嫌悪する自分と嫌悪される自分

独白するだけのゴリラになりたい。あと交尾したい。

先日妻が会社で色々あったらしく、自己嫌悪していると発言した。

自己嫌悪なる言葉を知ってはいたが、本当に自己嫌悪している人間を初めて間近で目撃したことが衝撃だった。

自己嫌悪とはあまりに無縁の人生だったので、自己嫌悪の正体について考えてみたのだが、自己嫌悪したことがない人間が自己嫌悪について考察するには材料が足らなすぎる。

偶然にも、最近妻の友人に勧められた岸田秀の「ものぐさ精神分析」という本に自己嫌悪についての記述があったので、まずはこれを参考にしてみる。

嫌悪とは当然、嫌う側と嫌われる側の両者が存在する。自己嫌悪において、嫌う側も嫌われる側も同一人物である。

まずこの点が、他人に対する嫌悪とは一線を画す。

そして嫌悪される側の自己は常に現実に行った実際の行動であり、嫌悪する自己は現実的基盤を持たない幻想の自己である。

嫌悪は、嫌悪の対象の排除あるいは消滅に方向に作用する力なのに、自己嫌悪においてはその力が作用していないと岸田秀は言う。

異議あり!

そもそも嫌悪に、対象の排除、もしくは消滅をもたらす力があるとは思わない。

自分はそれなりに好き嫌いがはっきりした性格であるし、嫌いな奴をぶっ飛ばしてやろうと思うことは多々あるが、だからと言って実際にぶっ飛ばすことはない。

嫌いだと念じることで、嫌悪の対象を排除はできないし、もしそれが出来たとしたらこの世に人間はいなくなる。

この意味で、自己嫌悪も他者嫌悪も全く異なる「嫌悪」とは言えない。

しかし、ものぐさ精神分析を読み進めていくと上述の私見に対してのコメントにぶつかる。

「自己嫌悪がある程度、苦痛なことはたしかである。しかし、他社を嫌悪するような具合に自己を嫌悪することは決してできない」

一理ある。

嫌悪する主体もまた自己である以上、自己を100%嫌悪することはできていないはずだ。

つまり、嫌悪する主体と嫌悪される対象として自己を分けている時点で、嫌いな自己から自分を切り離してものを考えている。

嫌悪される対象の自己はたしかに100%嫌悪されているのかもしれないが、あくまでも自己の全体の中での一部だ。嫌悪される対象としての自己は、自己の嫌いな部分の凝縮であり、それは自己の全体ではない。

ところが他者嫌悪は、時に100%全力でお前のすべてを否定する時があるのだ。少数派かもしれないが。

岸田はこの章の半ばで自己嫌悪は、嫌悪された行為の再発を阻止するどころか、促進するとか、

自己嫌悪は、その社会的承認と自尊心が「架空の自分」にもとづいている者にのみ起こる現象であるなどと過激なことを述べるのだが、彼もまた自己嫌悪をよくする人間らしく、あくまで個人の自己嫌悪に関する考察を述べただけに過ぎない。

むしろそれだけ自己を嫌悪しているという表れなのだろう。というか、仮に彼の言い分が正しいとすれば盛大にうちの妻をディスることになるので自分は岸田のすべてを否定しなければいけない。

