植物と祈りの類似性

 スリランカの山頂で祈るヒンドゥー教徒を見た。

手を合わせて、じっと動かず、ひたすら真摯に朝日に向かって祈りを捧げる。

その静けさに植物のようなちからを感じた。

同級生の撮った写真@スリー・パーダ

高校時代の同級生の体験談だ。彼女は大学を卒業して5年経つ今も世界を放浪している。

スリー・パーダの麓

祈りの空間を満たす静けさ生命力

 彼女の独特な見解によれば、祈るひとと植物は似ている

ひとが祈りを捧げているとき、その空間は静謐と生命力に埋め尽くされる。

手を合わせ、目と口を閉じ、微動だにせずただ力強く祈る。

祈りを捧げるひとびとからはいつも生命力が溢れている。

 ひとの祈りを見て初めて驚愕したのはエジプトだった。

巨大なモスクのなかでひとびとが同じ方向にむかって祈りを捧げる。しかも毎日だ。

なぜ祈るのか、と当時大学生だった俺は不躾にも彼らに質問を投げかけた。

「神様とお話するためだ。祈るとき、心が穏やかになる」

心が穏やかになる、そう答えるのはイスラム教徒だけではない。

キリスト教徒もヒンドゥー教徒もシク教徒も、みな一様に同じ答えを返す。

彼らの祈りは、願いとは違う。

あくまでも私的な見解だが、願いが欲望の実現を求めるのに対し、祈りは欲望からの解放だ。

神に祈るとき、彼らは我執から解き放たれる。

雑念は消え、神との距離が近くなる。

祈る彼らの体からは圧倒的な生命力が満ち溢れている。

祈りの始点は無私であることだ。

この意味で、瞑想もまた祈りと似ている。

我執から解き放たれ、ただ静かにそこに存在するという点が日の光を浴びて呼吸を始める植物の姿と重なるのだろう。

おもしろい見解だ。

挫折した過去との向き合い方

 先日、オンラインで初めてビブリオバトルをした。めちゃくちゃ楽しかった。

参加者がなぜその本を選んだのか、選んだ本からなにを得たのかという話し合いを通して、彼らの人となりを知れたことが純粋に嬉しかった。

 俺の紹介した本はアポストロス・ドキアディス著「ペトロス伯父とゴールドバッハの予想」である。

ペトロス伯父とゴールドバッハの予想

 内容は数学者のドキュメンタリーだ。

数学と聞くと、アレルギー反応を示すひとが多い実感がある。

かく言う俺も大学入試で数学を使わなかったし、当然大学で数学を専門的に勉強したこともない。

 文系科目に進んだ多くのひとがそうであるように、この先の生涯で数学を学び直す可能性はほとんどない。

ほとんどないからこそ、一生踏み込むことのない世界に触れてみたかった。
それがこの本を買った理由だ。

実際に「ペトロス伯父とゴールドバッハの予想」を読み終えたとき、数学に対する知的好奇心は大いに刺激された。当初の目的は無事果たされた。

だが、ビブリオバトルでこの本を選んだのには、数学への知的好奇心を満たす以上のものがあったからだ。

本書は、例えるならドキュメンタリー映画を観たような読後感を味わえる。

「作品を通して何か大きなものに触れてしまった、でもそれがなんなのかはすぐにはわからない……」というあの感じだ。

俺の場合、この本を読んで触れた何かというのは、「失敗した過去とどう向き合っていくのか」という問いかけだった。

 なぜ数学者のドキュメンタリーが「失敗した過去との向き合い方」に繋がるのか、それは「落伍者」と呼ばれたペトロス伯父の生き方そのものだからである。

天才数学者の挫折

物語は次のように始まる。

「どの家庭にも黒い羊はいるものだ。うちの家族ではペトロス伯父さんがそれに当たる」

主人公の家族は、親戚であるペトロスのことを「落伍者」と呼んで侮蔑している。

ところが、幼い主人公から見たペトロスは決して「落伍者」には見えない。

年に一度の親戚の集まりで見かけるペトロスは内向的で控え目ではあるが、立ち振る舞いからは気品を感じ、青い瞳の奥に知性が伺える。

むしろ、大酒のみで愛煙家の不作法な父よりもよほど好ましい人物に見える。

 ひょんなことから、ペトロスの正体が元数学教授だということが後にわかる。

そんなペトロスがなぜ「落伍者」と侮蔑されるのか?

