繋がりを強化することと迫害について

独白するだけのゴリラになりたい。あと演劇を見に行きたい。

本題に入る前に確認したいのだが、アウシュビッツのホロコーストについて、学校で勉強する機会ってありましたか?

恥ずかしながら、自分は高校の授業をさぼりまくっていたタイプの人間なので、世間一般でどのくらいアウシュビッツの悲劇が認知されているのかわからない。

この件について勉強する機会をくれたのはそれこそアウシュビッツ収容所を実際に見た時だった。

各地から集められたユダヤ人が、収容直前に髪を刈られるのだが、その髪がいまでも保管されている。

数メートルあるガラスケースの中を埋め尽くす夥しい量の毛髪を見た時、思考が白く染め上げられた気がした。

虐殺の歴史を振り返ると、アウシュビッツ以上の悲劇がないこともない。

しかし、人を機械的に殺すことを目的とした施設だったという点でアウシュビッツの異質さに勝る例は虐殺史でも類を見ない。

大量虐殺を淡々と、まるで事務作業のようだったからこそ、アイヒマンのような邪悪ではない人間にも務まる仕事だったのだろう。

ちなみに、普通の感性を持った人間の多くが、ホロコーストの初期に職務を断っている。このことはクリストファー・ブラウニング著の「普通の人びと」に記されている。

読み進めるのが非常にしんどいので、内容に興味があればまずは自分に聞いてもらえばと思う。

確かな情報かは不明だが、当時の秘密警察の中にユダヤ人が存在したらしい。

このユダヤ人の秘密警察は収容されたユダヤ人に対して最も残虐だったとか…。

これが事実だとすると、秘密警察である彼は残虐性を発揮することで被害者との同一性(この場合はルーツの同一性)を否定せざるを得ない立場だったのだろう。

繋がりを切る方法

秘密警察の例は色々な見方ができる。

自分は、この例に他者との繋がりを切ることの大変さを見た。

他人と縁を切るのには時間がかかる。

20代も半ばを過ぎれば、もう数年会っていない友人知人の名前をすぐに思い出せなくなる。

これはおそらく最も一般的な繋がりが弱くなった事例だ。

中には激しい口論の末に連絡を一切とらなくなった元友人という存在もいるかもしれないが、かつての口論を思い出すことで怒りを覚えるとしたら、皮肉なことにその怒りこそが相手との縁をとりもつ楔になっている。

一度つながった縁は、結局死ぬまで会うことがなかったという時間制限によって切れるか、お互いの存在を忘却した結果が縁が切れることがあっても、個人の意思のちからで暴力的に縁を切るというのは出来ないのではないかと思う。

そしてこのことこそが、秘密警察のユダヤ人を残虐にさせた理由である。

殊更に悪かったのは、彼と被害者であるユダヤ人の繋がりは、個人的な友好関係といった類のものではなく、ユダヤ人であるナショナリズム・概念の繋がりだったことだ。

一対一の関係の縁は忘却か死によって切れるが、一対全体では圧倒的に一が不利だ。

これ以上続けるとどんどん脱線しそうなので話を戻そう。

人の繋がりは兎角丈夫で、個人的なちからで弱めるのは難しいことを論じた。

では、逆に強めるにはどうしたらいいだろうか?

強い繋がりの危うさ

基本的に我々は共有するものが多いほど繋がりを強く感じる。

最も単純に繋がりを強くするのは共に過ごすことだ。これは時間の共有を意味する。

別の方法としては秘密の共有も非常に有効な手段だ。

秘密の共有の中でも、これまで聞いた話で一番興味深かった例は長野のとある集落の話だ。

その集落では、決まった日に観覧版が回る。

ただしこの観覧版には何の情報も記載されていないし、版でもない。

火の入った鳥籠だ。

この話を聞いた時、背中の毛穴が一気に開いたのをおぼえている。

鳥籠の中の火…想像するだけである種の神秘性を感じてしまう…

鳥籠は、決まった日に集落に住む家庭に回される。

これは儀式だな、と直感でわかった。

踊りや祭典と同じ性質のものだ。つまり、場の共有で、ルールの共有で、部外者にはわからない秘密の共有だ。

着目すべきは、部外者にはわからないということである。

これは内部の結束を強める反面で、外部を疎外する機能も併せ持つ。

例えばこの集落に移住してきた家族がいたとしよう。

集落に新しい入居者がきてからはじめての鳥籠を回す日がきた。

さて、鳥籠は新参者の一家にも回るだろうか?