自分の知り合いに自己嫌悪の話をしたところ、その正体は長い反省であると答えをもらった。

反省は自分の失敗を受け入れ、その失敗への対策をする一連の過程のことを言うが、自己嫌悪は失敗を受け入れる際に、自分の失敗を悔いる時間が長いだけ。

これもまた一理あるが、共感はできなかった。

反省という行為そのものが自分の失敗を悔いるもので、自己嫌悪は自分の失敗を悔いるというところから副次的に発生する何か別のもののような気がする。

自己嫌悪が自己を二分化することには同意する。思うに、自己が二分化しやすい人間が自己嫌悪をするのではないだろうか。

失敗を悔いる際に、自己が二分化されて自己嫌悪を始めるというメカニズムなのであれば、納得しやすい。

となると考えるべきは自己が二分化しやすいというのはどういう人物で、何が引き金となるのか。

自己の二分化は悪霊に憑依されることに近い。本来の自分ならしないような言動をしてしまい、そのことをなすすべなく見守るしかない自分が悔いるからだ。

だが、この例えは決定的に間違っている。なぜなら自己嫌悪するような言動をしたのは紛れもなく現実の自分であり、この場合、悪霊とは自分に他ならないからだ。

では、悪霊に憑りつかれたと本人が思い込んでいる自分、なすすべなく見守っていた自分とは誰なのか。

岸田は彼ないし彼女を「架空の自分」と表現したが、これは言葉として強すぎる。

正確に表現するとすれば、「自分ではこれこそが自分という人間であると思い込んでいる自己」とでも言えばいいだろうか。

岸田の言うところの架空の自分、と現実の自分の乖離が大きいほど、二分化を起こしやすい。

二分化のトリガーは羞恥心だ。

基本的にトリガーを引く直前まで人は二分化されていない。

自分の欲望を満足させるはずだった言動が、望んだ結果を得ることができなかった時に羞恥心が起きる。

そして、恥ずかしい行いをした自分を切り離すことによってある種の責任転嫁をするのだ。

さて、妻の自己嫌悪をなるべくネガティブに解釈しないように努めてみたが、うまくいかなかった…。

これ以上考察を深めても自己嫌悪に関するポジティブな見解は得られそうにないので、ここらでこの話はやめておくことにする。

青野君に触りたいから死にたいというマンガを読んだ

独白するだけのゴリラになりたい。あと自己嫌悪をしたくない。

青野君に触りたいから死にたいという死ぬほどメンヘラタイトルのマンガを読んだ。

会社を仮病でさぼって全巻大人買いして読んだ。

何度か1巻無料公開となっている度に読んでいたマンガなのだが、何度も読むたびにじわじわと続きが気になって今回ついに全巻購入したという次第である。

自分はマンガが好きで、ジャンルを問わず様々な作品を読むが(おそらくかなり多くの人もそうだと思うが)、読後しばらくしてからじわじわと続きが気になるマンガに出会ったのは初めてのことだ。

簡単にストーリーを紹介する。

まずタイトルに出てきた青野君だが、登場から13ページで死ぬ。しかも彼女が出来てまだ2週間しか経っていないのに交通事故で死ぬ。

これでタイトルの意味がわかってもらえたと思う。

青野君は死んでいるから触れない。だけど触りたい。彼に触るには自分も彼と同じ世界に行くしかない。だから死にたい。

青野君に触りたいから死にたい。

ではこの場合死にたいのは誰か?青野君に触りたいのは誰か?

青野君が死ぬ2週間前にできた彼女の優里ちゃんだ。

この優里ちゃん、学校で青野君の訃報を聞いたその日のうちにリストカットを試みる。

その瞬間に、幽霊になった青野君が優里ちゃんの自殺を止めに現れる。一瞬だけ自殺を思いとどまる優里ちゃんだが、幽霊の青野君に触れないことがわかると迷わず自死を選ぶメンヘラっぷり。

結局優里ちゃんは幽霊となった青野君と生きたまま付き合うことを選ぶ…という、ここまで聞くと相思相愛のふたりが触れることを許されぬ悲哀の物語っぽい。

「ぽい」というのは、そうではないということである。

ふとしたきっかけで優里ちゃんが青野君に憑依できるか私で試してみる?ときいた瞬間、青野君は別人のように豹変し優里ちゃんの体を乗っ取てしまう。

このあとも度々青野君は優里ちゃんの体を乗っ取るのだが、肉体の所有権を奪おうとする青野君の豹変ぶり、というか別人格の青野君がとにかく怖い。

自分が悪霊のようになってしまうことに戸惑う青野君に対し、青野君のそばにいられさえいればどうなってもいいと決心する優里ちゃん。

ホラーラブロマンスとでも呼べばいいのか、とにかく新しいジャンルである。

このマンガのホラーとしての良さは、青野君が悪霊になる時など、日常からホラーへと変わる時のルールが作者の中で明確に決まっていることだ。

怖さというのは存外簡単に演出できる。

理不尽さと不気味さをかけあわせればいい。

理不尽さも不気味さも我々の知覚する世界のルールから外れているため恐怖を感じさせるのだが、一方でルールから外れているがゆえに作品全体として俯瞰したときに稚拙な造りに見える。

いわゆるご都合主義に見えやすいのだ。

ところがこの作品では理不尽さも不気味さも現実の世界とは違う軸のルールに従っているため、現実世界の人間から見れば怖いのだが、この恐怖は別世界の規則に従っているので作品内でご都合主義が横柄な態度をとることがない。

もう少し補足すると、ルールがあるのに怖いというのは、異世界のルールを我々が共有しきれていないために、理不尽さと不気味さが消失していないのだ。

つまり、本作品で感じる恐怖は恐怖の残り香とでも言うか、我々とは別の世界から顕現しているという点では従来の恐怖と同じなのだが、規則に従っているためどこか身近な恐怖なのである。