ペトロスの弟曰く、「あいつは、神から与えられた数学の才能を浪費し、数学で意味のある仕事をなにひとつしなかった!」という。

ペトロスの才能を浪費させた数学の問題こそが、タイトルにもある「ゴールドバッハの予想」である。その命題はシンプルだ。

全ての 3 よりも大きな偶数は2つの素数の和として表すことができる 。

ゴールドバッハの予想

 彼はゴールドバッハの予想の証明に人生を費やし、そして結局は証明できなかった。数学において、なにひとつとして功績を残せなかった。

それが、「落伍者」と呼ばれる所以である。

ところが。ところがである。

才能と時間を投げうっても証明ができなかった事実に対して、ペトロスの放つ言葉の力強さが尋常ではない。

「証明に時間を費やす途中で、わたしの疑念は動かぬものとなった。
ゴールドバッハの予想は証明不可能なのだ!わたしの直感がそう言っている!」

数学の証明問題に対して直感で答えを出そうとするペトロスに主人公が反論しようとするのを遮り、

当時の私は、本物の、完成した知の巨人だった。だから、君の直感で私の直感を判断するな、最愛の甥よ

間違いと少しマシな間違い

彼の言葉に正直痺れた。

天から与えられた数学の才能と頭脳、そして人生のほとんどの時間を費やしても達成できなかったという敗北に対し、この誇り高さは一体なんなのか……。

まさに「失敗した過去とどう向き合っていくか」というテーマが顕在化している。

ペトロスだけの話ではない。俺たちは。成し遂げることのできなかった目標と、どうやって付き合っていくのがいいのだろうか。

 学生時代、身ひとつで世界を放浪した。自分ひとりのちからで生きていけることを証明したかったからだ。

生憎と、途中でやはり人はひとりでは生きていけないってことに気付いた。

ひとりでも生きられるという傲慢さ自体は間違っていたけれど、ひとりで生きることを目指した自分は間違っていたのか?

あの頃の自分を肯定することもできないけど、否定することもできない。

挫折した過去については、誰もが同じような心境を抱くのではないだろうか?

 個人的な挫折体験から気付いたことがある。
それは、世の中に正解があるという仮定そのものが少し違うのではないかということだ。

おそらくだけど、間違いか、少しマシな間違いだけがあるんじゃないかな、と思う。

でもペトロスにとって、ゴールドバッハの予想を証明しようとしたことは紛れもない正解だったに違いない。

なぜなら数学の証明をすることは、正解にたどりつくことだから。

だから、ペトロスは成し遂げることのできなかった目標に対してあんなに強い言葉を言えたのだろう。

「当時の私は完成された本物の知の巨人だった」

しかし、本書はここで終わらない。この物語は3部構成になっておて、第2部のしめくくりがペトロスの例の言葉だ。

そして、続く第3章でこの言葉の裏にある衝撃の事実が発覚する。

この3章まで読んだうえで、挫折した自分ともう一度向き合ってほしい。

お前は失敗した過去とどう向き合うのか?」という問いに対して、答えはすぐに見つからないけど、人生をより味わい深くしてくれる良質な問いを手に入れることができる。

ひとは友人を失い続ける

 俺は、多分ものすごく傲慢な人間なんだと思う。

散々他人に自分のことを知って欲しいと思って20代前半で一方的に広長舌をふるまったくせに、20代後半にはいって今度は他人に広長舌を強要している。

他人のことが知りたい。あなたのことが知りたい。

旧知の友人と親交を深めたいし、新しい友人も欲しい。

 俺は、いや多分俺だけじゃないけど、他人を既知のカテゴリに振り分けて勝手に理解した気になっていた。

これまで出会ったひとの特徴を抽象化して、こういうふるまいをするひとはAタイプ。ああいうふるまいをするひとはBタイプ、といった具合に。

でも、それって結局は相手のことを知る努力を怠っているだけなんじゃないだろうか?

俺たちはいつも目の前の相手を見ているようで、抽象化した過去の誰かを見ているような気がする。

過去の誰かを見ることの厄介な点は、過去から今における成長を考慮しないことだ。

 小学校の同級生だったガキ大将が、20年近く経った今でも同じ性格をしているはずがないのに、みんなが彼にガキ大将の面影を幻視する。

俺は、ガキ大将じゃなくなった今の彼のことを知りたい。
よく知っていると思い込んでいる地元の仲間が今考えていることを知りたい。

毎年恒例の年末年始の地元の集まりを、「時間の無駄だと」切り捨てるのはもうやめたい。

青春を分かち合った仲間との破綻

 自慢をさせてほしい。俺は片田舎の無名のサッカー部に所属していたのだが、俺の代の弱小サッカー部が県大会を制覇したことがある。

俺の代の部員数は12人で、ひとつ下の代を含めて20人ほどしかいなかった。

実のところ、サッカーは数あるスポーツのなかでも競技人口が世界で2番目に多い。

俺が学生だった当時の県大会に参加していた学校が400校近くあり、簡単な計算をすれば400×11(プレイヤー数)、さらに学校は3学年あるのでここに×3をすると13200人以上がしのぎを削っていた計算になる。

