嫌われる覚悟の先の話

独白するだけのゴリラになりたい。

歯を食いしばって幸せを手に入れるってしんどくない?

先日、ある企業の説明会で「幸せを手に入れるためには高い山を登らなければいけない! その手段のひとつが我が社で働くことだ」と言われた。

面白い言い分である。

”幸せになるために努力する”

一見してこの文章に違和感はない。では、次のように言い換えてみよう。

”幸せになるために苦労する”

バラバラにするために石を積むような生産性の無さを感じる……賽の河原か。

苦労の総量が幸せの総量より多い場合、幸せになるための苦労の価値って何だろうか。

もし苦労の先に望んでいた幸せがなかったとしたら、幸せになれなかったという観点から見ると、不幸であるということになるのだろうか?

一般的に報酬を得るためには対価を支払う必要がある。

では、幸せになるためには何を支払うのが正しいのか。

何を捨てればよいのか。

幸せになるためには、幸せになりたいという気持ちを捨てるところからスタートしないといけないのではないか……?

幸せを目標にするのは遠回り

幸せという概念についての自分の定義は、”当人がなんとなくポジティブな状態”である。

”なんとなく”というのが重要だ。

つまり、幸せという概念には具体性がない。

何をもって幸せとするかはひとそれぞれであるが、ひとが幸せを感じる時は具体があることが多い。

恋人と一緒にいる時が幸せ、美味しいものを食べている時が幸せ、スポーツをしている時が幸せ、といった具合だ。

だから、幸せになるために○○しましょう、というのは実に無責任な助言だと思う。

幸せを追求する時、ひとは世間一般で幸せとされるものを追いかけているだけである。

具体のない幸せを追い求めるのは、幸せになる遠回りだ。

まずは幸せになることを諦めて、何をしている時に自分が幸せなのかを思い返すべきである。

ところが、ここで厄介なことがある。

そもそも何故人が具体の無い幸せを追い求めるかというと、具体の無い幸せは現実的に存在するからだ。

小学校の休み時間、親の運転する車の中でしたうたた寝、友達との中身のない談笑。

なんの不安もなく、ただ幸せを提供してくれる場というものがある。

しかし、場が与える幸せは環境要因によるものであり、個人のちからで確保するのは難しい。

難しいだけで不可能ではないだろうが、場の確保に固執してしまえば、”場を確保している間が幸せ”という具体のある幸せになってしまう。

具体のない幸せを追い求めるのであれば、やはりその幸せを一度具体化させるのが近道となる。

ひとは幸せになるために行動している

すべての行動は当人の幸せに直結している。

これが自分の幸せに対するスタンスだ。

長期的、もしくは客観的に見れば愚かな選択をする人間はいる。

しかし短期的、主観的に見ればすべての人間はその瞬間自分に最もメリットのある行動を選択する

パートナーと口論になった際に、これ以上言い合っても生産性がないどころか関係を悪化させるという場面に心当たりはあるだろうか?

このような状況でもなお、相手を批難する言葉を発する人間が何故、口を閉じることができないのか。

その瞬間において、黙っているよりも言いたいことを言ったほうがすっきりするからだ。本人にとって得だからだ。

同じ状況で言葉を飲み込むひとは、今関係を悪化させるよりは黙って仲直りした方が、言いたいことを言ってすっきりするよりも得だから黙るのだ。

ひとの行動がすべて幸せに直結しているのだから、何が自分にとって幸せなのか理解することは難しくない。

休日は恥ずかしながら家でだらだら寝て過ごすだけです、と言うひとがいればそのひとにとっては家で寝て過ごすことが幸せなのだ。

存分に幸せを堪能すればよい。

我々には等しく幸せになる権利がある。

害をもたらす幸せ

「幸せになりたいです!」という人間と出会えば、おそらく我々の多くはどうぞ幸せになってくださいと、彼ないし彼女の提案を受け入れるだろう。

では、彼ないし彼女にとっての幸せが例えば次のようなものだったら?

・小動物の命を奪うことが幸せ

・児童を性的に虐待している時が幸せ

・自分の作ったフェイクニュースで世間が混乱するのを見るのが幸せ

・放火で燃え上がる炎の美しさを感じるのが幸せ

思う存分幸せになりなさい、とあなたは躊躇なく言えるだろうか?

幸せになりたい人間の邪魔をする権利はないが、自分の幸せを侵害するものを拒絶する権利はある。

では逆の立場に立って考えてほしい。

例えばあなたが社内で昇進するのが幸せだと思い、幸せを獲得するために奮起する。

あなたの行動は批難されるものではないし、向上心の高さは素晴らしい。

ところが、あなたが目指している席に現在座っている立場の人間から見ると、幸せになろうとしているだけのあなたは彼を脅かす恐ろしいものとなる。

「こいつはどうして活き活きしながら自分に害をもたらそうとしているのだ!迫害せねば!」

このような考えに行きつくのはそれほど突飛なことではなく、むしろ至極当然の成り行きだと言える。

我々は幸せになる権利があるし、常に幸せになるために行動している。

個人にとって、当然個人の幸せは重要なものだ。

しかし、自分が幸せを獲得した時に、害を受ける人間がどこにいて、彼らがどのように報復してくるのかまでに想像を及ばせることも重要ではないだろうか?