そうは言っても、作りこまれたホラー作品というのは他にもあるので、自分がこの作品に惹かれた理由はこれだけではない。

ホラーのルールが設定するためには、モンスター(この場合は死者)の視点から世界を構築する必要がある。

自分の言語能力不足で説明しきれず大変残念なのだが、死者に優しい物語なのだ。

意味が分からないと思うだろうけど、おそらく作品を読めば自分の言いたいことが伝わるはず…。

そう、青野君に触りたいから死にたいは、優れたルールで構成されたホラーマンガでありながら、その土台は繊細な感情でかためられている。

青野君に触れないことを知って再び手首を切ろうとする優里ちゃんの台詞。

「君に触れないなら死ぬしかないじゃん!」

は、確かにメンヘラ発言なのだが、その一言で断じてしまうのは自らの感性の乏しさを認めるようなものだと思う。

彼女の台詞の中には死者である青野君に対する偏見が一切ない。

梅原猛が「生きている平凡な優越者は、死んでしまった優れた劣等者に嫉妬を感じない」と記した。共感する。

そしておそらく多くの人がそうなのである。

死者を一段下の存在として見ているのだ。

だがこの作品にはそれがない。いや、後にあるのだが、死者を下に見てしまうことを悔いる様子がしっかりと描写されているので、作者はこの辺りを意識しているのだと思われる。

繊細なのだ。言葉にはできないような微妙な感情が繊細に、それでいて読者に伝わるように描かれている。

以下に優里ちゃんと友人の美桜ちゃんの会話の一部を例として載せる。

「わたし勝手に美桜ちゃんのこと友達だと思ってた…友達の悲しみに気付けなかったことが悲しい。

わたしは青野君の気持ちを無視して、無理やり青野君にわたしの瞳を捧げて青野君の力を利用したの

好きな人の心の隣に座りたいのに、その心を見失って足でうっかり踏み潰すの…」

「…ありがとう優里ちゃん」

「どうして?酷いことしたのに…」

「君がうっかり踏んじゃうような難しい場所にあたしの心があったことを怒らないでくれて」

胸が締め付けられるような優しさだとは思わないだろうか?

この繊細な感情、心が揺れているのに言葉にするほどはっきりと揺れてくれない微妙な感情が作品内の随所で作者によって見える形に変換される。

そしてそのどれもが暗い感情ではなく、淡い光のような優しさに起因したものなのだ。

ホラー要素が第一の武器ではないから、1冊読み終えた後にドキドキハラハラしてすぐに続きを読みたいとは思わせるような作品ではないが、作者のメインウェポンである感情の描写によって、ずっと心にひっかかる作品であるからじわじわと続きが気になるのだろう。

ちなみに主人公の優里ちゃんが結構なむっつりスケベで、青野君との性的なシーンもある。

ただし青野君は幽霊なので彼女に触れることはできない。

それこそが、青野君がどんどん悪い何かになってしまうのに優里ちゃんが何度も彼に肉体を受け渡す理由なのかと邪推している。

決して触れ合うことができないから、一体化を望むのではないか。そして、作者は一体化をホラーで描写する…

触れ合うことを望むふたりに対し、一体化を禁忌として描く作者。

物語の結末はどうなるのだろうか…

適当な居酒屋に行くぐらいなら高いランチに行きませんか?

独白するだけのゴリラになりたい。あと良質なホラーマンガ読みたい。

去年久しぶりに会う友人とご飯と食べに行くことになったのだが、予算5千円以内の店がいいと言われたので、では男三人でちょっと敷居の高いお店のランチでもいかがかと提案してみた。

結果、洒落た店に男性器をひっさげた生き物だけで行くわけにはいかない、というよくわからない返答をもらったため、安い居酒屋を探すことになった。

しかし学生ではないのだ。久しぶりに会う友人と汚い居酒屋で肩を寄せ合いお通しのキャベツをミドリガメの如く反芻するのは御免こうむりたい。

出会う場所の空気というのは、同席する人間との会話の内容にも少なからず影響を与えると思う。

古い友人と会うというのは、人それぞれの目的があるだろう。特に、過去を懐かしみたいというのであれば、それこそ学生時代に始発までの時間を稼がせてもらった居酒屋などでもいいのかもしれない。

だが考えてほしい。社会人同士がスケジュールを合わせて会うということの難しさを。

限りのある時間をアルバムの朗読だけに使うのはもったいないと思うことはないだろうか?

例えばあなたが恋人と1年以上良好な関係を保つことができたとして、デートプランのバラエティーのなさに焦りを感じたことはないだろうか?

