他者を排除したがる人

独白するだけのゴリラになりたい。あとチーズ食べたい。

平穏無事な人生に憧れる年齢になってきた。

悪意や敵意に触れることは多かれ少なかれストレスだし、可能であればストレスフリーで生きていたい。ストレスの原因には爆発して霧散してほしい。

特にストレスとなるのは、他人から向けられた悪意や敵意だろう。

では、悪意や敵意の正体とは何だろうか。怒りか?いや、少し違う気がする。

悪意や敵意というのは、感情から発生するものではなく、侵害に対する反応の一種ではないかと思う。

その対象が自己の存在を揺るがすと判断した時、ひとは対象を排除しようとする。排除しようとする結果、悪意や敵意といったものがむき出しになる。

つまり、悪意ありきの排除ではなく、排除するために悪意や敵意が必要になるのだ。

悪意や敵意は、それ単独の感情のみでは存在できない。

侵害に対する反応がどういう意味かもう少し掘り下げて考えてみる。

上述した通り、自己の存在を揺るがされる時、ひとはこれを侵害されたと捉える。

これまで築いた自分というアイデンティティを根本から揺るがされた経験はないだろうか?そして、そういう時にあなたがどういう行動をしたのか憶えていれば、是非詳細に思い出す努力をしてほしい。

おそらく、揺るがしてきた震源を遠ざけようとしたはずだ。それが物理的な距離(目に映らないようにする)でも、心理的な距離(否定して同一化を避ける)でも意味は同じだ。

今回は特に後者、心理的な距離を遠ざけるケースに焦点を当てたい。

第一に、自己はアイデンティティを維持するために震源との同一化を回避しなければいけない。このため、震源を受け入れることを徹底的に拒絶する。

アイデンティティの崩壊を避けるには、震源を否定する必要がある。だから我々は震源に対して攻撃的な態度をとって、排除を試みるのだ。

攻撃に必要な武器は批難・中傷・暴力などになるが、これらの武器を研磨しようとするとどうしても表出するのが敵意や悪意である。

だからこそ、繰り返しになるが敵意や悪意は単独の感情として存在できないと自分は主張する。

となると、アイデンティティの侵害はどのような時に起こるのかを述べなくては自分の考察は中途半端なものになってしまう。

我々がこれまで生きてきた中で、形成されてきたモラル感や信念は、行動経済学的観点から言えば我々を非合理的な生物にした要因となる。

現在コロナウイルスが猛威を振るっているために、マスクが売り切れとなり、メルカリなどで相場の5倍以上の値段でマスクを売りつけている輩を見ると、正義の鉄槌を振り下ろしたくなる人がいるかもしれない。

*補足までに、自分はこの輩に対して別段否定する気はない。

しかし、そのような輩はひどく合理的に経済を理解しており、マスクの買い占めによって相場をコントロールし、実に容易い方法で利益を得ている。

合理的に金を儲けている人間は大勢いるが、我々がその他の方法で金を儲けている人間を許容し、件の輩を否定するのは、彼が我々のモラルを無視しているからに他ならない。

もっとわかりやすく言えば、自らの価値観に従って、すべきではないと誓った行動・封印した言動を他人が易々とした時に、我々はその対象から築き上げたアイデンティティを否定されたような気持になる。

これこそが侵害である。

そして、個人的な見解だが、この侵害に対して心理的な距離をとろうとするのは嫉妬の類でもあると思う。

自分が許されない言動を、彼ないし彼女だけが許容されている状況に対する嫉妬である。この見解が共感されるかわからないが、もし同じような考えの人がいれば是非酒を酌み交わして話がしたい。自分は馬乳酒を4,5盃飲んでもケロッとするくらいにはアルコールに耐性はある。

気になるようであれば、馬乳酒のアルコール度数を調べてみてほしい。

さて、価値観の縛りの強さは一種の呪いのようなものなので、平穏無事な人生を生きたいと思うのであればこれらの呪いを解呪していく必要がある。

そして、解呪のためには侵害してきた対象を部分的にでも受け入れなければいけない。これは苦痛だ。そもそも苦痛じゃない人間は価値観の縛りも弱いので、解呪しなくても平穏無事な人生を送っているに違いない。

自分などは、数年前まで「己の信念に誇りを持てない弱者は去ね!!」と思っていたようなちょっと痛い人間だったので、解呪をするためには荒療治が必要だったし、なんならそのために何度か死にかけた