幸せになる覚悟

自分の幸せを押し通すために、自分の人生を幸せにするために他人の幸せをどこまで侵害していいものか。

何度でも言うが、我々には幸せになる権利がある。

そして、幸せになろうとする人間の多くが見落としているのは、自分の幸せの先で不幸になるかもしれない人間の存在だ。

知ったこっちゃない。十把一絡げにもならない他人から嫌われるだけで自分が幸せになれるなら喜んで嫌われてやるね!

そんな風に思っているひとももしかしたらいるかもしれない。

ちなみに自分は他人から嫌われることが1㎜も苦にならないタイプの人間だった。

非常に危険な考え方なので、もし似たような考え方のひとがいれば絶対にこの先も読んで欲しい。

嫌われる覚悟を決めた人間は、自分の人間関係から相手を切り離してものを考える傾向にある。

つまり、自分が幸せを押し通すことで被害を受ける相手の感情の動きに一切の関心を示さないようになる。

中居正広も言っていたが、0%か100%ではなく、1%か99%の間でものを考えるという視点がここでは完全に抜けていることがわかるだろうか。

相手に嫌われても自分の幸せを押し通す。それはいい。

しかしその結果さらに大きな障害が立ち塞がるかもしれないことを考えれば、必要以上に嫌われるのは避けるべきだ。

どこまで嫌われてもいいのか、このメモリを決める。

メモリの上限を越えそうであれば、一旦自分の幸せを押し通す方法を変えたほうがよい。

そしてもうひとつ重要なのは、相手に嫌われる覚悟を決めた上で、嫌われないための根回しをすること。

ちなみにメモリも根回しも、自分からうまれた考え方ではない。

先日渋谷の本屋であったトークイベントの中で博報堂から独立したクリエイター三浦崇宏の言葉だ。

全然知らないひとだったし、暇つぶし程度でイベントに行ったが非常にためになった。

著書、”言語化力”も買った。まだ読んでいないが売れ行き好調らしい。

下北沢のB&Bや、渋谷の青山ブックセンターでは高頻度でトークイベントが行われているので、暇なひとは行ってみれば面白い発見があるかもしれない。

では、また。

性行為は怖いことか

独白するだけのゴリラになりたい。あと転職したい。

今更ながら映画「娼年」を観た。

性行為における深淵を垣間見たような気がしたので、セックスについて真剣に考えてみた。

セックスは暴力的なまでに自己開示を迫る行為だと思っている。セックスにおける「愛」の要不要は置いて話を進める。

物理的に衣服を纏っていないという自己開示だけでなく、裸体を見せても良いと心を開くところまで含めての話だ。

世間がどう思ているかは知らないが、セックスはあまりポジティブに語られることがない。

性行為が子どもに秘匿されているために開けっ広げに語ることが出来ない風潮も関与しているかもしれないが、個人的にはセックスが恐ろしい行為だからだと思う。

ところが、何故恐ろしいと思うのかを深堀して考えたことがなかったので、ヒントになりそうな本を適当に買ってみた。

上述したように、セックスの恐ろしさは自己開示の強制力だと考えている。

だから、なるべくこの自己開示の強制力の恐ろしさについて書いてありそうなタイトルの本を探した。

それが、デンマークで牧師をしながら心理療法士やセラピストとして多方面で活動をしているイルセ・サン著の「心がつながるのが怖い」という本だ。

心がつながるのが怖い

結論から言うと、この本はセックスについての考察を深めるのに有効ではなかった。

しかし、自分に新しい考え方を与えたくれたので、本日はタイトル詐欺になるが、この本の内容について記していく。

本書は、自分の痛みや悲しみから目を背けるために、他人と対等な関係を築くのが難しいと感じている人のための読むセラピーであるらしい。

らしいというのは、帯にそう書いてあるからだ。

著者は、こういう症状に悩まされている人の多くは幼少期の親との関係が原因であると述べている。

親の存在が大人になってからの精神形成にも大いに影響を与えるという観点はユングっぽいな、と思ったが、調べてみると著者はユングに関する修士論文を執筆した過去があった。

基本的にテーマは「自己防衛」についてだ。

本人も理由はわからないが、他人が近づいたり愛情を表現してくれるとその関係を遠ざけるような言動をとってしまう。これは、幼少期に形成された習慣で、自己防衛である、という観点から原因と対策について書かれている。

この辺りについては特に思うこともなかったので気になるのであれば自分で本を買ってみるといい。「読むセラピー」というだけあって、特定の人には確かに効果がありそうだった。