俺たちは、13200人の頂点に立つ11人だった。

さらに付け加えると、県大会には私立の無茶苦茶強いサッカー部があって、こいつらは県大会を7連覇だか、8連覇の最中だった。

このエリート連中を下して県大会を制覇したのが片田舎の公立サッカー部だった俺たちだ。

ドラマのような青春だった。最高の仲間たちが揃って、一丸となってひとつの夢を叶えようと努力した。

かつての仲間たちは、今でも最高の仲間たちだ……とはならなかった。

 つい最近LINEのトーク履歴を遡ったとき、この1年間で個人的に連絡をとったサッカー部員がひとりしかいなかったことに愕然とした。

後輩をふくめると2人になるのだが、そいつは俺の実の弟なのでさすがカウントできない……。 

3年間ともに汗を流し、最終的に10000人以上の頂点に立った11人の仲間が、仲間じゃなくなっていた。

絶望した。涙も出なかった。取り返しのつかないことをしでかしてしまったと思った。

……でも、これは俺だけの話ではないと思う。

学生の頃はめちゃくちゃ仲良くて、部活や学際なんかで心をひとつにした仲間、当時はこいつらがいれば無敵だとすら思ったその友人たちは今でも同じ距離にいますか?

社会人になってから、かつての最高の仲間たちと何回会いましたか?

彼らは今でも最高の仲間ですか?

ひとは友人を失い続ける

 2016年にイギリスの心理学会が1万5千人からとったアンケートをもとに発表した研究によると、親しい友達を持ち、社会的に親密なつながりがある人ほど幸福度が高いだけでなく、より健康的であるということがわかっている。

友人というのは精神面だけでなく身体面でも非常に大切な存在であることがこの研究からわかる。

ところが、内閣府の調査やいくつかの研究データを調べたところ、どの研究データも学生時代に比べて社会人は友達が減るということを示している。

 ニューヨーク大学のアイリーン・レバイン教授は、われわれが友人を失い続ける理由について、「人はそれぞれの方向で成長していく。成長に従って、他人との共通点が少なることが原因だ」と説明している。

正しいと思う。

会社に所属し、同僚を友人と呼ぶのは幼稚な考えだが、突き詰めていく先で友情のようなものが生まれるのは事実だ。

だが、それとかつて親しくしていた友人が減っていくことを許容するのは別だ!

俺は、仲間が仲間でなくなることを「仕方がない」と諦めたくはない。

年に一度の集まりで、1年前と同じ内容の話をするつもりは毛頭ないが、彼らとの交友を積極的に切り捨てるのは嫌だ。

いや、確かに、一時期は切り捨てようとしていたのも事実だ。

だが、それは壊れたレコードテープのように、同じ話をすることが時間の無駄だと判断しただけで、彼らと築き上げた関係を切り捨てたつもりはまったくない。

 学生時代に築いた友情がどれ程貴重なのかを示す研究がある。 

この研究によると、他人に対して親密度を高めるには50時間以上の時間を共有する必要があり、親友となるためにはさらに150時間以上の時間が必要だということが判明している。

言うまでもなく、日々仕事に追われる多忙なわれわれが新しい知り合いと150時間を共有することは難しい。

つまり、学生時代に意図せずして築き上げた関係は非常に貴重だと言いたい。

友人を失わないために

 日本人に「あなたの仲の良い友人はなんにんいますか?}と問えば、平均的に8人だという答えが返ってくる。

この場合の「仲の良い友人」の定義はひとそれぞれだが、8人というのは少ない気がする。

生物学的な観点から言うと、霊長類は最大で150人までの団体であれば全体がコミュニケーションをとってうまく生活することができる

有名なダンパー数というやつだ。

つまり、新しい友人を作るために旧知の仲をわざわざ切らなくても、むしろ旧知の友人も含めて、実感よりもはるかに多い数の人間とコミュニケーションをとり続けることができる。