強い繋がりは複雑な絡み合いで構成されているため、入るにも抜けるにも文字通り一筋縄でいかない。

うまいこと言えたので、これ以上余計なことは語るまい。

では、また。

性行為は怖いことか

独白するだけのゴリラになりたい。あと転職したい。

今更ながら映画「娼年」を観た。

性行為における深淵を垣間見たような気がしたので、セックスについて真剣に考えてみた。

セックスは暴力的なまでに自己開示を迫る行為だと思っている。セックスにおける「愛」の要不要は置いて話を進める。

物理的に衣服を纏っていないという自己開示だけでなく、裸体を見せても良いと心を開くところまで含めての話だ。

世間がどう思ているかは知らないが、セックスはあまりポジティブに語られることがない。

性行為が子どもに秘匿されているために開けっ広げに語ることが出来ない風潮も関与しているかもしれないが、個人的にはセックスが恐ろしい行為だからだと思う。

ところが、何故恐ろしいと思うのかを深堀して考えたことがなかったので、ヒントになりそうな本を適当に買ってみた。

上述したように、セックスの恐ろしさは自己開示の強制力だと考えている。

だから、なるべくこの自己開示の強制力の恐ろしさについて書いてありそうなタイトルの本を探した。

それが、デンマークで牧師をしながら心理療法士やセラピストとして多方面で活動をしているイルセ・サン著の「心がつながるのが怖い」という本だ。

心がつながるのが怖い

結論から言うと、この本はセックスについての考察を深めるのに有効ではなかった。

しかし、自分に新しい考え方を与えたくれたので、本日はタイトル詐欺になるが、この本の内容について記していく。

本書は、自分の痛みや悲しみから目を背けるために、他人と対等な関係を築くのが難しいと感じている人のための読むセラピーであるらしい。

らしいというのは、帯にそう書いてあるからだ。

著者は、こういう症状に悩まされている人の多くは幼少期の親との関係が原因であると述べている。

親の存在が大人になってからの精神形成にも大いに影響を与えるという観点はユングっぽいな、と思ったが、調べてみると著者はユングに関する修士論文を執筆した過去があった。

基本的にテーマは「自己防衛」についてだ。

本人も理由はわからないが、他人が近づいたり愛情を表現してくれるとその関係を遠ざけるような言動をとってしまう。これは、幼少期に形成された習慣で、自己防衛である、という観点から原因と対策について書かれている。

この辺りについては特に思うこともなかったので気になるのであれば自分で本を買ってみるといい。「読むセラピー」というだけあって、特定の人には確かに効果がありそうだった。

感情は重なり合って互いを隠している

前の記事にも書いたが、あらゆる感情の中で最もエネルギーが高い(カロリーが高いと言ったほうが適切かも…)のは怒りだ。

イルセ・サンは感情を完全に理解するには体・衝動・頭の3つの面においての意識する必要がある。

例えば恐怖という感情を例にとってみる。

●体:震えるのを感じる。

●衝動:叫びながら走って逃げたい衝動を感じる。

●頭:恐怖していると頭で知る。

喜びなら、

●体:体の中に踊りたくなる感覚がする。

●衝動:突然歌いだしたくなるような衝動が湧く。

●頭:自分が喜んでいるのを頭で知る。

お粗末な説明だが、そのままの引用なので勘弁してほしい…

ここで注目して欲しいのは衝動についてだが、自分に限って述べるのであれば怒りの衝動はその他の感情を圧倒的に上回る。

なにせ強すぎる怒りの衝動のあまり、超サイヤ人になるサイヤ人まで出てくるの始末である。怒りで黒髪から金髪に変わるのだからその衝動力たるや筆舌に尽くせない。

怒りの衝動で超サイヤ人になった孫悟空さん(本名カカロットさん)
こちらも怒りの衝動で超サイヤ人になったベジータさん

怒りが最もカロリーの高い感情であることは今も疑っていないが、イルセ・サンの著書によると感情というのは複数の感情が重なりあい、ある感情が別の感情を覆い隠している場合があるという。