感情は重なり合って互いを隠している

前の記事にも書いたが、あらゆる感情の中で最もエネルギーが高い(カロリーが高いと言ったほうが適切かも…)のは怒りだ。

イルセ・サンは感情を完全に理解するには体・衝動・頭の3つの面においての意識する必要がある。

例えば恐怖という感情を例にとってみる。

●体:震えるのを感じる。

●衝動:叫びながら走って逃げたい衝動を感じる。

●頭:恐怖していると頭で知る。

喜びなら、

●体:体の中に踊りたくなる感覚がする。

●衝動:突然歌いだしたくなるような衝動が湧く。

●頭:自分が喜んでいるのを頭で知る。

お粗末な説明だが、そのままの引用なので勘弁してほしい…

ここで注目して欲しいのは衝動についてだが、自分に限って述べるのであれば怒りの衝動はその他の感情を圧倒的に上回る。

なにせ強すぎる怒りの衝動のあまり、超サイヤ人になるサイヤ人まで出てくるの始末である。怒りで黒髪から金髪に変わるのだからその衝動力たるや筆舌に尽くせない。

怒りの衝動で超サイヤ人になった孫悟空さん(本名カカロットさん)
こちらも怒りの衝動で超サイヤ人になったベジータさん

怒りが最もカロリーの高い感情であることは今も疑っていないが、イルセ・サンの著書によると感情というのは複数の感情が重なりあい、ある感情が別の感情を覆い隠している場合があるという。

そして怒りはその重なりの一番上の層にある。

何故怒りが一番上の層にあるのかについても説明がある。

曰く、怒りとは内と外の両方から効率的に身を守る戦略なのだ。

怒りにより、他人を追い払うことで外部から自分を守り、一番上の層にある怒りを強く感じることで、その下の層にある無気力や悲しみなどの他の感情を感じないようにする自らを内側からも守る。

怒りはそのカロリーの高さから、消化するまでに他の繊細な感情を感じにくくする。

面白かったのはこの後だ。

著者のスタンスは、ひとは潜在的に痛みを避けたがるので、自らが傷つかないように自己防衛の戦略(他人との関係に距離を置く)をとる。この自己防衛戦略のちからが弱まると、多くの場合ひとは怒り(もしくは不安)の感情を表す。

そして、その下の層には悲しみや渇望があるとしている。

セラピストとして活躍する著者は、この悲しみや渇望に自ら気付き、表現することで、他者に近づいてつながるという大きな体験をさせることを目標に相手と向き合っている。

つまり、自己防衛の戦略として他人を遠ざけるひとは、自信が気が付かないうちに悲しみをブロックし、体験すべき悲しみを自分の性格に統合しないように働きかけている。

だから、悲しみと向き合えるように働きかけるのだ。

悲しみを感じるのが傷を癒すプロセスなのだ!

