映画「望み」のナイフとチェーホフの銃

「愛する息子は、殺人犯か、被害者か、それとも―――」

雫井脩介の小説「望み」の実写映画を観た。

ここ2年ほどのなかで一番苦しくて美しい映画だと思った。

「望み」というタイトル通りのテーマとは別に、息子の立場を暗示するナイフの扱い方に感心した。

「望み」のあらすじ

 一級建築士の父親とフリー校正者の母親は、父親がデザインを手掛けた邸宅で、高一の息子と中三の娘と共に幸せに暮らしていた。
息子は怪我でサッカー部を辞めて以来遊び仲間が増え、無断外泊が多くなっていた。高校受験を控えた娘は、一流校合格を目指し、毎日塾通いに励んでいた。

冬休みのある晩、息子は家を出たきり帰らず、連絡すら途絶えてしまう。翌日、両親が警察に通報すべきか心配していると、同級生が殺害されたというニュースが流れる。
警察の調べによると、息子が事件へ関与している可能性が高いという。さらには、もう一人殺されているという噂が広がる。

父、母、妹――それぞれの<望み>が交錯する。

物語の冒頭、怪我で部活を引退して荒れた息子に父親が「サッカー以外に興味のあることはないのか?」と語りかける。

若いうちからもっと色々なものに興味を持っていればよかった、何もしなかったら何もできない大人になるだけだ。考え方次第で、未来は変えられると、半ば自分の高校時代を振り返るように父親は続ける

うるせぇ。不貞腐れている年頃の高校生に未来を語るな。聞くわけないだろ、と思わず眉をひそめた。

画面のなかで石田ゆり子演じる母親も同じように渋い顔で父親を見つめ、息子は俯いて反応を示さない。

デザイナーとして成功している父親、一流高校の入学を目指し努力する娘、順調に歩んでいる二人に対し、傍目からは停滞している息子。

この時点で家族間に明暗があることが匂わされている。

事態がきな臭くなるのは、母親が息子の部屋のごみ箱から切り出しナイフの空箱を見つけてからだ。

部活を引退し、不貞腐れ、夜間外出が増えた息子が何の目的かナイフを購入していた。文面として並べれば、不穏なものを感じずにはいられない。

結局、ナイフは父親が取り上げて事務所の工具箱にしまわれる。

その後、息子は姿をくらまし、後日、息子と夜遊びをしていたと思われる同級生が殺害されたことがニュースになる。

しかも遺体には刃物でつけられた刺し傷が……。え、これってもしかして……?

小道具としてのナイフの重い存在

映画「望み」は、息子が加害者なのか被害者なのかという点が最大のミステリー要素となっている。

加害者であっても生きていてほしいと望む母親と、兄が加害者だと困ると父親に告げる娘、そして心優しい息子が加害者なはずがないと願わずにいられない父親。

三者三様の「望み」が家族を多面的に描いた、苦しくて美しい作品だ。

しかし、注目すべきは序盤以降行方が分からない息子とナイフだと主張する。

この作品に関して言えば、息子=ナイフという図式が成り立つ。

父親によって工具箱に隠されたナイフは、いわば誰も心情がわからない息子を描写している。

息子が加害者ではないのかという噂が広まり始めた段階で、聞き取りにきた警察から息子さんがナイフのようなものを所持いていなかったかと問われる。

ナイフの有無が息子の立場を決定付けるという暗示のように思えた。

また、記者から「聞き込みによると息子さんは被害者ではなくむしろ……」と母親へ伝えるシーンと時同じくして、取り上げたはずのナイフが事務所の工具箱から消えていることに父親が気付く。

事務所のスタッフに確認したところ、息子が事件発生直前に持って行ったのを目撃していたことがわかり、ショックのあまり父親は、スタッフとの会話の途中で電話を切ってしまう。

息子が行方をくらましてから父親が工具箱を確かめなかったのは、息子への信頼があったからだ。あいつが誰かを傷つけるわけがない、その思いが工具箱から父親を遠ざからせた。

ナイフが工具箱からなくなるという発想自体がなかったのだ。

ナイフが息子なら、工具箱は父親の信頼だった。しかし、現実には息子は信頼から抜け出していた。

チェーホフの銃

※ここからネタバレ

実を言うと、切出しナイフが物語冒頭に登場した時点で、ここまでの流れは予測できていた。

小説や映画好きならおそらくご存じチェーホフの銃というやつだ。

もし第一幕から壁に銃が掛けてあると述べたなら、第二幕か第三幕で、それは必ず発砲されなければならない」という、ストーリー作成において、前段で持ち込まれたものは後段で使わなければならず、そうでないなら取り上げるべきではないというルールである。