だから俺は友人の輪を強化したい。

関係の持続ではない、強化である。

ウォルト・ディズニーの格言の通り、現状維持は退歩と同義だ。環境が刻一刻と変化していくなかで、これまでと変わらない関係を続けていくことは難しい。

積極的に友好関係を強化することによって、関係の強化が必要だと断言する。

そのために必要なのは、能動的な自己開示だと思う。

自分がどういう人間で、日々なにを思っているのかを開けっ広げに伝えることで、返報性の法則に従って相手も自己開示をしてくれるようになる。

いつもと同じ居酒屋で、いつもと同じ話をすることは楽しいけど、関係を強化するには足りない。

 実を言えば、俺はサッカー部のメンバーの好きな食べ物や趣味についてひとつも知らない。

当然、彼らがどんな考えで今キャリアを積んでいるかも知らない。

俺が質問しなかったし、彼らも俺の前でそういうことを話す機会がなかったからだと思っている。

でも、彼らの内面をもっと深く知ろうとしていれば、LINEのトーク履歴は今と違っていたはずだ。

各々の内面をより深く知る事によって、その人間のもつ信念や哲学を面白いと思えたら、そういう人とは長く友人関係を続けたくなる。

 だから俺はひとに自らの信念や哲学を語ってほしいし、そういう場を作りたい。

今、仲間内でオンラインプレゼン大会や読書会、ビブリオバトルなどを実践している。

興味があるひとには遠慮なく連絡をして欲しいし、旧知の仲でないひととも繋がりたい。

 エリック・G・ウィルソンは世界と豊かに繋がりたい欲求のことを憂鬱状態であると定義した

彼の見解に従えば、俺はきっと憂鬱なのだろう。

願わくば、同じく憂鬱なあなたの話を聞かせてほしい。

セックスにおける対等性と動物性愛のはなし

おもしろい話がある。

異性愛も同性愛も肯定するひとが、両性愛については否定することがあるらしい。

性の多様性が認められつつある現代社会において、なんでもかんでも許容することは正しいのだろうか?

われわれは、今一度セックスについて真剣に考えるべき、そういう時代にいるのではないだろうか?

動物性愛の不道徳性

 濱野ちひろの「聖なるズー」を読んだ。動物とセックスをするひとたちの話だ。

しかし、メインテーマは動物を愛する奇異なひとの実態ではなく、愛とセックスの対等性についてだったように俺は思う。

 動物に性的魅力を感じる趣向のひとのことをズー(ズーファイル)と呼ぶ。

動物とのセックスと聞くと、おそらく多くのひとは不道徳的なものを感じるのではないだろうか。

事実、旧約聖書では動物とセックスをした人間もその相手の動物も死ななければいけないと書かれている。

アメリカの動物権利団体PETAは「動物とのセックスは動物へのレイプである」と激しく動物性愛を糾弾し、欧州では全面的にではないにしろ、動物とのセックスを法律で取り締めている。

なぜ人間同士のセックスは良くて、動物とのセックスは悪いのか。

答えは対等性の欠如だ

つまりズーが内に秘める不道徳性は、人間と動物が対等な存在ではないということに起因する。

動物との対等なセックス

 人間と動物の対等性を妨げるものは言語である。

動物が人間に対して明確なコミュニケーションをとれない以上、ズーとそのパートナーとのセックスに性的同意があったか否かを第三者は判断できない

これこそが動物とのセックスにおける不道徳性の正体だ。

*ただし、「聖なるズー」を読むと、性的同意がないとは言えないのではないかと考えるようになる。

 性的同意を欠いたセックスは、しばし人間同士のセックスでも問題とされる。

実際にスウェーデンでは2018年に明確な性的同意のないセックスはレイプとするという法律が成立している。

常に性的同意を欠いた(ように第三者からは見える)状況にあるズーは、いかにしてこの問題を克服するのか。

 結論として、動物のペニスを挿入される側に人間が立つことによって動物が積極的にセックスを始めたと、彼らは言う。

「聖なるズー」で濱野氏が聞き取り調査を行ったズーは22人(男性19人/女性3人)、そして男性19人中13人がパッシブパートである。

動物との対等性を重視しているズーの多くがパッシブ・パートに立つことは納得がいく。

なぜなら、パッシブパートのひとがセックスにおいて得る喜びは、支配者側の立場から降りることで、パートナーとの対等性を瞬間的に得ることができるからだ。

小児性愛における対等性の欠如

 対等性の欠如という点で、動物性愛はしばし小児性愛と混同視される。

小児性愛の場合はわかりやすく、大人対子どもという構図で対等性が欠如していることがわかる。

つまり、対等性のないセックスという意味において、動物性愛が小児性愛と同類のものであるという考え方は否定できない。

しかし、小児性愛が性的に未成熟な者に対する性的欲望であるとすれば、動物性愛は性的に成熟している相手をパートナーに選ぶ

これは非常に興味深い話だ。

なぜなら、賛否は置いておいて、小児性愛者にも動物性愛者にも「相手から誘ってきたから行為に応じた」と主張する者が数多く存在する。

*「聖なるズー」の登場人物に関して言えば半数以上が誘われたと証言している。

性的に成熟した、例えば犬が、人間に対して発情しているシーンは見たことがあっても、性的に未成熟の子どもが大人に対して能動的にセックスの誘いをかけるとは想像しにくい。