インサイドヘッドとの共通点

この悲しみについての認識は、自分に映画インサイドヘッドを思い出させた。

2015年に上映されたディズニーピクサー映画で、11歳の少女ライリーの持つ5つの感情(ヨロコビ、ビビリ、カナシミ、イカリ、ムカムカ)についての物語だ。

本作は、多くの神経学者からアドバイスをもらいながら5年の年月をかけて完成させた力作であり、ひとの感情の働きや仕組みについてユーモアたっぷりに描いている。

例えば、作中で考えの列車に積まれた箱が倒れて、中のカードが出てきてしまうシーン。

「”意見”と”事実”のカードがごちゃごちゃ!」

「平気、いつものことさ」

これなどは思わず笑ってしまうが、なるほどと考えさせられる上質なユーモアだ。

5つの感情の中で主に司令官を務めるヨロコビは、ライリーが暗い感情を抱かないようにとカナシミの干渉をなるべく回避する。

わけあってヨロコビとカナシミは2人で行動を共にするのだが、ここでも行動の主導権を握るのはヨロコビだ。

ヨロコビは行動的で、常に明るく場の空気を楽しくさせるために振る舞う。

道中、2人はライリーが昔遊んでいたイマジナリーフレンド(幼少期に子どもが作る想像上の友達)であるビンボンと出会い、3人で冒険することになる。

途中でビンボンが、昔はいつも遊んでいたライリーが自分のことを忘れ始めていることにショックを受けて足を止めてしますシーンがある。

ヨロコビは大丈夫、他にも楽しいことがあると励まして前進を促すのだが、ビンボンはすっかり落ち込んでしまって動けない。

ここで初めてカナシミがポジティブな働きをする。

ポジティブな働きと言っても、カナシミの言動は徹頭徹尾ネガティブな感情とされる悲しみの表現でしかないのだが、悲しみという感情がポジティブに描写されるのだ。

カナシミは落ち込むビンボンに寄り添い、一緒に悲しんだのだ。

ビンボンはカナシミと抱き合って泣くと、「もう大丈夫」と立ち上がり再び前進する。

まさに悲しみを感じることが癒しのプロセスであることがここに描かれている。

インサイドヘッドは、ヨロコビがライリーの幸せを願うあまりに、カナシミを厄介者として扱い、遠ざけていたが、そのカナシミの重要性に気が付くという王道のストーリーだ。

これは、イルセ・サンの本の内容をそのまま表している。

彼は喜びと悲しみはとても近い感情だと見解を述べているが、これに当てはまるような描写も本作の中で見られる。

ヨロコビが、ライリーが大好きなアイスホッケーの試合に勝利して仲間たちと喜んでいる思い出を見ていた時。

喜びを仲間と分かち合う前に、別の試合でライリーが決勝点をいれることができずに落ち込んでいる悲しみの思い出があることに気付く。

悲しむライリーに両親が寄り添って彼女を励ますのだ。その思い出を見てヨロコビはカナシミがどれほどライリーにとって大切な感情なのかを認識する。

「カナシミ…ママもパパもチーム仲間も、みんなが励ました…カナシミのために」

カナシミは、傷を癒し次の喜びの感情をより高める役割を担っている。悲しみから、喜びが生まれるのだ。

悲しいという感情が持つ特異性

インサイドヘッドでは、5つの感情たちの中でカナシミだけが他の感情の思い出を自分の色に染めるちからを持っている。

それ故に、ヨロコビはカナシミの接触を避けようとするのだが、何故カナシミだけがこのような力を持っているのだろうか。

作中で、悲しみが他者に寄りそうことで癒しの効果を発揮する描写が何度も繰り返される。

つまり、カナシミは寄り添いと共感に秀でていることが強調されているのだ。

この特性こそが、他の思い出を自分の色に染める力に表れているのだと思う。

イルセ・サンの言うように、感情がいくつもの層で覆われているとしたら、我々は日々の生活の中で自らのカナシミの声に気付いていないのかもしれない。

他人に対して深い共感を持つ時、思い返せばそれは相手の悲しみに共感していることが多い。

学生時代の知人の女子が、彼氏にいわゆるヤリ捨てをされたと憤慨していたことがある。

最初、彼女の怒りは真っ当なものだと思っていたし、自分も彼女の彼氏に不快な感情を抱いた。

しかし、話をしていくうちに彼女はとうとうポロポロと泣き出して「悔しい、悲しい」と漏らした。

涙を流す彼女を見て、自分も彼女の気持ちに同調して泣きそうになった。

当時は、何故自分は彼女の痛みを理解できたのかわからなかったが、あれは自分を大切に扱ってくれなかったことに対する彼女の悲しみに共感していたのだろう。

以上を踏まえると、悲しみは優しさにも似ている。

他者に共感して寄り添う、こう書けばそれはまさしく優しさのことではないか。

やさしくなりたい。カナシミの声にもっと耳を傾けよう。思わぬところで結局セラピーを受けたようになってしまった。

では、また。

音楽の聴き方と優しさ

独白するだけのゴリラになりたい。あと親しい友人がもっとほしい。

海外の大学院で研究している友人が一時帰国したので当時の仲間と飲んだ時に音楽の話になった。

自分は音楽をあまり聴かない。かっこつけて家でジャズを流す痛い人種だし、通勤中はラジオかNHKスペシャルとかなんか教養番組っぽいの聞いて勉強した気になっている。

音楽は、情報量という点で他の媒体(ラジオ、本、テレビ、youtubeなど)より劣っているというのが、自分が音楽を聴かない理由だ。

しかし、最近ラップに目覚めた友人や学生時代バンドをやっていた友人から言わせると音楽というのはリズムや曲調が歌詞を強化させる、深い情報量を持っているとのこと。

面白い言い分だと思う。情報量を多寡で見ず、深浅で考えたことはなかった。確かに、映画天気の子で話題になった「グランドエスケープ」の立体音響は音が深く体に入ってくるような気がしたし、オペラに行ったときも言語化できないけどなんかすごかった…

歌詞を考察してみる

とりあえず適当にJポップを聴いてみたが、正直言うと何が深いのかよくわからなかった。

いや、Jポップを馬鹿にしているわけではなく、音楽の深さを理解できるほどの感受性と教養が自分には圧倒的に不足しているからだと思う。

サビがどこなのかくらいはわかるので、歌手が強調したい部分はわかる。しかし、音楽の作り手側の視点に立てば、彼らがある制限の下で伝えたいメッセージを厳選しているのだからすべての歌詞には意味があるのだろう…よくわからないがそんな気がする。

クラシックとは異なり、歌詞のある音楽は伝えたいメッセージがはっきりしている。

だから、まずは歌詞を考察すればメロディの深さなども理解しやすくなるのかもしれないと思い、とりあえず松嶋菜々子が好きなので家政婦のミタの主題歌「やさしくなりたい」を聴くところから始めた。

地球儀を回して世界100周旅行

君がはしゃいでる まぶしい瞳で

恋人との思い出を振り返っているのだろう。地球儀を回しながらあの国に行きたい、この国に行きたいと盛り上がっている様子がわかる。

光のうしろ側 忍びよる影法師

なつかしの昨日はいま雨の中に

最初で明るい思い出について触れ、即座に暗い雰囲気を出す。「うしろ側」や「昨日」というワードはもう戻れないことを暗示しているのかもしれない。

たったの4行で明暗を表現してこの歌がただハッピーな歌ではないことをさりげなく印象付けている。

やさしくなりたい × 2

自分ばかりじゃ 虚しさばかりじゃ

自分ばかりじゃ、虚しさばかりじゃ…の後に続く言葉がないが、これはその前の「やさしくなりたい」を受けているのだと思う。

やさしくなりたいのは誰のためなのか?このやさしさは誰に向いているのか?

