアのような大きな島をひとつの大陸のようなものだと考えていた。
そして、他の大陸と同じであれば、内陸部から流れる川は山につながっており、そこから別の川へつながっていることを彼らは経験から知っていた。

広大なオーストラリアの中心には緑豊かな楽園が広がっているという希望的観測に基づいて描かれたために、ありもしない水源がオーストラリア内陸部に堂々と登場したのだ。

現実と幻想が混在する面白さ

この他に、平面状の地球図も紹介されている。なんと発行されたのは1893年だ。

信長が地球儀を受け取ったのが16世紀であることを考えれば、信じられないくらい時代錯誤の地図であると言わざるを得ない。

幻想の大陸として最も名高いアトランティスは我々を長年魅了してやまない。
(プラトンがアトランティスについて記述したのが紀元前360年……!)

もちろん、アトランティスが描かれた世界地図も存在するし、当然この本に掲載されている。

まさに見たいものが描かれた地図たちだ。

それぞれの地図を見ればわかるのだが、地図に描かれたすべてが荒唐無稽な空想の産物というわけではなく、細部はむしろ現実世界を忠実に描写しているものが多い。

つまり、現実世界のなかにひとびとが見ようとした幻想がリアルな形を持って描かれている。

”世界をまどわせた地図” は、現実と幻想が混在するロマンあふれる世界の特集なのだ。

とはいえ、そのロマンに2012年まで騙されていたことを思い出していただきたい。
現実と幻想が混在していることを前提として見れば面白いが、それを知らなかった人々にはたまったものではない。

なにしろ ”現実に存在しないもの” を求めて長い航路に旅出ているのだ。
求めているお宝は見つかるわけがなく、実際に本書にはあるはずのないものを探し求めた悲劇がいくつも書かれている。

しかし、いくつもの悲劇を乗り越えて、現代のGoogleマップが完成した。
アニメワンピースの主題歌にもあったフレーズだ。

埃かぶってた宝の地図も確かめたのなら伝説じゃない。

きただにひろし「ウィーアー!」

間違いが発覚することもまた前進である。

では、また。

上手にひとに頼れない

目次
1. ひとに頼む技術
2. 何故ひとはひとにものを頼むのを嫌がるのか
3. ”あなたに借りがある” と思うと返したくなる
4. 返報性の認識が異なることによって起こる悲劇

独白するだけのゴリラになりたい。

どうして我々はひとにものを頼むことがこんなに苦手なのだろう。

それは、5つの社会的脅威(ステータス、確実性、自律性、関連性、公平性)を同時に体験する可能性があるからだ。

ひとに頼む技術

「読む本の種類変わったね」

昼食時に、自分のカバンから顔をのぞかせた派手な黄色の本を見つけた妻からの言葉だ。

「最近はより現実に即した本を読むこと多いね」

自分がカバンに潜ませていたのはハイディ・グラント著 ”人に頼む技術” という本だ。
”現実に即した本” と評されるのも納得の本である。

”バーティミアス (3) プトレマイオスの門” に比肩する黄色さ

確かに、自分は日常生活ですぐ役に立つ、いわゆるハウツー本を好んで読むタイプではない。
しかし、年末に職場で起きた不可解なトラブルを理解するのに役立ちそうなのでアマゾンでポチってみた。

職場における不可解なトラブルというのは、事務職の同僚に彼女たちが担当する仕事を頼んだところ、
「もっと ”お願いします” と ”ありがとう” を言って欲しい」
と主張されたことである。

まったくもって意味がわからなかった。

労働の対価として賃金を得ているのに、何故 ”お願いします” ”ありがとう” という言葉を要求するのだろう?

そもそも業務範囲内の仕事をしっかりこなせないのにどうして対価を要求してくるのか、その図太さに苛立ちすら覚えた。普通に険悪なムードになった。

しかし、ただの言葉で業務が円滑に進むならば仕方ないと、翌日から彼女たちの要望通りにしてみた。

ちなみに翌日からというのは嘘である。
自分を無理やり納得させるのに5営業日かかった。苦痛だった

そんなこともあり、自分はひとにものを頼むのが死ぬほどヘタクソだと気付き、この本 を購入した次第である。

何故ひとはひとにものを頼むのを嫌がるのか

ひとにものを頼むのがヘタクソ、あるいは苦手なひとは多い。
なぜだろう。

ミルグラム実験、別名アイヒマン実験で有名なスタンレー・ミルグラムは学生に依頼し、混雑した地下鉄内で無作為に選んだ乗客に席を譲ってもらうように話しかける ”地下鉄実験” を行った。