(映画「エスター」で似たようなシーンがあったが、あいつ子どもじゃなかったし)

 濱野氏は、多くのひとがペットを子ども視しているために、動物の性欲をないものとして考えているのではないか、と鋭い指摘をする。

ペットの子ども視、つまりペット(子ども)には性欲がないという思い込みも、動物性愛と小児性愛の混同に一役買っているのかもしれない。

セックスにおける対等性

 ここまで、対等性のないセックスについて触れてきたが、むしろ対等性のあるセックスの方が少ないのではないかと思う。

動物性愛団体ゼータでも、パッシブパートのひとは、アクティブパート(動物にペニスを挿入する)のひとに対して、やや優位性があるように振る舞う。

それはおそらく、同じズーでもパッシブパートと比較して、動物にペニスを挿入するアクティブパートは動物を支配している感が強いからだろう。

現に、「聖なるズー」では、パッシブパートのひとがアクティブパートのひとに対して「厳密な意味で、アクティブパートであることは動物を大切に扱っていないのでは?」という問いを投げかけている描写がある。

残念ながら、この問いに対しての返答はされなかったが。

 アクティブであるかパッシブであるかによって変わる対等性、言語の対等性を欠いたセックス。

このふたつは、人間同士のセックスについても対等性の問題を投げかける。

言葉による性的同意が果たして本当の性的同意になるのか、セックスはアクティブパートのものなのか

ペニスの形状が暴力性を司るのか。
*実に馬鹿げた話だが、鼻で笑う前に一度深く考えてみる必要のありそうな議題だ。

思うに、セックスは対等性のある行いだという前提の強さの反面、対等性を欠いたセックスが多いことを俺たちは知り過ぎているのではないか。

だって、否定するわけではないけれど、「仕方なくしたセックス」を経験したこともあるだろう?

俺たちは生理現象の延長としてのセックスではなく、対等性のあるセックスについて思索すべきなのではないか。

価値観を激しく揺さぶる本に久しぶりに出会えたことを幸いに思う。

旅人の矛盾と呪縛

大野哲也「旅を生きる人びと バックパッカーの人類学」

ひとはなにを求めて旅にでるのか。

旅は、ひとに付加価値をつける。

バックパッカーが想起させるイメージは「個性豊かでタフ」なアイデンティティである、と大野哲也氏は著書のなかで語る。

旅をすることで自分のアイデンティティがグローバル化時代にふさわしいものに刷新されたと実感できることこそが、バックパッキングの大きな特徴だ。

大野哲也「バックパッカーの人類学」

 数年前に世界を放浪している道中で、他の多くのバックパッカーに出会い、寝食をともにした。

俺たちはみな、目をキラキラと輝かせながら旅の出来事を語らい、旅の経験をなにに活かしていくのか夢想した。

多分だけど、日本にいるときよりもみんな楽しくて、自信に満ち溢れていたはずだ。

なぜなら、言葉も文化も異なる土地にうまく適応していく自分のなかに「個性豊かでタフ」なアイデンティティを再発見し、自己評価を高めることに成功していたから。

 誰かが決めたような当たり前の生き方を全うする息苦しさが、ほとんど疑問を抱く間もなく旅への扉を開く。

かつて生活を営んだ勝ち組と負け組の存在する資本主義的社会を拒絶し、俺たちは自由気ままに世界各地を放浪する。

そして、自分が本当に「やりたいこと」を旅のなかに見出す。

美談かもしれない。でも矛盾している

旅人の矛盾

 勝ち組と負け組が暗黙の裡に決められた社会から脱却し、自由に旅をするなかで自分の本当に「やりたいこと」を見つけることのなにが矛盾しているというのか。

それは、従来の価値観を否定しているはずなのに、むしろ固執しているという矛盾だ。

なぜ、矛盾が起きるのか。
大野氏は次のような見解を述べている。

旅人のアイデンティティである「個性豊かでタフ」という自己が、「強い者が勝ち、弱い者が負ける」という資本主義のルールときわめて親和的である。

前述の通り、旅人は旅のなかで「やりたいこと」を見つけていく。

旅そのものがやりたいことだという旅人もいるが、彼らも次の目的地で「やりたいこと」を見つけるなどしているので例外ではない。

俺たちは、他人からの評価などに頓着せずに自分らしさを重視する。

他人から押し付けられた価値観に唾を吐き、自分だけが自分の表現者であると鼓舞する。

自分を表現するために、貪欲に「やりたいこと」を探し、自己実現を繰り返す。

必死になって、「やりたいこと」に固執する。

でも、その必死さに、なにか言い訳めいたものを感じたのは果たして俺だけだったのだろうか?