少なくとも自分ばかりに向いているやさしさではないことは読みとれる。

一見、他人に向けられたやさしさが結果的に自分にしか向いていないやさしさであるということがある。

こういう人間は自分ではそのことに気付かず、だから自分は優しい人間だと信じて疑わず、周囲との認識の差に首をひねるばかりだ。

自分の友人にも似たようなタイプがいる。

初対面のひと誰にでも分け隔てなく接することができ、そうかと言ってズカズカとプライベートに首を突っ込んだ質問をするわけでもない。

常にフラットな立場でものを言うので敵も少なく、常に人に囲まれている。

ところが、ひとりの人間が所有するやさしさの絶対量は日によって多少の上下はするが、基本的には有限だ。

誰にでもやさしく見える人間の本質は、「誰に対しても平等に興味がない」人間なのではないかとその友人を見ていて思ったことがある。

この歌詞はそんな彼が自身の本質に気付いた後のようだと思った。

だから、やさしくなりたいの後に続く「自分ばかりじゃ」も「虚しさばかりじゃ」もあまり違和感なく受け入れることができたが、もし友人の存在がなければこの歌詞は理解できなかっただろう。

愛なき時代に生まれたわけじゃない

キミといきたい キミを笑わせたい

愛なき時代に生まれたわけじゃない

強くなりたい やさしくなりたい

やさしいとはどういうことか

サビに対して特筆すべき箇所は歌のタイトルである「やさしくなりたい」と「強くなりたい」が並んでいる点だ。

歌の2番以降でも「強くなりたい」は「やさしくなりたい」の隣に位置している。

おそらく、やさしくなるにはやさしさだけでは足りない。

何を言っているのかと思うかもしれないが、やさしさを体現するためには強さが必要なのだと、人生のバイブルである「金色のガッシュ」に教わったので間違いない。

簡単にガッシュの説明をすると、100人の魔物が魔界の王の座を巡って戦うという王道少年漫画である。

主人公であるガッシュはある出来事をきっかけに「やさしい王様」を目指すことを決意するのだが、王を目指す途中で別の魔物に敗北してしまう。

そしてこの別の魔物はガッシュとの戦いを通して「強い王様」を目指すことになる。

ここではやさしさが強さに勝てなかったように描かれているが、そうではなく、やさしさを継続していくためには強くあらねばならぬのだ!

やさしさの出どころ

基本的な感情の中で最もエネルギーを生み出すのは怒りだが、怒り由来でやさしさを目指す人間というのはいないはずである。もしいれば是非会ってみたい。

怒りと同じくらい高いエネルギーを生む動機として挙げられるのは感謝だ。

恩返しと言ったほうがわかりやすいかもしれない。行動の動機としての恩返しは非常に面白く、その多くは他人に対する恩返しだが、時折恩返しの対象が人以外のものに向くこともある。

例えばある宗教に属す人間が熱心に布教活動を行ったり、スポーツ選手がきつい練習を活き活きとした表情でこなすのは、自分が自分らしく生きることのできる場所を与えられたことに対する恩返しで、その対象は場である

再び斉藤和義の歌詞に戻るが、「愛なき時代にうまれたわけじゃない」というのは、自分は愛に触れたことがあるという意味だ。

愛のある時代にうまれたのだから。

そして、この歌詞の中での愛はニアイコールやさしさなのだろう。

大切な人からやさしさをもらった恩返し、もしくは、やさしさを返せなかった後悔から、彼はやさしくなりたいと願っている。

なんとなくだが、この歌詞の場合は恩返しよりも後悔が動機っぽい。

というのも、歌詞の前半はどちらかというとネガティブな雰囲気を漂わせているので、ポジティブな動機としての恩返しとはちぐはぐになるからだ。

とまぁ、音楽についての造詣が浅いので結局音楽の情報としての深さを理解することは出来なかっし、これ以上書いても脱線に逃げることしかできなさそうなのでこれぐらいにしておく。

では、また。

他者を排除したがる人

独白するだけのゴリラになりたい。あとチーズ食べたい。

平穏無事な人生に憧れる年齢になってきた。

悪意や敵意に触れることは多かれ少なかれストレスだし、可能であればストレスフリーで生きていたい。ストレスの原因には爆発して霧散してほしい。

特にストレスとなるのは、他人から向けられた悪意や敵意だろう。

では、悪意や敵意の正体とは何だろうか。怒りか?いや、少し違う気がする。

悪意や敵意というのは、感情から発生するものではなく、侵害に対する反応の一種ではないかと思う。

その対象が自己の存在を揺るがすと判断した時、ひとは対象を排除しようとする。排除しようとする結果、悪意や敵意といったものがむき出しになる。

つまり、悪意ありきの排除ではなく、排除するために悪意や敵意が必要になるのだ。

悪意や敵意は、それ単独の感情のみでは存在できない。

侵害に対する反応がどういう意味かもう少し掘り下げて考えてみる。

上述した通り、自己の存在を揺るがされる時、ひとはこれを侵害されたと捉える。

これまで築いた自分というアイデンティティを根本から揺るがされた経験はないだろうか?そして、そういう時にあなたがどういう行動をしたのか憶えていれば、是非詳細に思い出す努力をしてほしい。