その結果、人格としての面白さは失ってしまったので、別に価値観の縛りが強に人間を否定する気はないし、解呪をおすすめしているわけでもない。

なんならそういう人はこだわりが強くて面白いので一緒に馬乳酒を飲みながら話をしたい。

ただ、平穏無事に生きたいのに生きづらさを感じている人がいれば、自分の見解を少しばかり参考にしてもらえば嬉しい。

では、また。

大切にする人の序列

独白するだけのゴリラになりたい。あと平穏に生きたい。

結婚式の打ち合わせに行ってきたので、愛について改めて思うことを整理してみる。

自分は妻が大好きだ。天の川銀河で一番愛している。だが、妻よりも大切にしている人間がいる。

自分自身である。

誰かを愛するということは、その人を1番大切にすることではなく、1番と2番の間にその人が入ることだと思う。

どれだけ利他的であろうと、自己犠牲をしようと、人間は自身以上に他人を大切にすることはできない。

なぜなら我々には主体的な意識があり、客観的に見て自己犠牲を払うひとでさえ、主観的に見れば「自己犠牲を払わないことが、自己犠牲を払うことよりも耐え難い」がためにそうするのである。

例えば親友の命を救うために自らの心臓を臓器移植してもよいという人間がいたとする。

当然心臓を移植すれば彼は死ぬだろう。彼は自分よりも親友の命を優先した素晴らしい人格者だ。

命において、彼は親友の方が自分より価値があると思ったかもしれないが、彼個人の中で天秤にかけられていたのは、彼の命と親友の命ではない。

彼の天秤が量っていたのは、心臓移植しないことによる損益と、心臓移植することによる損益である。

仮に心臓移植をせず、親友を喪ったとする。

助けることのできた親友の存在は彼の頭の片隅から消えることはなく、他人からは親友を見捨てた男とレッテルを張られるかもしれない。

それを思うと彼は罪悪感を抱えたまま生きることよりも、意味のある死を選び、誉れ高い存在となる方がよっぽど楽な生き方だと思った(のかもしれない)。

だから彼は、親友の命を優先したが、同時に自分の存在を死よりも大切にしたのだ。

この考え方は、マーク・トゥウェインの「人間とは何か」という本を読んでもらえばより深く納得してもらえるだろう。

自分が言いたいことは、人間は誰しも利己的である、ということではない。

ひとは自らを最も大切に扱うが、愛は限定的にその序列に他者を組み込ませるということを声を大にして言いたい。

大切にするひとの順位不動の1位は自分。これは揺るぎないものとして理解していただきたい。

では愛する人間は2位かと言うとそれも違う。

愛とはある種の同一化である。誰かを愛することにより、愛の対象を自分事のように扱うことができる。

しかし、相手を丸ごと自分のように扱うことはできないので、愛する主体がある以上、愛の対象が1位になることはできない。

だが愛によって相手を部分的に自己と同一化できるのだから、その「部分」は「自己」である。

このため愛の対象は2位を越えて1位に食い込み、1位と2位の間、つまり、1.999~以下位になる。

これが1.001位でもいいし、1.999位でもいい。

他者を部分的に自己と同列に扱うことが出来たとしたら、それは紛れもなく愛であると自分は考える。

嫌悪する自分と嫌悪される自分

独白するだけのゴリラになりたい。あと交尾したい。

先日妻が会社で色々あったらしく、自己嫌悪していると発言した。

自己嫌悪なる言葉を知ってはいたが、本当に自己嫌悪している人間を初めて間近で目撃したことが衝撃だった。

自己嫌悪とはあまりに無縁の人生だったので、自己嫌悪の正体について考えてみたのだが、自己嫌悪したことがない人間が自己嫌悪について考察するには材料が足らなすぎる。

偶然にも、最近妻の友人に勧められた岸田秀の「ものぐさ精神分析」という本に自己嫌悪についての記述があったので、まずはこれを参考にしてみる。

嫌悪とは当然、嫌う側と嫌われる側の両者が存在する。自己嫌悪において、嫌う側も嫌われる側も同一人物である。

まずこの点が、他人に対する嫌悪とは一線を画す。

そして嫌悪される側の自己は常に現実に行った実際の行動であり、嫌悪する自己は現実的基盤を持たない幻想の自己である。

嫌悪は、嫌悪の対象の排除あるいは消滅に方向に作用する力なのに、自己嫌悪においてはその力が作用していないと岸田秀は言う。

異議あり!