自分らしく生きるという「やりたいこと」への執着は、「仕事はすぐ辞めずに続けるべき」「仕事には没頭するくらい取り組むべき」という従来から望ましいとされてきた価値観がいまだに温存されていることを示している。

大野哲也「バックパッカーの人類学」

 「こうあるべき」という他者評価や価値観からの逃走を試みた。

そして逃走の途中で、逃走しきれなかった自分を見つけたとき、俺は、旅とはなんて切ないものなんだと思い知った。

確固たる目的を持って世界に立ち向かっていたのだと信じていた。でも違った。

戦いですらなく、だたの逃走で、そして逃げ切ることらできないのだと理解した。

だから、他の多くの旅人と同じように、旅の経験を面接でアピールし、かつて逃走を試みた社会秩序へ再参入していく。

夏が近づき、飲み干すことのできなかった馬乳酒の味を思い出すたびに、なんだか情けない気持ちになる。

いかにして役立たずを愛するか

大学時代の友人が本を出した。

自費出版なのだけれど、なのだからこそ、どうして本を出す気になったのか気になった。

思い返すと友人はそこそこ以上に面倒くさい男で、どう面倒くさいのか問われると「世界観が面倒くさい」と、同じく大学時代の女友達に評されていた。

彼女から言わせると俺も彼と同じくらい面倒くさい人物として挙げられていたのでショックだった。

友人は本を愛していた。本を読むひとも愛していたのではないかと思う。

俺が本を読んでいると、「それなんの本?」と聞いてくるような男で、実を言うと彼が俺の読んでいる本に興味を持ってくれるのが嬉しかった。

ちなみにそのときはポーランド旅行を終えたばかりだったので、ヒトラーの「我が闘争」を読んでいた。
正直、あまり知られたくなかった。しかもブックオフで100円で買ったやつだから手垢べたべたで読み込まれた様相に見えたに違いない。

とにかく、世界観が面倒くさい友人が自費出版で本を出したので、早速購入して読んだ。面倒くさい世界観全開の本だった。全開というか、全壊という感じだった。

よくもまぁ、些細な日常にこれだけ想いを馳せることができるものだと感心した。

思っていた以上に面倒くさい男だが、愛に溢れた人間なんだなと安易な感想を抱いた。

俺は、大学時代のわずかな期間しか彼を知らなくて、俺が知っていると思い込んでいた彼はものごとに対して好き嫌いが激しく、軽妙なくせに気難しいノッポだった。体長1,8m、主にロマネスコやパプリカを好むが雑食、生息地下北沢、みたいな。

しかし、本を読んでいる途中で、こいつは多分、得手不得手がはっきりしているが、基本的にはすべてが好きにカテゴライズされる面倒くさい男なんだなと思い直した。

ちょっと俺に似ていた。もしかしたら本当に俺は彼と同じくらい面倒くさい男なのかもしれない……。いやだなぁ。

彼の本のなかで特に共感をしたのが「いかにして役立たずを愛するか」というテーマを扱う章だ。

実用的なものとそうでないものを二分化して、そうでないものを切り捨てるような考え方に彼は慨嘆していた。

以下に、引用する。

私たちはしばしば物事を役に立つかどうかで見ている。それは人間に対する視点にしてもそうだ。他者が自分にとって役に立つかどうか。乱暴な言い方だけど、役に立つから、愛せるし、役に立たないなら愛するのは難しい。これは露悪でも優性主義でもなんでもない。


 ただ、これは愛する側の視点に立った話だ。確かに、他者を愛せないことは怖い。しかしながら、他者から愛されないことはもっと怖くないか。


 役に立たないと断じた他者に、そうなるかもしれない自分の姿を見出して、恐れてはいないか。役に立たない誰かを指差して嘲笑するのは、そうだったかもしれない自分を見出しているからではないか。

-省略-

 役に立とうとすることがダメだと言いたいわけではなくて、だから、愛されるために誰かの役に立ったり、愛するために誰かを役に立てたりしていたら、いずれ誰も愛せなくなるし、誰からも愛されなくなるんじゃないかってことが言いたい。

丸橋十二月「眼球で呼吸」

こいつ、本当に愛に溢れてるなぁ。うん、わかるよ。役に立つか立たないかの二元論を擬人化した輩がたまにいるけど、恰好つけてる童貞みたいだよね。

それこそヒトラーみたいだ。
知ってる? あの髭のおっさん、富国強兵するためにまず身体障碍者と知的障碍者を除くとこから始めたんだぜ。すげぇ効率的。狂ってやがる。

俺は、実用的ではない、それなんのために読むの? という本が好きだ。

発酵食品なんて作らないのに8500円もした発酵についてのレシピ本を読むし、クジラの生態についての本も読む。今日はサメの本が届いた。

数学や物理学の歴史について書かれた本を読んで頭が良くなったと勘違いするもの好きだ。

ファッション史も調べるし、たたら製鉄炉の作り方も覚えた。

でも小説は中学卒業以来あまり読んでいない。たまに司馬遼太郎とか池波正太郎を夏休み最終日に宿題をやるように慌ただしく読むことはあるけれど、基本的には小説は読まない。役に立たないから。