おそらく、揺るがしてきた震源を遠ざけようとしたはずだ。それが物理的な距離(目に映らないようにする)でも、心理的な距離(否定して同一化を避ける)でも意味は同じだ。

今回は特に後者、心理的な距離を遠ざけるケースに焦点を当てたい。

第一に、自己はアイデンティティを維持するために震源との同一化を回避しなければいけない。このため、震源を受け入れることを徹底的に拒絶する。

アイデンティティの崩壊を避けるには、震源を否定する必要がある。だから我々は震源に対して攻撃的な態度をとって、排除を試みるのだ。

攻撃に必要な武器は批難・中傷・暴力などになるが、これらの武器を研磨しようとするとどうしても表出するのが敵意や悪意である。

だからこそ、繰り返しになるが敵意や悪意は単独の感情として存在できないと自分は主張する。

となると、アイデンティティの侵害はどのような時に起こるのかを述べなくては自分の考察は中途半端なものになってしまう。

我々がこれまで生きてきた中で、形成されてきたモラル感や信念は、行動経済学的観点から言えば我々を非合理的な生物にした要因となる。

現在コロナウイルスが猛威を振るっているために、マスクが売り切れとなり、メルカリなどで相場の5倍以上の値段でマスクを売りつけている輩を見ると、正義の鉄槌を振り下ろしたくなる人がいるかもしれない。

*補足までに、自分はこの輩に対して別段否定する気はない。

しかし、そのような輩はひどく合理的に経済を理解しており、マスクの買い占めによって相場をコントロールし、実に容易い方法で利益を得ている。

合理的に金を儲けている人間は大勢いるが、我々がその他の方法で金を儲けている人間を許容し、件の輩を否定するのは、彼が我々のモラルを無視しているからに他ならない。

もっとわかりやすく言えば、自らの価値観に従って、すべきではないと誓った行動・封印した言動を他人が易々とした時に、我々はその対象から築き上げたアイデンティティを否定されたような気持になる。

これこそが侵害である。

そして、個人的な見解だが、この侵害に対して心理的な距離をとろうとするのは嫉妬の類でもあると思う。

自分が許されない言動を、彼ないし彼女だけが許容されている状況に対する嫉妬である。この見解が共感されるかわからないが、もし同じような考えの人がいれば是非酒を酌み交わして話がしたい。自分は馬乳酒を4,5盃飲んでもケロッとするくらいにはアルコールに耐性はある。

気になるようであれば、馬乳酒のアルコール度数を調べてみてほしい。

さて、価値観の縛りの強さは一種の呪いのようなものなので、平穏無事な人生を生きたいと思うのであればこれらの呪いを解呪していく必要がある。

そして、解呪のためには侵害してきた対象を部分的にでも受け入れなければいけない。これは苦痛だ。そもそも苦痛じゃない人間は価値観の縛りも弱いので、解呪しなくても平穏無事な人生を送っているに違いない。

自分などは、数年前まで「己の信念に誇りを持てない弱者は去ね!!」と思っていたようなちょっと痛い人間だったので、解呪をするためには荒療治が必要だったし、なんならそのために何度か死にかけた

その結果、人格としての面白さは失ってしまったので、別に価値観の縛りが強に人間を否定する気はないし、解呪をおすすめしているわけでもない。

なんならそういう人はこだわりが強くて面白いので一緒に馬乳酒を飲みながら話をしたい。

ただ、平穏無事に生きたいのに生きづらさを感じている人がいれば、自分の見解を少しばかり参考にしてもらえば嬉しい。

では、また。

大切にする人の序列

独白するだけのゴリラになりたい。あと平穏に生きたい。

結婚式の打ち合わせに行ってきたので、愛について改めて思うことを整理してみる。

自分は妻が大好きだ。天の川銀河で一番愛している。だが、妻よりも大切にしている人間がいる。

自分自身である。

誰かを愛するということは、その人を1番大切にすることではなく、1番と2番の間にその人が入ることだと思う。

どれだけ利他的であろうと、自己犠牲をしようと、人間は自身以上に他人を大切にすることはできない。

なぜなら我々には主体的な意識があり、客観的に見て自己犠牲を払うひとでさえ、主観的に見れば「自己犠牲を払わないことが、自己犠牲を払うことよりも耐え難い」がためにそうするのである。

