美しさを理解するために知性は役に立つか

美しいとはどういうことか

なにかを美しいと思った経験がこれまで何回あっただろう。

冬の田舎道をひとり自転車で走り見上げた夜空、夏目漱石の ”こころ” 、クリムトの絵画、あるいは北川景子の横顔。

クリムト「接吻」

いずれも、その美しさを言語化するのが難しい。
美しいものを見たときになぜそれを美しいと感じたのか、美しいと感じる要素はなにであるか、ということを突き詰めて考えてみたことがある。

美しさとはわかりやすいことである
美しさとは足し引きを嫌う
美しさとは体験の中にのみ存在する

以上が、自分の考える美しさの定義だ。
とは言え、素人の意見ひとつだけでは独断と偏見が過ぎるので、プロフェッショナルの意見も参考にする。

美を見て死んだ男の審美眼

スペインを拠点に活動していた画家の堀越千秋は著書「美を見て死ね」のなかで、美しさについて以下のように言及している。

美しさは正しさである。
だが正義ではない。
正義の名のもとに人は悪事を働く。
国もそうだ。
しかし美の正しさは神に属する。
人には、利用されない。

堀越千秋「美を見て死ね」

「人には 、 利用されない。」
この読点に堀越の思想が滲み出ているようで最高にイカしていると思う。
そういう意味ではタイトルもいい具合にいかれていて最高だ。
他人のエゴが滲み出る瞬間とはどうしてこうも愛おしいのだろう。

美を見て死ね

「美を見て死ね」には、堀越が推奨する美術品の写真とそれぞれの作品についてのコメントが述べられている。
読み進めてくうちに、堀越の審美眼の一端を自分のものにできたように錯覚する、ある種のドーピングのような効果があるエッセイだ。

美しさについて言及するとき、我々の多くは「真の美しさは抽象的なもののなかにのみ存在する」という哲学的偏見を持っていることに気付く。

堀越は、美を神と結びつけることで美の抽象度をひとの手が届かぬところまであげてしまった。
*読点の位置から読み解くに、堀越は美とひとの関係が実際にどうであったにしろ、切り離して考えていたのだろう……。

イギリスの美術評論家ジョン・ラスキンもまた、知性を介さずに歓びを与えてくれるものをなんであれ美しいと定義している。

ジョン・ラスキン

知性を介さないということはつまり、美は直感的に理解されるものであり、複雑性を持たない抽象的な世界に存在している。

上述した3者(他2名に比べて自分は圧倒的に美に対する知識が浅いが……)の意見をまとめると、美について各々のスタンスはあれど、抽象的なものとして語られていることがわかる。

誰もが、美について語ろうとすると抽象的になってしまう。
そして、このことがわれわれに美しさは抽象的なもののなかにしか存在しないという偏見を持たせる。

この哲学的偏見に異議を唱えるのが本日紹介するロバート・P・クリースの「世界でもっとも美しい10の科学実験」だ。

知性の領分に存在する美

世界でもっとも美しい10の科学実験

科学実験が美しいとはどういうことだろう。

少なくとも小・中・高で勉強した理科の実験のなかで美しいと感じたことは一度もない。
というよりも実験という作業を美しいと感じることができるのは、その領域で当たり前のように呼吸をしてきたいわゆる専門家のような人間だけの特権なのではないか。

タイトルを見た時点でこのように考えてしまったのであれば、あなたは美に対する哲学的偏見に支配されている。

われわれがなにかを美しいと感じるとき、その美しさは直感的に把握されるべきであり、知性は不要だという暗黙の了解がはびこっている。

この暗黙の了解に対し、科学実験は客観と知性の領分からうまれるために、 ”美しい” と表現するには違和感を覚えるかもしれない。

ところがクリースは、科学実験という客観的、且つ、知性的な作業にも美はあると異論を唱える。

哲学的偏見の先にある美の特徴

クリースの主張を理解するために、われわれの中にしつこく根付いている哲学的偏見(美は抽象的なものの中にのみ存在す)を取り払わなくてはいけない。

仮に美の構成要素を理解したとしても、その構成要素から新しい美を創造するのは難しい。
*ピカソの使った道具や、彼の技術、思想を理解していたとしてもオリジナルの美を簡単に創作できるわけではない。

このために、われわれは美を抽象的なものと捉えがちだ。

しかし美についての考察をひとつ先に進めると、ある特徴に気付く。
美は人の内面に特殊な充足感を引き起こす

言い換えると、美しいものは「私が求めていたのはこれだ!」という喜ばしい気づきをもたらす

どれだけ審美眼を鍛えたところで、新しく出会う美がどのようなものであるかは推測できない。

しかし、今まで出会わなかった美を前にしたとき、ひとは自分の求めていた美がどのようなものだったかを知る。

そして、科学実験にもまたこのような特徴が確かにある。

クリースは本書を通して、 ”もしも実験に美があるのなら、それは美にとってなにを意味するか?” という問いに答えを出す。

問いかけの答えは、より古い伝統を持つ美の意味をよみがえらせるのに役立つ。

われわれは哲的偏見に囚われてしまっているため、古い美の意味も忘れている。

古代ギリシャ人は美と芸術作品に特別な結びつきを認めず、模範的なものとの関係において美を捉えた。
*法則、制度、魂、行為など

その結果として彼らは真と美と善に密接に絡み合い、深い根元で結びついていると考えた。

そして、ワインの歴史背景を理解したものだけが、高価なワインの味に感動できるように真と善と結びついた美を味わうために、ひとは知覚を行使しなくてはその意味に気が付けない。

本書では、クリースが独自に選んだ10の科学実験がとりあげられているが、科学実験そのものについてはウィキペディアを参照にしても得られる知識だ。

この本の真の価値は、ひとつひとつの実験の説明後にはいるクリースのコラムに発揮される

実験内容の説明によって科学への理解を深め、コラムで美に対する偏見を丁寧に剥がされる。
この繰り返しによる知覚の行使が心地よい。

知識が増えるということは、真に自分が求める美に対して敏感になるということでもある。

では、また。