カフカの変身もサルトルの嘔吐も、だからなんだ? としか思えなかった。貧相な感性だ。

個人的な見解になるが、多くの小説は問題を解決するものではなく問題を提起するものだ。

俺は本を読む時、かならずなにかしら明確な答えを探して読む。この意味で、小説を読むことは俺にとってあまり有意性がない。

役に立たないから切り捨てるわけではないが、役に立たないものを好んで読もうとはしない。無償の愛は注げない。残念ながら。

それなら、多分、あるいは、どうだろう。私たちにいずれ必要なのは、無償の愛ではなくて、違っていたらごめん、愛着ではないだろうか。できれば双方向の愛着が良い。難儀なことよ。愛着が生まれるには時間がかかるから。愛着って言葉に愛って字が入ってるのは、なんて皮肉だろう。

丸橋十二月「眼球で呼吸」
https://m12gatsu.thebase.in/items/28230655

愛着……。なるほど。

彼の答えがあっているかどうかはこれから検証していくけれど、優しい着眼点だ。

ごめんよ、きみがこんなに優しい考え方の人間だとは知らなかったよ。それを知れただけでも本を買って良かった。

他人への怒り、裏にある嫉妬

関係のない相手に怒るひとの正体

喜怒哀楽の喜びと楽しみの区別難しくね?
その点、怒りってすげーよな、あのひと怒ってるよってすぐにわかる感情だもん。

どういうときに怒るのかによってそのひとの本質がわかるってゴン先生は言っていたけど、正確にはミトおばさんが言っていたらしいけど、いつだってひとが怒るのは自分に関係のあることがらに対してだけだ

他人から侮辱される、お気に入りのスニーカーを踏まれる、自分の親しい人の悪口を言われる。

ところが、一見自分に関係ないことで怒っているひともいる。

電車の中で化粧する女性に憤るひと、不倫をする芸能人を親の仇のごとく中傷するひと、ひどいときは働かない働きアリにまで腹を立てるひとがいる。

どうして自分に関係のないことでもひとは怒りを覚えるのだろうか。

自分が直接被害を受けていないのに他人に対して覚える怒りの正体、それは嫉妬だ。

明記する必要がある。
自分に関係のないことで怒るひとはいない。怒っているとするならば、それは自分に関係あるからだ。

われわれホモ・サピエンスは社会的生物だ。社会的生物には規律が必要である。

ご存知の通り、われわれの社会は常に明記された規律があるわけではない。
そのようなときは、その場において○○してはいけない、△△するべきであるという暗黙の了解がある。

この暗黙の了解に従わなくとも法的に罰されるわけではないが、ついついこの未表記のルールに従ってしまう。

そのすぐ横でこの暗黙の了解を無視するひとがいたとしたら、「え、なんで?信じられない」とか思うんじゃないだろうか。

ほら、文化祭の準備で積極的に手伝わないやつとかいただろ?
みんな結構文句言っていたってあとから聞いたよ。あの時はごめんね。

でも君たちが怒っていたのはさぼっていた俺に対してではなくて、頑張らなくてもいい俺に対する嫉妬だよ。

つまり関係のない他人に怒るのは、自分が守っているルールを破るひとに対する嫉妬からなんだ。

ルールを守るために進化してきたホモ・サピエンス

ルールを守らないひとに対してわれわれは厳しい態度をとる。なぜなら、ルールがなければ集団生活は成立しないからだ。

シロナガスクジラやヒグマとちがって、生きるために群れをなすことを選んだわれわれはそのように進化してきた

「そのように」とはどのようにか、家畜動物との共通点から理解できる。

豚や馬、牛や犬などの家畜が原種と比較すると脳が小さくなっていることをご存知だろうか?

