スリランカの山頂で祈るヒンドゥー教徒を見た。
手を合わせて、じっと動かず、ひたすら真摯に朝日に向かって祈りを捧げる。
その静けさに植物のようなちからを感じた。
高校時代の同級生の体験談だ。彼女は大学を卒業して5年経つ今も世界を放浪している。
祈りの空間を満たす静けさ生命力
彼女の独特な見解によれば、祈るひとと植物は似ている
ひとが祈りを捧げているとき、その空間は静謐と生命力に埋め尽くされる。
手を合わせ、目と口を閉じ、微動だにせずただ力強く祈る。
祈りを捧げるひとびとからはいつも生命力が溢れている。
ひとの祈りを見て初めて驚愕したのはエジプトだった。
巨大なモスクのなかでひとびとが同じ方向にむかって祈りを捧げる。しかも毎日だ。
なぜ祈るのか、と当時大学生だった俺は不躾にも彼らに質問を投げかけた。
「神様とお話するためだ。祈るとき、心が穏やかになる」
心が穏やかになる、そう答えるのはイスラム教徒だけではない。
キリスト教徒もヒンドゥー教徒もシク教徒も、みな一様に同じ答えを返す。
彼らの祈りは、願いとは違う。
あくまでも私的な見解だが、願いが欲望の実現を求めるのに対し、祈りは欲望からの解放だ。
神に祈るとき、彼らは我執から解き放たれる。
雑念は消え、神との距離が近くなる。
祈る彼らの体からは圧倒的な生命力が満ち溢れている。
祈りの始点は無私であることだ。
この意味で、瞑想もまた祈りと似ている。
我執から解き放たれ、ただ静かにそこに存在するという点が日の光を浴びて呼吸を始める植物の姿と重なるのだろう。
おもしろい見解だ。