そして怒りはその重なりの一番上の層にある。

何故怒りが一番上の層にあるのかについても説明がある。

曰く、怒りとは内と外の両方から効率的に身を守る戦略なのだ。

怒りにより、他人を追い払うことで外部から自分を守り、一番上の層にある怒りを強く感じることで、その下の層にある無気力や悲しみなどの他の感情を感じないようにする自らを内側からも守る。

怒りはそのカロリーの高さから、消化するまでに他の繊細な感情を感じにくくする。

面白かったのはこの後だ。

著者のスタンスは、ひとは潜在的に痛みを避けたがるので、自らが傷つかないように自己防衛の戦略(他人との関係に距離を置く)をとる。この自己防衛戦略のちからが弱まると、多くの場合ひとは怒り(もしくは不安)の感情を表す。

そして、その下の層には悲しみや渇望があるとしている。

セラピストとして活躍する著者は、この悲しみや渇望に自ら気付き、表現することで、他者に近づいてつながるという大きな体験をさせることを目標に相手と向き合っている。

つまり、自己防衛の戦略として他人を遠ざけるひとは、自信が気が付かないうちに悲しみをブロックし、体験すべき悲しみを自分の性格に統合しないように働きかけている。

だから、悲しみと向き合えるように働きかけるのだ。

悲しみを感じるのが傷を癒すプロセスなのだ!