そもそも嫌悪に、対象の排除、もしくは消滅をもたらす力があるとは思わない。

自分はそれなりに好き嫌いがはっきりした性格であるし、嫌いな奴をぶっ飛ばしてやろうと思うことは多々あるが、だからと言って実際にぶっ飛ばすことはない。

嫌いだと念じることで、嫌悪の対象を排除はできないし、もしそれが出来たとしたらこの世に人間はいなくなる。

この意味で、自己嫌悪も他者嫌悪も全く異なる「嫌悪」とは言えない。

しかし、ものぐさ精神分析を読み進めていくと上述の私見に対してのコメントにぶつかる。

「自己嫌悪がある程度、苦痛なことはたしかである。しかし、他社を嫌悪するような具合に自己を嫌悪することは決してできない」

一理ある。

嫌悪する主体もまた自己である以上、自己を100%嫌悪することはできていないはずだ。

つまり、嫌悪する主体と嫌悪される対象として自己を分けている時点で、嫌いな自己から自分を切り離してものを考えている。

嫌悪される対象の自己はたしかに100%嫌悪されているのかもしれないが、あくまでも自己の全体の中での一部だ。嫌悪される対象としての自己は、自己の嫌いな部分の凝縮であり、それは自己の全体ではない。

ところが他者嫌悪は、時に100%全力でお前のすべてを否定する時があるのだ。少数派かもしれないが。

岸田はこの章の半ばで自己嫌悪は、嫌悪された行為の再発を阻止するどころか、促進するとか、

自己嫌悪は、その社会的承認と自尊心が「架空の自分」にもとづいている者にのみ起こる現象であるなどと過激なことを述べるのだが、彼もまた自己嫌悪をよくする人間らしく、あくまで個人の自己嫌悪に関する考察を述べただけに過ぎない。

むしろそれだけ自己を嫌悪しているという表れなのだろう。というか、仮に彼の言い分が正しいとすれば盛大にうちの妻をディスることになるので自分は岸田のすべてを否定しなければいけない。