新海誠の作品「天気の子」で物語の冒頭に銃が登場した時、美しい画面の中になんて不穏なものを出すのだと思った。

そしてやはり中盤で銃は事態を変える引き金となり、終盤ではその引き金が引かれた。

「望み」に登場する切出しナイフも役割は同じだ。息子が加害者なのではないかという疑いを決定付ける銃として冒頭から登場する。

チェーホフの銃の理論に従えば、切出しナイフは鞘から抜かれなければならない。

だから最初からこの物語は幸せな結末を迎えないし、息子はひとを刺したのだと直感していた。

息子が加害者であるという状況証拠に呆然としながら、父親は息子の部屋に足を踏み入れる。そこで、あの日自身が息子に放った言葉のメモを見つける。

何もしなければ、何もできない大人になる

届いていた……。あの日反応を示さなかった息子だが、届いていた!

だとすれば、あいつはやはり俺の知っている息子だ!

父親が息子の机をひっくり返すように引き出しを開けると、思った通り、工具箱から姿を消したナイフが出てきた。

チェーホフの銃は発砲されなかった。

「切出し、規士の机の中にあった。自分の意志でナイフを置いて行った。あいつはやっていない、加害者じゃない」

事件に関わっているが加害者ではないということは、つまり……。

果たしてナイフを見つけた時の父親の気持ちはどんなものだったのだろうか。

父親は息子にそうするように切り出しナイフを胸に抱き、そして、ある場所へ向かう。

苦しくて美しい

「望み」は非常に心を揺さぶられる作品だ。

母親として、子供が加害者だとしても生きてほしいと望み、父親は息子がひとを傷つけるはずがないと信じる。

加害者か被害者か、ということが生きているか死んでいるかに直結して扱われている点はやや納得できないが、それは些末なことだ。

観ていて、父親にも母親にも娘にも共感しながら、自分だったらどう思うのか、あるいは問題が起きる前に何ができたのかと考えさせられる。いや、悩まさせられる。

家族愛を多角的に描き、登場人物の揺れ動く心情に深い共感を持たせた、苦しくて美しい映画だった。

アマゾネス、インドでマザー・テレサになる。その前にカンボジアでキャバ嬢をやる

彼女はヒマラヤに村を作りたいと言った

高校卒業以来ほとんど交流のないOと再会したのはオーストラリアでだった。5年前の話だ。

当時旅人だった自分とOが、ワーキングホリデーで有名な地に流れ着くのは当然の帰結だった。おまけにOが住むのにいい場所を知っていると言うので、お言葉に甘えて宿も同じにした。