インサイドヘッドとの共通点

この悲しみについての認識は、自分に映画インサイドヘッドを思い出させた。

2015年に上映されたディズニーピクサー映画で、11歳の少女ライリーの持つ5つの感情(ヨロコビ、ビビリ、カナシミ、イカリ、ムカムカ)についての物語だ。

本作は、多くの神経学者からアドバイスをもらいながら5年の年月をかけて完成させた力作であり、ひとの感情の働きや仕組みについてユーモアたっぷりに描いている。

例えば、作中で考えの列車に積まれた箱が倒れて、中のカードが出てきてしまうシーン。

「”意見”と”事実”のカードがごちゃごちゃ!」

「平気、いつものことさ」

これなどは思わず笑ってしまうが、なるほどと考えさせられる上質なユーモアだ。

5つの感情の中で主に司令官を務めるヨロコビは、ライリーが暗い感情を抱かないようにとカナシミの干渉をなるべく回避する。

わけあってヨロコビとカナシミは2人で行動を共にするのだが、ここでも行動の主導権を握るのはヨロコビだ。

ヨロコビは行動的で、常に明るく場の空気を楽しくさせるために振る舞う。

道中、2人はライリーが昔遊んでいたイマジナリーフレンド(幼少期に子どもが作る想像上の友達)であるビンボンと出会い、3人で冒険することになる。

途中でビンボンが、昔はいつも遊んでいたライリーが自分のことを忘れ始めていることにショックを受けて足を止めてしますシーンがある。

ヨロコビは大丈夫、他にも楽しいことがあると励まして前進を促すのだが、ビンボンはすっかり落ち込んでしまって動けない。

ここで初めてカナシミがポジティブな働きをする。

ポジティブな働きと言っても、カナシミの言動は徹頭徹尾ネガティブな感情とされる悲しみの表現でしかないのだが、悲しみという感情がポジティブに描写されるのだ。

カナシミは落ち込むビンボンに寄り添い、一緒に悲しんだのだ。

ビンボンはカナシミと抱き合って泣くと、「もう大丈夫」と立ち上がり再び前進する。

まさに悲しみを感じることが癒しのプロセスであることがここに描かれている。

インサイドヘッドは、ヨロコビがライリーの幸せを願うあまりに、カナシミを厄介者として扱い、遠ざけていたが、そのカナシミの重要性に気が付くという王道のストーリーだ。

これは、イルセ・サンの本の内容をそのまま表している。

彼は喜びと悲しみはとても近い感情だと見解を述べているが、これに当てはまるような描写も本作の中で見られる。

ヨロコビが、ライリーが大好きなアイスホッケーの試合に勝利して仲間たちと喜んでいる思い出を見ていた時。

喜びを仲間と分かち合う前に、別の試合でライリーが決勝点をいれることができずに落ち込んでいる悲しみの思い出があることに気付く。

悲しむライリーに両親が寄り添って彼女を励ますのだ。その思い出を見てヨロコビはカナシミがどれほどライリーにとって大切な感情なのかを認識する。

「カナシミ…ママもパパもチーム仲間も、みんなが励ました…カナシミのために」

カナシミは、傷を癒し次の喜びの感情をより高める役割を担っている。悲しみから、喜びが生まれるのだ。

悲しいという感情が持つ特異性

インサイドヘッドでは、5つの感情たちの中でカナシミだけが他の感情の思い出を自分の色に染めるちからを持っている。

それ故に、ヨロコビはカナシミの接触を避けようとするのだが、何故カナシミだけがこのような力を持っているのだろうか。

作中で、悲しみが他者に寄りそうことで癒しの効果を発揮する描写が何度も繰り返される。

つまり、カナシミは寄り添いと共感に秀でていることが強調されているのだ。

この特性こそが、他の思い出を自分の色に染める力に表れているのだと思う。

イルセ・サンの言うように、感情がいくつもの層で覆われているとしたら、我々は日々の生活の中で自らのカナシミの声に気付いていないのかもしれない。

他人に対して深い共感を持つ時、思い返せばそれは相手の悲しみに共感していることが多い。

学生時代の知人の女子が、彼氏にいわゆるヤリ捨てをされたと憤慨していたことがある。

最初、彼女の怒りは真っ当なものだと思っていたし、自分も彼女の彼氏に不快な感情を抱いた。

しかし、話をしていくうちに彼女はとうとうポロポロと泣き出して「悔しい、悲しい」と漏らした。

涙を流す彼女を見て、自分も彼女の気持ちに同調して泣きそうになった。

当時は、何故自分は彼女の痛みを理解できたのかわからなかったが、あれは自分を大切に扱ってくれなかったことに対する彼女の悲しみに共感していたのだろう。

以上を踏まえると、悲しみは優しさにも似ている。

他者に共感して寄り添う、こう書けばそれはまさしく優しさのことではないか。

やさしくなりたい。カナシミの声にもっと耳を傾けよう。思わぬところで結局セラピーを受けたようになってしまった。

では、また。

他者を排除したがる人

独白するだけのゴリラになりたい。あとチーズ食べたい。

平穏無事な人生に憧れる年齢になってきた。

悪意や敵意に触れることは多かれ少なかれストレスだし、可能であればストレスフリーで生きていたい。ストレスの原因には爆発して霧散してほしい。

特にストレスとなるのは、他人から向けられた悪意や敵意だろう。

では、悪意や敵意の正体とは何だろうか。怒りか?いや、少し違う気がする。

悪意や敵意というのは、感情から発生するものではなく、侵害に対する反応の一種ではないかと思う。

その対象が自己の存在を揺るがすと判断した時、ひとは対象を排除しようとする。排除しようとする結果、悪意や敵意といったものがむき出しになる。

つまり、悪意ありきの排除ではなく、排除するために悪意や敵意が必要になるのだ。

悪意や敵意は、それ単独の感情のみでは存在できない。

侵害に対する反応がどういう意味かもう少し掘り下げて考えてみる。

上述した通り、自己の存在を揺るがされる時、ひとはこれを侵害されたと捉える。

これまで築いた自分というアイデンティティを根本から揺るがされた経験はないだろうか?そして、そういう時にあなたがどういう行動をしたのか憶えていれば、是非詳細に思い出す努力をしてほしい。