自分の知り合いに自己嫌悪の話をしたところ、その正体は長い反省であると答えをもらった。

反省は自分の失敗を受け入れ、その失敗への対策をする一連の過程のことを言うが、自己嫌悪は失敗を受け入れる際に、自分の失敗を悔いる時間が長いだけ。

これもまた一理あるが、共感はできなかった。

反省という行為そのものが自分の失敗を悔いるもので、自己嫌悪は自分の失敗を悔いるというところから副次的に発生する何か別のもののような気がする。

自己嫌悪が自己を二分化することには同意する。思うに、自己が二分化しやすい人間が自己嫌悪をするのではないだろうか。

失敗を悔いる際に、自己が二分化されて自己嫌悪を始めるというメカニズムなのであれば、納得しやすい。

となると考えるべきは自己が二分化しやすいというのはどういう人物で、何が引き金となるのか。

自己の二分化は悪霊に憑依されることに近い。本来の自分ならしないような言動をしてしまい、そのことをなすすべなく見守るしかない自分が悔いるからだ。

だが、この例えは決定的に間違っている。なぜなら自己嫌悪するような言動をしたのは紛れもなく現実の自分であり、この場合、悪霊とは自分に他ならないからだ。

では、悪霊に憑りつかれたと本人が思い込んでいる自分、なすすべなく見守っていた自分とは誰なのか。

岸田は彼ないし彼女を「架空の自分」と表現したが、これは言葉として強すぎる。

正確に表現するとすれば、「自分ではこれこそが自分という人間であると思い込んでいる自己」とでも言えばいいだろうか。

岸田の言うところの架空の自分、と現実の自分の乖離が大きいほど、二分化を起こしやすい。

二分化のトリガーは羞恥心だ。

基本的にトリガーを引く直前まで人は二分化されていない。

自分の欲望を満足させるはずだった言動が、望んだ結果を得ることができなかった時に羞恥心が起きる。

そして、恥ずかしい行いをした自分を切り離すことによってある種の責任転嫁をするのだ。

さて、妻の自己嫌悪をなるべくネガティブに解釈しないように努めてみたが、うまくいかなかった…。

これ以上考察を深めても自己嫌悪に関するポジティブな見解は得られそうにないので、ここらでこの話はやめておくことにする。

青野君に触りたいから死にたいというマンガを読んだ

独白するだけのゴリラになりたい。あと自己嫌悪をしたくない。

青野君に触りたいから死にたいという死ぬほどメンヘラタイトルのマンガを読んだ。

会社を仮病でさぼって全巻大人買いして読んだ。

何度か1巻無料公開となっている度に読んでいたマンガなのだが、何度も読むたびにじわじわと続きが気になって今回ついに全巻購入したという次第である。

自分はマンガが好きで、ジャンルを問わず様々な作品を読むが(おそらくかなり多くの人もそうだと思うが)、読後しばらくしてからじわじわと続きが気になるマンガに出会ったのは初めてのことだ。

簡単にストーリーを紹介する。

まずタイトルに出てきた青野君だが、登場から13ページで死ぬ。しかも彼女が出来てまだ2週間しか経っていないのに交通事故で死ぬ。

これでタイトルの意味がわかってもらえたと思う。

青野君は死んでいるから触れない。だけど触りたい。彼に触るには自分も彼と同じ世界に行くしかない。だから死にたい。

青野君に触りたいから死にたい。

ではこの場合死にたいのは誰か?青野君に触りたいのは誰か?

青野君が死ぬ2週間前にできた彼女の優里ちゃんだ。

この優里ちゃん、学校で青野君の訃報を聞いたその日のうちにリストカットを試みる。

その瞬間に、幽霊になった青野君が優里ちゃんの自殺を止めに現れる。一瞬だけ自殺を思いとどまる優里ちゃんだが、幽霊の青野君に触れないことがわかると迷わず自死を選ぶメンヘラっぷり。

結局優里ちゃんは幽霊となった青野君と生きたまま付き合うことを選ぶ…という、ここまで聞くと相思相愛のふたりが触れることを許されぬ悲哀の物語っぽい。

「ぽい」というのは、そうではないということである。

ふとしたきっかけで優里ちゃんが青野君に憑依できるか私で試してみる?ときいた瞬間、青野君は別人のように豹変し優里ちゃんの体を乗っ取てしまう。

このあとも度々青野君は優里ちゃんの体を乗っ取るのだが、肉体の所有権を奪おうとする青野君の豹変ぶり、というか別人格の青野君がとにかく怖い。

自分が悪霊のようになってしまうことに戸惑う青野君に対し、青野君のそばにいられさえいればどうなってもいいと決心する優里ちゃん。

ホラーラブロマンスとでも呼べばいいのか、とにかく新しいジャンルである。

このマンガのホラーとしての良さは、青野君が悪霊になる時など、日常からホラーへと変わる時のルールが作者の中で明確に決まっていることだ。

怖さというのは存外簡単に演出できる。

理不尽さと不気味さをかけあわせればいい。

理不尽さも不気味さも我々の知覚する世界のルールから外れているため恐怖を感じさせるのだが、一方でルールから外れているがゆえに作品全体として俯瞰したときに稚拙な造りに見える。

いわゆるご都合主義に見えやすいのだ。

ところがこの作品では理不尽さも不気味さも現実の世界とは違う軸のルールに従っているため、現実世界の人間から見れば怖いのだが、この恐怖は別世界の規則に従っているので作品内でご都合主義が横柄な態度をとることがない。

もう少し補足すると、ルールがあるのに怖いというのは、異世界のルールを我々が共有しきれていないために、理不尽さと不気味さが消失していないのだ。

つまり、本作品で感じる恐怖は恐怖の残り香とでも言うか、我々とは別の世界から顕現しているという点では従来の恐怖と同じなのだが、規則に従っているためどこか身近な恐怖なのである。

そうは言っても、作りこまれたホラー作品というのは他にもあるので、自分がこの作品に惹かれた理由はこれだけではない。

ホラーのルールが設定するためには、モンスター(この場合は死者)の視点から世界を構築する必要がある。

自分の言語能力不足で説明しきれず大変残念なのだが、死者に優しい物語なのだ。

意味が分からないと思うだろうけど、おそらく作品を読めば自分の言いたいことが伝わるはず…。

そう、青野君に触りたいから死にたいは、優れたルールで構成されたホラーマンガでありながら、その土台は繊細な感情でかためられている。

青野君に触れないことを知って再び手首を切ろうとする優里ちゃんの台詞。

「君に触れないなら死ぬしかないじゃん!」

は、確かにメンヘラ発言なのだが、その一言で断じてしまうのは自らの感性の乏しさを認めるようなものだと思う。

彼女の台詞の中には死者である青野君に対する偏見が一切ない。

梅原猛が「生きている平凡な優越者は、死んでしまった優れた劣等者に嫉妬を感じない」と記した。共感する。

そしておそらく多くの人がそうなのである。

死者を一段下の存在として見ているのだ。

だがこの作品にはそれがない。いや、後にあるのだが、死者を下に見てしまうことを悔いる様子がしっかりと描写されているので、作者はこの辺りを意識しているのだと思われる。