他人の命令に従っている時、ひとはどれほど残酷なことができるのかに触れた名著

実験の結果、68%の乗客が席を譲ってくれた。
一方で、被験者の学生たちは乗客に話しかけることに強いストレスを感じることがわかった。

ストレスによるパフォーマンスの低下を感じたことがあるひとは珍しくない。
おそらくあなたも身に覚えがあるだろう。

このようなネガティブな反応(痛みの反応とそれに伴う作業記憶や集中力の低下など)をもたらす社会的脅威を、デイビッド・ロックは5つのカテゴリーに分類した。

  1. ステータスへの脅威
  2. 確実性への脅威
  3. 自律性への脅威
  4. 関連性への脅威
  5. 公平性への脅威

冒頭にも書いたように、他人に何かを頼む時、我々はこの5つの社会的脅威を同時に体験する可能性がある。

人は他者に何かを頼むとき、無意識にそのことで自分のステータスが下がると感じやすくなります。
―中略―
相手がこちらのリクエストにどう応えてくれるかがわからないので、確実性の感覚も下がります。
また、相手の反応を受け入れなくてはならないので、自律性の感覚も低下します。
相手に「ノー」と言われたとき、個人的に拒絶されたように感じることがあるため、関連性への脅威も生じます。
そして、もちろん、「ノー」と言われたときに、相手との関係に特別な公平性を感じることはめったにありません。

ハイディ・グラント「人に頼む技術」

上述の理由から、ひとは他人にものを頼むことに強いストレスを感じるのだ。
多くのひとが他人にものを頼むのを嫌がる理由がよくわかる。

「人に頼む技術」では、この前提からスタートし、頼まれる側の心理にも踏み込んだうえで、どのように頼めばwin-winの関係を築けるのかに言及している。

非常に読みやすい上に日常生活の経験知に結び付きやすい事例を多く扱っている説得力のある本だ。
巻末に参考文献の記載がないことはやや不満だが買って損はない。

”あなたに借りがある” と思うと返したくなる

相手に借りがある場合、ひとは借りを返すために頼みごとを受け付けやすくなる。
直感的にも納得してもらえるだろう。

与えられたものと同等のものを返したくなる心理は、心理学用語で ”返報性” と呼ばれる。

本日のメインテーマはこの返報性に集約されている。
すなわち、賃金という対価を受け取っているのに、「ありがとう」や「お願いします」という言葉を求める同僚と自分の報酬に対する認識の違いだ。

Frank Flyennによると、返報性は、
① 個人的返報性
② 関係的返報性
③ 集団的返報性

の3種類に分類されている

個人的返報性は取り決めによる交換である。

バイトのシフトを代わってもらったから、次は自分が代わってあげた、というような返報だ。
取り決めた以上のことはしないし、相手に対する特別な感謝もない
義理や貸しの感覚は、自分の番を担当し終えると消える。
いわゆる、ビジネスの関係を指す。

関係的返報性は親密な関係にある相手とのあいだだけに生じる。

何をするかについての取り決めはなく、漠然と自分が困った時にも助けてもらえるはずという前提で相手を助ける。
感謝と義理の両方が生じるが、それはその相手とのあいだに限られる

集団的返報性は内集団での一般的かけあいだ。

すぐに見返りが得られることを前提にせずひとを助けようとする。
必ずしも相手から見返りがあることを期待しない。
誰かを助けることは巡り巡って自分に返ってくるという暗黙的な考えに基づいている。

返報性の関係についての認識のずれがあるとコミュニケーションに齟齬が生じやすい。

コミュニケーションの齟齬により険悪な雰囲気になったことはあなたにもあるのでは?

返報性の認識が異なることによって起こる悲劇

3種類の返報性について知ることで、自分と同僚の間に起きたトラブルの根本が理解できた。

自分は、担当者が担当する業務を処理することは当然の義務であると考えている。当然それは自分にも当てはまるし、すべての社員に当てはまる。

そして、担当の業務を行うことは、集団返報性に基づいて会社全体に還元される。
わかりやすく言えば売り上げだ。

一方で彼女は、が ”彼女の担当する仕事” を ”担当者である彼女” に回したことに対しての返報を会社全体のかけあいではなく、決められた業務をパスし合うだけのもの(個人的返報性)だと認識した。

彼女からすれば、労働を強いられたのに返報がないという認識になる。
このために、彼女は仕事を頼んできた私に感謝と依頼の言葉を対価として要求したのだ。

ひも解いてみればなんてことのないコミュニケーションの齟齬を理解するために2ヵ月以上かけてしまった。

なんとなく馬が合わなかったり、苦手意識のある相手があなたにもいるのであれば、返報性の話は新しい視点を与えてくれる可能性がある。

たいていの人間関係のトラブルは言葉足らずから起きる。
知識は、言葉の不足による不透明さに色を与えてくれる。

あなたの知っている色を、自分にも教えてもらえると嬉しい。

では、また。