おそらく、揺るがしてきた震源を遠ざけようとしたはずだ。それが物理的な距離(目に映らないようにする)でも、心理的な距離(否定して同一化を避ける)でも意味は同じだ。

今回は特に後者、心理的な距離を遠ざけるケースに焦点を当てたい。

第一に、自己はアイデンティティを維持するために震源との同一化を回避しなければいけない。このため、震源を受け入れることを徹底的に拒絶する。

アイデンティティの崩壊を避けるには、震源を否定する必要がある。だから我々は震源に対して攻撃的な態度をとって、排除を試みるのだ。

攻撃に必要な武器は批難・中傷・暴力などになるが、これらの武器を研磨しようとするとどうしても表出するのが敵意や悪意である。

だからこそ、繰り返しになるが敵意や悪意は単独の感情として存在できないと自分は主張する。

となると、アイデンティティの侵害はどのような時に起こるのかを述べなくては自分の考察は中途半端なものになってしまう。

我々がこれまで生きてきた中で、形成されてきたモラル感や信念は、行動経済学的観点から言えば我々を非合理的な生物にした要因となる。

現在コロナウイルスが猛威を振るっているために、マスクが売り切れとなり、メルカリなどで相場の5倍以上の値段でマスクを売りつけている輩を見ると、正義の鉄槌を振り下ろしたくなる人がいるかもしれない。

*補足までに、自分はこの輩に対して別段否定する気はない。

しかし、そのような輩はひどく合理的に経済を理解しており、マスクの買い占めによって相場をコントロールし、実に容易い方法で利益を得ている。

合理的に金を儲けている人間は大勢いるが、我々がその他の方法で金を儲けている人間を許容し、件の輩を否定するのは、彼が我々のモラルを無視しているからに他ならない。

もっとわかりやすく言えば、自らの価値観に従って、すべきではないと誓った行動・封印した言動を他人が易々とした時に、我々はその対象から築き上げたアイデンティティを否定されたような気持になる。

これこそが侵害である。

そして、個人的な見解だが、この侵害に対して心理的な距離をとろうとするのは嫉妬の類でもあると思う。

自分が許されない言動を、彼ないし彼女だけが許容されている状況に対する嫉妬である。この見解が共感されるかわからないが、もし同じような考えの人がいれば是非酒を酌み交わして話がしたい。自分は馬乳酒を4,5盃飲んでもケロッとするくらいにはアルコールに耐性はある。

気になるようであれば、馬乳酒のアルコール度数を調べてみてほしい。

さて、価値観の縛りの強さは一種の呪いのようなものなので、平穏無事な人生を生きたいと思うのであればこれらの呪いを解呪していく必要がある。

そして、解呪のためには侵害してきた対象を部分的にでも受け入れなければいけない。これは苦痛だ。そもそも苦痛じゃない人間は価値観の縛りも弱いので、解呪しなくても平穏無事な人生を送っているに違いない。

自分などは、数年前まで「己の信念に誇りを持てない弱者は去ね!!」と思っていたようなちょっと痛い人間だったので、解呪をするためには荒療治が必要だったし、なんならそのために何度か死にかけた