繊細なのだ。言葉にはできないような微妙な感情が繊細に、それでいて読者に伝わるように描かれている。

以下に優里ちゃんと友人の美桜ちゃんの会話の一部を例として載せる。

「わたし勝手に美桜ちゃんのこと友達だと思ってた…友達の悲しみに気付けなかったことが悲しい。

わたしは青野君の気持ちを無視して、無理やり青野君にわたしの瞳を捧げて青野君の力を利用したの

好きな人の心の隣に座りたいのに、その心を見失って足でうっかり踏み潰すの…」

「…ありがとう優里ちゃん」

「どうして?酷いことしたのに…」

「君がうっかり踏んじゃうような難しい場所にあたしの心があったことを怒らないでくれて」

胸が締め付けられるような優しさだとは思わないだろうか?

この繊細な感情、心が揺れているのに言葉にするほどはっきりと揺れてくれない微妙な感情が作品内の随所で作者によって見える形に変換される。

そしてそのどれもが暗い感情ではなく、淡い光のような優しさに起因したものなのだ。

ホラー要素が第一の武器ではないから、1冊読み終えた後にドキドキハラハラしてすぐに続きを読みたいとは思わせるような作品ではないが、作者のメインウェポンである感情の描写によって、ずっと心にひっかかる作品であるからじわじわと続きが気になるのだろう。

ちなみに主人公の優里ちゃんが結構なむっつりスケベで、青野君との性的なシーンもある。

ただし青野君は幽霊なので彼女に触れることはできない。

それこそが、青野君がどんどん悪い何かになってしまうのに優里ちゃんが何度も彼に肉体を受け渡す理由なのかと邪推している。

決して触れ合うことができないから、一体化を望むのではないか。そして、作者は一体化をホラーで描写する…

触れ合うことを望むふたりに対し、一体化を禁忌として描く作者。

物語の結末はどうなるのだろうか…

適当な居酒屋に行くぐらいなら高いランチに行きませんか?

独白するだけのゴリラになりたい。あと良質なホラーマンガ読みたい。

去年久しぶりに会う友人とご飯と食べに行くことになったのだが、予算5千円以内の店がいいと言われたので、では男三人でちょっと敷居の高いお店のランチでもいかがかと提案してみた。

結果、洒落た店に男性器をひっさげた生き物だけで行くわけにはいかない、というよくわからない返答をもらったため、安い居酒屋を探すことになった。

しかし学生ではないのだ。久しぶりに会う友人と汚い居酒屋で肩を寄せ合いお通しのキャベツをミドリガメの如く反芻するのは御免こうむりたい。

出会う場所の空気というのは、同席する人間との会話の内容にも少なからず影響を与えると思う。

古い友人と会うというのは、人それぞれの目的があるだろう。特に、過去を懐かしみたいというのであれば、それこそ学生時代に始発までの時間を稼がせてもらった居酒屋などでもいいのかもしれない。

だが考えてほしい。社会人同士がスケジュールを合わせて会うということの難しさを。

限りのある時間をアルバムの朗読だけに使うのはもったいないと思うことはないだろうか?

例えばあなたが恋人と1年以上良好な関係を保つことができたとして、デートプランのバラエティーのなさに焦りを感じたことはないだろうか?