例えば親友の命を救うために自らの心臓を臓器移植してもよいという人間がいたとする。

当然心臓を移植すれば彼は死ぬだろう。彼は自分よりも親友の命を優先した素晴らしい人格者だ。

命において、彼は親友の方が自分より価値があると思ったかもしれないが、彼個人の中で天秤にかけられていたのは、彼の命と親友の命ではない。

彼の天秤が量っていたのは、心臓移植しないことによる損益と、心臓移植することによる損益である。

仮に心臓移植をせず、親友を喪ったとする。

助けることのできた親友の存在は彼の頭の片隅から消えることはなく、他人からは親友を見捨てた男とレッテルを張られるかもしれない。

それを思うと彼は罪悪感を抱えたまま生きることよりも、意味のある死を選び、誉れ高い存在となる方がよっぽど楽な生き方だと思った(のかもしれない)。

だから彼は、親友の命を優先したが、同時に自分の存在を死よりも大切にしたのだ。

この考え方は、マーク・トゥウェインの「人間とは何か」という本を読んでもらえばより深く納得してもらえるだろう。

自分が言いたいことは、人間は誰しも利己的である、ということではない。

ひとは自らを最も大切に扱うが、愛は限定的にその序列に他者を組み込ませるということを声を大にして言いたい。

大切にするひとの順位不動の1位は自分。これは揺るぎないものとして理解していただきたい。

では愛する人間は2位かと言うとそれも違う。

愛とはある種の同一化である。誰かを愛することにより、愛の対象を自分事のように扱うことができる。

しかし、相手を丸ごと自分のように扱うことはできないので、愛する主体がある以上、愛の対象が1位になることはできない。

だが愛によって相手を部分的に自己と同一化できるのだから、その「部分」は「自己」である。

このため愛の対象は2位を越えて1位に食い込み、1位と2位の間、つまり、1.999~以下位になる。

これが1.001位でもいいし、1.999位でもいい。

他者を部分的に自己と同列に扱うことが出来たとしたら、それは紛れもなく愛であると自分は考える。

嫌悪する自分と嫌悪される自分

独白するだけのゴリラになりたい。あと交尾したい。

先日妻が会社で色々あったらしく、自己嫌悪していると発言した。

自己嫌悪なる言葉を知ってはいたが、本当に自己嫌悪している人間を初めて間近で目撃したことが衝撃だった。

自己嫌悪とはあまりに無縁の人生だったので、自己嫌悪の正体について考えてみたのだが、自己嫌悪したことがない人間が自己嫌悪について考察するには材料が足らなすぎる。

偶然にも、最近妻の友人に勧められた岸田秀の「ものぐさ精神分析」という本に自己嫌悪についての記述があったので、まずはこれを参考にしてみる。

嫌悪とは当然、嫌う側と嫌われる側の両者が存在する。自己嫌悪において、嫌う側も嫌われる側も同一人物である。

まずこの点が、他人に対する嫌悪とは一線を画す。

そして嫌悪される側の自己は常に現実に行った実際の行動であり、嫌悪する自己は現実的基盤を持たない幻想の自己である。

嫌悪は、嫌悪の対象の排除あるいは消滅に方向に作用する力なのに、自己嫌悪においてはその力が作用していないと岸田秀は言う。

異議あり!

そもそも嫌悪に、対象の排除、もしくは消滅をもたらす力があるとは思わない。

自分はそれなりに好き嫌いがはっきりした性格であるし、嫌いな奴をぶっ飛ばしてやろうと思うことは多々あるが、だからと言って実際にぶっ飛ばすことはない。

嫌いだと念じることで、嫌悪の対象を排除はできないし、もしそれが出来たとしたらこの世に人間はいなくなる。

この意味で、自己嫌悪も他者嫌悪も全く異なる「嫌悪」とは言えない。

しかし、ものぐさ精神分析を読み進めていくと上述の私見に対してのコメントにぶつかる。

「自己嫌悪がある程度、苦痛なことはたしかである。しかし、他社を嫌悪するような具合に自己を嫌悪することは決してできない」

一理ある。

嫌悪する主体もまた自己である以上、自己を100%嫌悪することはできていないはずだ。

つまり、嫌悪する主体と嫌悪される対象として自己を分けている時点で、嫌いな自己から自分を切り離してものを考えている。

嫌悪される対象の自己はたしかに100%嫌悪されているのかもしれないが、あくまでも自己の全体の中での一部だ。嫌悪される対象としての自己は、自己の嫌いな部分の凝縮であり、それは自己の全体ではない。

ところが他者嫌悪は、時に100%全力でお前のすべてを否定する時があるのだ。少数派かもしれないが。

岸田はこの章の半ばで自己嫌悪は、嫌悪された行為の再発を阻止するどころか、促進するとか、

自己嫌悪は、その社会的承認と自尊心が「架空の自分」にもとづいている者にのみ起こる現象であるなどと過激なことを述べるのだが、彼もまた自己嫌悪をよくする人間らしく、あくまで個人の自己嫌悪に関する考察を述べただけに過ぎない。

むしろそれだけ自己を嫌悪しているという表れなのだろう。というか、仮に彼の言い分が正しいとすれば盛大にうちの妻をディスることになるので自分は岸田のすべてを否定しなければいけない。