その結果、人格としての面白さは失ってしまったので、別に価値観の縛りが強に人間を否定する気はないし、解呪をおすすめしているわけでもない。

なんならそういう人はこだわりが強くて面白いので一緒に馬乳酒を飲みながら話をしたい。

ただ、平穏無事に生きたいのに生きづらさを感じている人がいれば、自分の見解を少しばかり参考にしてもらえば嬉しい。

では、また。

嫌悪する自分と嫌悪される自分

独白するだけのゴリラになりたい。あと交尾したい。

先日妻が会社で色々あったらしく、自己嫌悪していると発言した。

自己嫌悪なる言葉を知ってはいたが、本当に自己嫌悪している人間を初めて間近で目撃したことが衝撃だった。

自己嫌悪とはあまりに無縁の人生だったので、自己嫌悪の正体について考えてみたのだが、自己嫌悪したことがない人間が自己嫌悪について考察するには材料が足らなすぎる。

偶然にも、最近妻の友人に勧められた岸田秀の「ものぐさ精神分析」という本に自己嫌悪についての記述があったので、まずはこれを参考にしてみる。

嫌悪とは当然、嫌う側と嫌われる側の両者が存在する。自己嫌悪において、嫌う側も嫌われる側も同一人物である。

まずこの点が、他人に対する嫌悪とは一線を画す。

そして嫌悪される側の自己は常に現実に行った実際の行動であり、嫌悪する自己は現実的基盤を持たない幻想の自己である。

嫌悪は、嫌悪の対象の排除あるいは消滅に方向に作用する力なのに、自己嫌悪においてはその力が作用していないと岸田秀は言う。

異議あり!

そもそも嫌悪に、対象の排除、もしくは消滅をもたらす力があるとは思わない。

自分はそれなりに好き嫌いがはっきりした性格であるし、嫌いな奴をぶっ飛ばしてやろうと思うことは多々あるが、だからと言って実際にぶっ飛ばすことはない。

嫌いだと念じることで、嫌悪の対象を排除はできないし、もしそれが出来たとしたらこの世に人間はいなくなる。

この意味で、自己嫌悪も他者嫌悪も全く異なる「嫌悪」とは言えない。

しかし、ものぐさ精神分析を読み進めていくと上述の私見に対してのコメントにぶつかる。

「自己嫌悪がある程度、苦痛なことはたしかである。しかし、他社を嫌悪するような具合に自己を嫌悪することは決してできない」

一理ある。

嫌悪する主体もまた自己である以上、自己を100%嫌悪することはできていないはずだ。

つまり、嫌悪する主体と嫌悪される対象として自己を分けている時点で、嫌いな自己から自分を切り離してものを考えている。

嫌悪される対象の自己はたしかに100%嫌悪されているのかもしれないが、あくまでも自己の全体の中での一部だ。嫌悪される対象としての自己は、自己の嫌いな部分の凝縮であり、それは自己の全体ではない。

ところが他者嫌悪は、時に100%全力でお前のすべてを否定する時があるのだ。少数派かもしれないが。

岸田はこの章の半ばで自己嫌悪は、嫌悪された行為の再発を阻止するどころか、促進するとか、

自己嫌悪は、その社会的承認と自尊心が「架空の自分」にもとづいている者にのみ起こる現象であるなどと過激なことを述べるのだが、彼もまた自己嫌悪をよくする人間らしく、あくまで個人の自己嫌悪に関する考察を述べただけに過ぎない。

むしろそれだけ自己を嫌悪しているという表れなのだろう。というか、仮に彼の言い分が正しいとすれば盛大にうちの妻をディスることになるので自分は岸田のすべてを否定しなければいけない。