このふたつの質問の意味することは、仲の良い相手と長く関係を続けたいのであれば、たまには普段行かないような店に行き、普段しないようなことをしようということである。

そうすることで、知人友人の普段見たことのない顔が見えるかもしれないし、自分の新しい顔に気付くことだってある。

高いランチをおすすめする理由を端的に挙げるとすれば、充足感が段違いだからということに尽きる。

適当に入った安そうな居酒屋で使う5千円と、一週間前から調べて予約したランチの5千円ではその有難みはまったく違うことを実感してもらえると思う。

その上、ランチだから食べ終わった後でもまだまだ時間はあるのだ。例えばランチの時間に友人からおすすめされた映画や本などを午後の時間に見ることができる。

それでも5千円のランチが高いという人は、5千円の居酒屋で飲んだ後に別の店にはしごする費用を計算してみてほしい。

ランチの場合ははしごということはなく、せいぜいカフェで珈琲一杯を飲むくらいだろう。

中には夜しかできない話があるという人もいるだろうが、久しぶりに会うというのに夜しかできない話が主題という関係はちょっとどうかと思う。

あくまで自分の感性から言わせてもらえばの話だが。

ところで、冒頭に出てきた男性器をひっさげているという理由から高いランチを拒否した友人とどこに行ったかという話になるが、コの字カウンターの焼き鳥屋に行った。

高い店というわけではなかったが、友人ふたりがガブガブと高い日本酒を飲んでくれたため、ひとり1万円以上払うことになった。

ちなみに自分は酒が弱いのでほとんど飲まなかった。

次は絶対にランチに行って、会計は別々にしようと思う。その時はやつの男性器を切り落としてやろう。

アウトプットとインプットの精度について

独白するだけのゴリラになりたい。あと美味しいもの食べたい。

アウトプットの機会をとにかく増やさねば!と切実に思ったのは去年の暮くらいからである。

自分はテーマを決めて本を読む趣味があり、通年100冊程本を読むのだが、つい最近これまで読んだ本の要約を試したところ、ひどく稚拙なものが出来たことに驚いた。

アウトプットの出来が悪いということはインプットの出来も悪いということだ。口惜しいことではあるが…

なんとかしなければいけないと思うのと同時に行動を起こさないと一生なにもしないのが自分という人間である。

するべきことは何か。アウトプットの機会を増やしてインプットの精度も同時に上げてしまえばいい。

ということで早速友人数人に声をかけて仲間内でプレゼン大会を開くことにした。

その矢先に、仲間の一人の海外駐在が決まり数年帰ってこなくなるというので早くもプレゼン大会の継続が危ぶまれることになった。

アウトプットをする場所をひとつに絞るのは危険だなぁ、と思い知らされたのでとりあえずブログをふたつ目のアウトプットの場所として始めてみた次第である。

とりあえずは読んだ本の内容や、日々の出来事をこのブログに綴ってみる所存ではある。

ちなみに第三のアウトプットとしては何か商品でも作ってみようかと思っている。今ある構想としては全く新しい傘を作ろうとしているが、これが中々難しい。

傘というのはおそらく人類が初期の段階に思いついた古典的な道具のはずなのだが、そのスタイリッシュ化のピークは平安時代あたりで止まっている。

折り畳み傘などは一瞬傘界にイノベーションを起こすかと期待されたが、傘を開くまでの工程が多くスタイリッシュとは正反対の方向に進化した傘の亜種である。

数年前にクラウドファンディングでAir umbrellaなる風圧で雨を吹き飛ばすスティック状の傘を中国の会社が発明しようとしていたが結局うまくいかなかったらしい。

頓挫した理由は色々あるだろうが、傘という毎日使わないものを電動式にするのは如何なものか。

充電をするのをつい忘れてしまい、出先で使おうとしたときに電池切れを起こしてしまえばただの棒になる。

文字通り無用の長物だ。

そもそも毎日使わないものをスタイリッシュ化させた結果、工程が増えてしまえば人を遠ざけることになるのは自明の理ではないか。

傘の電動式を諦め、難しい仕組みを考えることをやめれば、きっと単純なアイデアひとつで傘界にイノベーションを起こすことができるだろう。

しかも特許とれば一儲けできそうだし。

ここまで書くと簡単そうな気がするのだが、いざ真剣に考えてみると我々の良く知る傘がベストソリューションだとわかるはずだ。

つまり従来の傘を全く新しいものにするというのも勝負する場所を間違えている。

ではどうするか。

実はすでにこれはきたかもしれない!というアイデアはあるのだが、まだディティールが詰め切れていない。

面白いアイデアを思い付いたという人がいれば是非一緒に商品開発をしたいのでコンタクトして欲しい。

いつの間にか傘の話が半分ぐらいになってしまったので、このあたりで終わりにする。

今後は週に一度くらいのペースで記事を書く意思はあるが、どうかな。飽きっぽいから途中で飽きるかもしれない。

では、また。