このふたつの質問の意味することは、仲の良い相手と長く関係を続けたいのであれば、たまには普段行かないような店に行き、普段しないようなことをしようということである。

そうすることで、知人友人の普段見たことのない顔が見えるかもしれないし、自分の新しい顔に気付くことだってある。

高いランチをおすすめする理由を端的に挙げるとすれば、充足感が段違いだからということに尽きる。

適当に入った安そうな居酒屋で使う5千円と、一週間前から調べて予約したランチの5千円ではその有難みはまったく違うことを実感してもらえると思う。

その上、ランチだから食べ終わった後でもまだまだ時間はあるのだ。例えばランチの時間に友人からおすすめされた映画や本などを午後の時間に見ることができる。

それでも5千円のランチが高いという人は、5千円の居酒屋で飲んだ後に別の店にはしごする費用を計算してみてほしい。

ランチの場合ははしごということはなく、せいぜいカフェで珈琲一杯を飲むくらいだろう。

中には夜しかできない話があるという人もいるだろうが、久しぶりに会うというのに夜しかできない話が主題という関係はちょっとどうかと思う。

あくまで自分の感性から言わせてもらえばの話だが。

ところで、冒頭に出てきた男性器をひっさげているという理由から高いランチを拒否した友人とどこに行ったかという話になるが、コの字カウンターの焼き鳥屋に行った。

高い店というわけではなかったが、友人ふたりがガブガブと高い日本酒を飲んでくれたため、ひとり1万円以上払うことになった。

ちなみに自分は酒が弱いのでほとんど飲まなかった。

次は絶対にランチに行って、会計は別々にしようと思う。その時はやつの男性器を切り落としてやろう。

アウトプットとインプットの精度について

独白するだけのゴリラになりたい。あと美味しいもの食べたい。

アウトプットの機会をとにかく増やさねば!と切実に思ったのは去年の暮くらいからである。

自分はテーマを決めて本を読む趣味があり、通年100冊程本を読むのだが、つい最近これまで読んだ本の要約を試したところ、ひどく稚拙なものが出来たことに驚いた。

アウトプットの出来が悪いということはインプットの出来も悪いということだ。口惜しいことではあるが…

なんとかしなければいけないと思うのと同時に行動を起こさないと一生なにもしないのが自分という人間である。

するべきことは何か。アウトプットの機会を増やしてインプットの精度も同時に上げてしまえばいい。

ということで早速友人数人に声をかけて仲間内でプレゼン大会を開くことにした。

その矢先に、仲間の一人の海外駐在が決まり数年帰ってこなくなるというので早くもプレゼン大会の継続が危ぶまれることになった。

アウトプットをする場所をひとつに絞るのは危険だなぁ、と思い知らされたのでとりあえずブログをふたつ目のアウトプットの場所として始めてみた次第である。

とりあえずは読んだ本の内容や、日々の出来事をこのブログに綴ってみる所存ではある。

ちなみに第三のアウトプットとしては何か商品でも作ってみようかと思っている。今ある構想としては全く新しい傘を作ろうとしているが、これが中々難しい。

傘というのはおそらく人類が初期の段階に思いついた古典的な道具のはずなのだが、そのスタイリッシュ化のピークは平安時代あたりで止まっている。

折り畳み傘などは一瞬傘界にイノベーションを起こすかと期待されたが、傘を開くまでの工程が多くスタイリッシュとは正反対の方向に進化した傘の亜種である。

数年前にクラウドファンディングでAir umbrellaなる風圧で雨を吹き飛ばすスティック状の傘を中国の会社が発明しようとしていたが結局うまくいかなかったらしい。

頓挫した理由は色々あるだろうが、傘という毎日使わないものを電動式にするのは如何なものか。

充電をするのをつい忘れてしまい、出先で使おうとしたときに電池切れを起こしてしまえばただの棒になる。

文字通り無用の長物だ。

そもそも毎日使わないものをスタイリッシュ化させた結果、工程が増えてしまえば人を遠ざけることになるのは自明の理ではないか。

傘の電動式を諦め、難しい仕組みを考えることをやめれば、きっと単純なアイデアひとつで傘界にイノベーションを起こすことができるだろう。

しかも特許とれば一儲けできそうだし。

ここまで書くと簡単そうな気がするのだが、いざ真剣に考えてみると我々の良く知る傘がベストソリューションだとわかるはずだ。

つまり従来の傘を全く新しいものにするというのも勝負する場所を間違えている。

ではどうするか。

実はすでにこれはきたかもしれない!というアイデアはあるのだが、まだディティールが詰め切れていない。

面白いアイデアを思い付いたという人がいれば是非一緒に商品開発をしたいのでコンタクトして欲しい。

いつの間にか傘の話が半分ぐらいになってしまったので、このあたりで終わりにする。

今後は週に一度くらいのペースで記事を書く意思はあるが、どうかな。飽きっぽいから途中で飽きるかもしれない。

では、また。