自分の知り合いに自己嫌悪の話をしたところ、その正体は長い反省であると答えをもらった。

反省は自分の失敗を受け入れ、その失敗への対策をする一連の過程のことを言うが、自己嫌悪は失敗を受け入れる際に、自分の失敗を悔いる時間が長いだけ。

これもまた一理あるが、共感はできなかった。

反省という行為そのものが自分の失敗を悔いるもので、自己嫌悪は自分の失敗を悔いるというところから副次的に発生する何か別のもののような気がする。

自己嫌悪が自己を二分化することには同意する。思うに、自己が二分化しやすい人間が自己嫌悪をするのではないだろうか。

失敗を悔いる際に、自己が二分化されて自己嫌悪を始めるというメカニズムなのであれば、納得しやすい。

となると考えるべきは自己が二分化しやすいというのはどういう人物で、何が引き金となるのか。

自己の二分化は悪霊に憑依されることに近い。本来の自分ならしないような言動をしてしまい、そのことをなすすべなく見守るしかない自分が悔いるからだ。

だが、この例えは決定的に間違っている。なぜなら自己嫌悪するような言動をしたのは紛れもなく現実の自分であり、この場合、悪霊とは自分に他ならないからだ。

では、悪霊に憑りつかれたと本人が思い込んでいる自分、なすすべなく見守っていた自分とは誰なのか。

岸田は彼ないし彼女を「架空の自分」と表現したが、これは言葉として強すぎる。

正確に表現するとすれば、「自分ではこれこそが自分という人間であると思い込んでいる自己」とでも言えばいいだろうか。

岸田の言うところの架空の自分、と現実の自分の乖離が大きいほど、二分化を起こしやすい。

二分化のトリガーは羞恥心だ。

基本的にトリガーを引く直前まで人は二分化されていない。

自分の欲望を満足させるはずだった言動が、望んだ結果を得ることができなかった時に羞恥心が起きる。

そして、恥ずかしい行いをした自分を切り離すことによってある種の責任転嫁をするのだ。

さて、妻の自己嫌悪をなるべくネガティブに解釈しないように努めてみたが、うまくいかなかった…。

これ以上考察を深めても自己嫌悪に関するポジティブな見解は得られそうにないので、ここらでこの話はやめておくことにする。

青野君に触りたいから死にたいというマンガを読んだ

独白するだけのゴリラになりたい。あと自己嫌悪をしたくない。

青野君に触りたいから死にたいという死ぬほどメンヘラタイトルのマンガを読んだ。

会社を仮病でさぼって全巻大人買いして読んだ。

何度か1巻無料公開となっている度に読んでいたマンガなのだが、何度も読むたびにじわじわと続きが気になって今回ついに全巻購入したという次第である。

自分はマンガが好きで、ジャンルを問わず様々な作品を読むが(おそらくかなり多くの人もそうだと思うが)、読後しばらくしてからじわじわと続きが気になるマンガに出会ったのは初めてのことだ。

簡単にストーリーを紹介する。

まずタイトルに出てきた青野君だが、登場から13ページで死ぬ。しかも彼女が出来てまだ2週間しか経っていないのに交通事故で死ぬ。

これでタイトルの意味がわかってもらえたと思う。

青野君は死んでいるから触れない。だけど触りたい。彼に触るには自分も彼と同じ世界に行くしかない。だから死にたい。

青野君に触りたいから死にたい。

ではこの場合死にたいのは誰か?青野君に触りたいのは誰か?

青野君が死ぬ2週間前にできた彼女の優里ちゃんだ。

この優里ちゃん、学校で青野君の訃報を聞いたその日のうちにリストカットを試みる。

その瞬間に、幽霊になった青野君が優里ちゃんの自殺を止めに現れる。一瞬だけ自殺を思いとどまる優里ちゃんだが、幽霊の青野君に触れないことがわかると迷わず自死を選ぶメンヘラっぷり。

結局優里ちゃんは幽霊となった青野君と生きたまま付き合うことを選ぶ…という、ここまで聞くと相思相愛のふたりが触れることを許されぬ悲哀の物語っぽい。

「ぽい」というのは、そうではないということである。

ふとしたきっかけで優里ちゃんが青野君に憑依できるか私で試してみる?ときいた瞬間、青野君は別人のように豹変し優里ちゃんの体を乗っ取てしまう。

このあとも度々青野君は優里ちゃんの体を乗っ取るのだが、肉体の所有権を奪おうとする青野君の豹変ぶり、というか別人格の青野君がとにかく怖い。

自分が悪霊のようになってしまうことに戸惑う青野君に対し、青野君のそばにいられさえいればどうなってもいいと決心する優里ちゃん。

ホラーラブロマンスとでも呼べばいいのか、とにかく新しいジャンルである。

このマンガのホラーとしての良さは、青野君が悪霊になる時など、日常からホラーへと変わる時のルールが作者の中で明確に決まっていることだ。

怖さというのは存外簡単に演出できる。

理不尽さと不気味さをかけあわせればいい。

理不尽さも不気味さも我々の知覚する世界のルールから外れているため恐怖を感じさせるのだが、一方でルールから外れているがゆえに作品全体として俯瞰したときに稚拙な造りに見える。