自分の知り合いに自己嫌悪の話をしたところ、その正体は長い反省であると答えをもらった。

反省は自分の失敗を受け入れ、その失敗への対策をする一連の過程のことを言うが、自己嫌悪は失敗を受け入れる際に、自分の失敗を悔いる時間が長いだけ。

これもまた一理あるが、共感はできなかった。

反省という行為そのものが自分の失敗を悔いるもので、自己嫌悪は自分の失敗を悔いるというところから副次的に発生する何か別のもののような気がする。

自己嫌悪が自己を二分化することには同意する。思うに、自己が二分化しやすい人間が自己嫌悪をするのではないだろうか。

失敗を悔いる際に、自己が二分化されて自己嫌悪を始めるというメカニズムなのであれば、納得しやすい。

となると考えるべきは自己が二分化しやすいというのはどういう人物で、何が引き金となるのか。

自己の二分化は悪霊に憑依されることに近い。本来の自分ならしないような言動をしてしまい、そのことをなすすべなく見守るしかない自分が悔いるからだ。

だが、この例えは決定的に間違っている。なぜなら自己嫌悪するような言動をしたのは紛れもなく現実の自分であり、この場合、悪霊とは自分に他ならないからだ。

では、悪霊に憑りつかれたと本人が思い込んでいる自分、なすすべなく見守っていた自分とは誰なのか。

岸田は彼ないし彼女を「架空の自分」と表現したが、これは言葉として強すぎる。

正確に表現するとすれば、「自分ではこれこそが自分という人間であると思い込んでいる自己」とでも言えばいいだろうか。

岸田の言うところの架空の自分、と現実の自分の乖離が大きいほど、二分化を起こしやすい。

二分化のトリガーは羞恥心だ。

基本的にトリガーを引く直前まで人は二分化されていない。

自分の欲望を満足させるはずだった言動が、望んだ結果を得ることができなかった時に羞恥心が起きる。

そして、恥ずかしい行いをした自分を切り離すことによってある種の責任転嫁をするのだ。

さて、妻の自己嫌悪をなるべくネガティブに解釈しないように努めてみたが、うまくいかなかった…。

これ以上考察を深めても自己嫌悪に関するポジティブな見解は得られそうにないので、ここらでこの話はやめておくことにする。

アウトプットとインプットの精度について

独白するだけのゴリラになりたい。あと美味しいもの食べたい。

アウトプットの機会をとにかく増やさねば!と切実に思ったのは去年の暮くらいからである。

自分はテーマを決めて本を読む趣味があり、通年100冊程本を読むのだが、つい最近これまで読んだ本の要約を試したところ、ひどく稚拙なものが出来たことに驚いた。

アウトプットの出来が悪いということはインプットの出来も悪いということだ。口惜しいことではあるが…

なんとかしなければいけないと思うのと同時に行動を起こさないと一生なにもしないのが自分という人間である。

するべきことは何か。アウトプットの機会を増やしてインプットの精度も同時に上げてしまえばいい。

ということで早速友人数人に声をかけて仲間内でプレゼン大会を開くことにした。

その矢先に、仲間の一人の海外駐在が決まり数年帰ってこなくなるというので早くもプレゼン大会の継続が危ぶまれることになった。

アウトプットをする場所をひとつに絞るのは危険だなぁ、と思い知らされたのでとりあえずブログをふたつ目のアウトプットの場所として始めてみた次第である。

とりあえずは読んだ本の内容や、日々の出来事をこのブログに綴ってみる所存ではある。

ちなみに第三のアウトプットとしては何か商品でも作ってみようかと思っている。今ある構想としては全く新しい傘を作ろうとしているが、これが中々難しい。

傘というのはおそらく人類が初期の段階に思いついた古典的な道具のはずなのだが、そのスタイリッシュ化のピークは平安時代あたりで止まっている。

折り畳み傘などは一瞬傘界にイノベーションを起こすかと期待されたが、傘を開くまでの工程が多くスタイリッシュとは正反対の方向に進化した傘の亜種である。

数年前にクラウドファンディングでAir umbrellaなる風圧で雨を吹き飛ばすスティック状の傘を中国の会社が発明しようとしていたが結局うまくいかなかったらしい。

頓挫した理由は色々あるだろうが、傘という毎日使わないものを電動式にするのは如何なものか。

充電をするのをつい忘れてしまい、出先で使おうとしたときに電池切れを起こしてしまえばただの棒になる。

文字通り無用の長物だ。

そもそも毎日使わないものをスタイリッシュ化させた結果、工程が増えてしまえば人を遠ざけることになるのは自明の理ではないか。

傘の電動式を諦め、難しい仕組みを考えることをやめれば、きっと単純なアイデアひとつで傘界にイノベーションを起こすことができるだろう。

しかも特許とれば一儲けできそうだし。

ここまで書くと簡単そうな気がするのだが、いざ真剣に考えてみると我々の良く知る傘がベストソリューションだとわかるはずだ。

つまり従来の傘を全く新しいものにするというのも勝負する場所を間違えている。

ではどうするか。

実はすでにこれはきたかもしれない!というアイデアはあるのだが、まだディティールが詰め切れていない。

面白いアイデアを思い付いたという人がいれば是非一緒に商品開発をしたいのでコンタクトして欲しい。

いつの間にか傘の話が半分ぐらいになってしまったので、このあたりで終わりにする。

今後は週に一度くらいのペースで記事を書く意思はあるが、どうかな。飽きっぽいから途中で飽きるかもしれない。

では、また。