シドニー郊外の終着駅で久しぶりに会ったOは全身からギラギラした生命力を垂れ流し、妙に刺々しく、全然日本語でコミュニケーションとる気がなかった。

「日本出てるのに日本語話さないといけないの意味わからくない?
私、わざわざ外国に来てるのに日本人同士がつるむの見てると何しにきたの?て思う」

英語以外の言語で話したら敵とか新手のアマゾネスかよお前、と思った。

当時の彼女は少しでも敵になりそうな相手には先制攻撃のように口撃していた。

敵というか、価値観が異なったり、与えられた環境で100%の努力をしない相手に対してか。

一緒にいるの普通にしんどかったので、さっさと住む場所を変えておさらばした。

あれから、多分一度も会っていないまま5年が経過した。

そのOがヒマラヤに村を作りたいと申した。

聞くところによると、現在Oは彼氏とロシア人のカップルと4人で家を借りてヒマラヤで生活しているらしい。

経緯は気になるけどちょっと意味が分からなかったので、うんうんと相槌を打って流した。

久しぶりにまともに会話するOからは、相手を叩きのめしてやろうとか、自分の凄さを見せつけてやろうというエゴが消えていた。

私は私、あなたはあなたという自然体の態度で、俺の知っているアマゾネスはそこにいなかった。

彼女はやや複雑な家庭で育ち、父親と折り合いが悪かった。20歳を過ぎても、父親の影がいつもチラついていたと自白する。

良い父親とは言えなかった男を見返すために、完璧な自分を目指し、ひとり奮起しながら海外を飛び回っていたのだとか。

ひとが自らの強さを誇示しようとすると、周りの人間すべてが敵に見える。

誇示しなければ認知されないような強さは、相手を打ち負かしたその瞬間にしか光らない。

だから強く見せ続けるには、常に戦い続けなくてはならない。

さらに悪いことに彼女が己の強さを発揮しても、見せつけてやりたい父親は違う国にいるのだ。認知されようがない。

私は私。父親は関係がない。なのに、気付けば父親の影が自分の中にある。

Oの苛立ちが募りに募った時期と並行して、旅先での景色が色褪せて見えてきた。

どこに行っても、どこかで見たような景色。同じような生活。新鮮さがない、いや、目新しさを感じるだけの新鮮さが自分から失われている。

自分の目指した道の先に、自分の欲しいものがないかもしれない、そんな考えがOの頭を過ったのだと思う。

だからだろうか、Oは一度日本に帰国し、大阪で友人とルームシェアをして過ごした期間がある。

それからカンボジアでキャバ嬢やって、なんか違うなと思ったら、インド帰りたくなったので渡印、同時にコロナ騒ぎで国境閉鎖して出れなくなっちった、とOは笑う。

いちいち情報量多いなこいつ、と俺も引き笑い。

ともあれ、O、進退窮まる。

そんな折、どんな経緯かは存じ上げぬがヒューマンデザインという学問と運命の出会いを果たした。

ヒューマンデザインについて、俺はよく知らないので説明は割愛する。

気になる人はOのnoteでも読むといい。

彼女の場合、これまで自分が感じてきた苛立ちや違和感がヒューマンデザインによって言語化されたのだろう。

人気投票が生活のベースになっている、とOは言った。

どれだけ人気になれるか、注目を集められるか、他人の意識にとらわれて肥大化したエゴが本来の自分の感性を殺すのだ。

だがヒューマンデザインは教えてくれる。私が誰かを。私は私だ。私の幸せは私の中にある。

ショーペンハウアーは「人間は孤独である限り、彼自身であり得る」と言う。

おそらく、ヒューマンデザインという客観的な指標を得たことで、Oは自分の中から父親とエゴを追い出すことに成功した。そして、彼女は彼女自身になった。

冒頭に戻ろう。

彼女はヒマラヤに村を作りたいと言った。全人類を生きやすくしたいと綴った。

アマゾネスは5年の歳月を経てマザー・テレサになった。

いや、ふり幅!まぁ、いいけどね。

なんだろ、これまで内側に向かっていたエネルギーが正しく外側に開かれたという印象を抱いた。

良かったよ、ところでどんなひとを村に呼びたいと思ってんの?

「毎朝電車で都心に向かう疲れた顔した日本人になっちゃうのかな。村では、私が通訳として彼らをサポートする」

おぉ、と思わず感嘆の声を漏らしてしまった。

俺は、Oのことを多分に誤解していたらしい。

日本が好きじゃないのかと思っていた。もう未練もなく、つながりを断とうしているのかと。

だがOはヒマラヤにも日本の社会人が帰ってこれるような村を作りたいと言う。

そこでは自分のやりたいことをして、自分が誰なのかを知ることができる。

あなたが誰かを思い出して、何が好きだったのかを思い出して、いつか村を出たとしても、好きなことを一つ持っていればその後も幸せに生きられるんじゃないかと思うんだよね、と。

日本を飛び立ち、日本語を使うなと言った彼女は、滔々と日本との繋がりを語った。

実は、Oは覚えていないかもしれないが俺はオーストラリアでOにひどく冷めた気持ちになったことがある。

金曜日の夜、安宿のガレージに若者が集まって酒を飲み楽器を鳴らし騒いでいる場で手持無沙汰になっていた時のことだ。

みんなが楽しそうにしている場で退屈そうにしていた俺に、Oがもっと楽しめよと絡んできた。

普段音楽も聴かないし、基本的に対話が好きなので、声をかき消すようなBGMやただ酔うためだけに飲む酒がどうしても好きにはなれない。
週に1度か2度はストロングゼロ買うけどね。

そんな旨の返事をした気がする。

「ふーん。じゃぁ、あんた何しにオーストラリアに来たの?つまんない男」

流れ作業のように言葉の刃を突き立ててきやがる。他人の感性をつまらないと切り捨ててしまうなんで可哀そうな女だ、と血が冷たくなった感覚を覚えている。

そんなOが、かつて切り捨てたつまらなそうに生きているひとが少しでも幸せな生き方を見つけることのできる場所を作ろうとしている。

アマゾネスは、カンボジアでキャバ嬢になり、インドでマザー・テレサになった。

そう言えば、マザー・テレサもインドで愛を説いたんだっけか。