いわゆるご都合主義に見えやすいのだ。

ところがこの作品では理不尽さも不気味さも現実の世界とは違う軸のルールに従っているため、現実世界の人間から見れば怖いのだが、この恐怖は別世界の規則に従っているので作品内でご都合主義が横柄な態度をとることがない。

もう少し補足すると、ルールがあるのに怖いというのは、異世界のルールを我々が共有しきれていないために、理不尽さと不気味さが消失していないのだ。

つまり、本作品で感じる恐怖は恐怖の残り香とでも言うか、我々とは別の世界から顕現しているという点では従来の恐怖と同じなのだが、規則に従っているためどこか身近な恐怖なのである。

そうは言っても、作りこまれたホラー作品というのは他にもあるので、自分がこの作品に惹かれた理由はこれだけではない。

ホラーのルールが設定するためには、モンスター(この場合は死者)の視点から世界を構築する必要がある。

自分の言語能力不足で説明しきれず大変残念なのだが、死者に優しい物語なのだ。

意味が分からないと思うだろうけど、おそらく作品を読めば自分の言いたいことが伝わるはず…。

そう、青野君に触りたいから死にたいは、優れたルールで構成されたホラーマンガでありながら、その土台は繊細な感情でかためられている。

青野君に触れないことを知って再び手首を切ろうとする優里ちゃんの台詞。

「君に触れないなら死ぬしかないじゃん!」

は、確かにメンヘラ発言なのだが、その一言で断じてしまうのは自らの感性の乏しさを認めるようなものだと思う。

彼女の台詞の中には死者である青野君に対する偏見が一切ない。

梅原猛が「生きている平凡な優越者は、死んでしまった優れた劣等者に嫉妬を感じない」と記した。共感する。

そしておそらく多くの人がそうなのである。

死者を一段下の存在として見ているのだ。

だがこの作品にはそれがない。いや、後にあるのだが、死者を下に見てしまうことを悔いる様子がしっかりと描写されているので、作者はこの辺りを意識しているのだと思われる。

繊細なのだ。言葉にはできないような微妙な感情が繊細に、それでいて読者に伝わるように描かれている。

以下に優里ちゃんと友人の美桜ちゃんの会話の一部を例として載せる。

「わたし勝手に美桜ちゃんのこと友達だと思ってた…友達の悲しみに気付けなかったことが悲しい。

わたしは青野君の気持ちを無視して、無理やり青野君にわたしの瞳を捧げて青野君の力を利用したの

好きな人の心の隣に座りたいのに、その心を見失って足でうっかり踏み潰すの…」

「…ありがとう優里ちゃん」

「どうして?酷いことしたのに…」

「君がうっかり踏んじゃうような難しい場所にあたしの心があったことを怒らないでくれて」

胸が締め付けられるような優しさだとは思わないだろうか?

この繊細な感情、心が揺れているのに言葉にするほどはっきりと揺れてくれない微妙な感情が作品内の随所で作者によって見える形に変換される。

そしてそのどれもが暗い感情ではなく、淡い光のような優しさに起因したものなのだ。

ホラー要素が第一の武器ではないから、1冊読み終えた後にドキドキハラハラしてすぐに続きを読みたいとは思わせるような作品ではないが、作者のメインウェポンである感情の描写によって、ずっと心にひっかかる作品であるからじわじわと続きが気になるのだろう。

ちなみに主人公の優里ちゃんが結構なむっつりスケベで、青野君との性的なシーンもある。

ただし青野君は幽霊なので彼女に触れることはできない。

それこそが、青野君がどんどん悪い何かになってしまうのに優里ちゃんが何度も彼に肉体を受け渡す理由なのかと邪推している。

決して触れ合うことができないから、一体化を望むのではないか。そして、作者は一体化をホラーで描写する…

触れ合うことを望むふたりに対し、一体化を禁忌として描く作者。

物語の結末はどうなるのだろうか…