そう、勘のいいあなたなら気が付いただろう。「そのように」とは、集団生活を行うために脳が小さくなる進化をしてきたということだ。

化石を調査すると、家畜化した動物は必ず脳が小さくなっていることがわかる。
犬と狼では30%ほど脳の容量が違う。

脳の縮小にともない、原種に比べて攻撃性が弱く、穏やかになり、社会性が高くなる。

ジャレド・ダイアモンドによると、家畜とは人間によって食料や交配をコントロールされたことで品種改良の過程を経た動物である。

このため、攻撃性の強い横暴な家畜は、他の家畜に悪影響を与えかねないので間引きされる。

そしてこの間引きは社会的生物であるホモ・サピエンスにもあてはまることだ。死刑や刑務所がいい例である。

興味深いことに、脳の容量が縮小しているというのは人間が自らを家畜化していると言えるわけだ。

つまり、われわれは横暴な個体を間引いて脳を縮小することによって、規律を守るように進化してきた。

この進化はあくまでも集団で生き抜くためであり、個が気持ちよく生きるためではない。

集団を優先すると、当然個の欲望を抑制しなければいけないときが来る。
文化祭の準備をサボらなければもう少しクラスに馴染めてたのかな……。

やりたくないことをやる、もしくは、やりたいことをやらない。
自分が我慢している隣で他人が我慢していない様を見たら、そりゃ嫉妬するし怒るわな。

でももっと寛容になろうぜ。嫉妬で怒るのはなんか無駄に労力かかる気しない?
肩のちからを抜いて文化祭の準備をサボるやつを笑って許してやろうぜ。

象-世界を支える柱-

動物が好きだ。
デートコースとして提案すると毎回断られるが動物園に行くのも好きだ。

なかでも熊が一番好きだ。
英語とロシア語で熊の動画を検索するぐらい好きだ。一度は猟師になろうかと思ったぐらい熊が好きなのだが、今日は象について書く。

たまたま手にとった本がよくわからない象の本だったので、象について書く。

ロベール・ド・ロール著「象の物語」

アジア-大切にされた象-

象と聞いたときに思い浮かべるイメージは、大きくて、力強く、なにかほのぼのとした大きな愛情のようなものだ。

事実、インドの俗信の世界では象はしばし雲と同一視される。

ちなみにサンスクリット語の「ナーガ」は蛇のほかに、象と雲を意味する。

インドの象といえば商業の神ガネーシャも有名だ。
ガネーシャの存在は水野忠著「夢をかなえるゾウ」で知ったひとも多いのではないだろうか。

人生を幸せにする方法を関西弁のインド象が教えるロックな自己啓発書

ラオスやミャンマーでは白い象は比類なく尊いものと神聖視され、人間の中で際立って賢いものは、ひとに生まれ変わる直前に白象の段階を経たと信じられている。

森で発見された白象は人間によって丁重に捕獲され、宮中で金銀宝石に囲まれる一生を過ごす

また、白象はその神聖さから裁きの正当性を体現する生物とされ、死刑囚を踏み潰すためにも用いられた。

以上のように象はアジア諸国の宗教において特別な動物だった。

一方で、同じく象が生息するアフリカは、アジアと比較すると象に対して冷淡であるとロベール・ド・ロールは述べる。

アフリカ-殺す対象としての象-

どういうわけか、アフリカでは象がほかの動物を圧して文学や絵画に現れたり、崇拝や恐れの対象にはならなかった。

アジアでは至るところで象が飼育されたのに対して、アフリカでは象を飼育したのもヌビアやエチオピア周辺だけであり、その習慣もこれらの地域から象が姿を消すとともに廃れた。

象が崇拝や恐れの対象にならなかったとは言え、とるにたらない動物と見なされたわけではない。

事実、アフリカのピグミー族、ファン族の一部では象を人格化している。
神格化ではない…。

身長が低いためにピグミー族と呼ばれる

彼らは、長老や力のあるものが死ぬと象に生まれ変わると信じている。
それもただの象ではなく、群れを率いるリーダー象になる

群れのうち数頭を殺しても祟られないように、生まれ変わった象を敬わなければいけない。

あくまでも象を「殺す対象」として考えられている。

アフリカとアジアにおける象への意識の違いはなにからうまれているのか。
ロベール・ド・ロールの主張は独特である。

トラとライオンの生息地の違いだ。

ライオンの生息分布 青(現在の生息分布) 赤(歴史上の生息分布)

アジアにはライオンよりも獰猛なトラが人間の生活圏内にいた。

1900年代のトラの生息分布 アフリカにはトラがいないことがわかる

この地域の人びとにとって、象は恐ろしいトラを追い払ってくれる存在だった。

サンスクリット語の叙事詩には、象に対する虎の恐怖をテーマにした詩もあるほどだ。

実際にトラ狩りでは象が使役されてひとの手助けをしている。

戦闘用大型哺乳類-象-

トラ狩りに用いられた象はまもなくその怪力を認められて戦争にも駆り出された。

漫画キングダムにも登場する戦象さん

戦に象を駆り出したもっとも有名な例はポエニ戦争におけるハンニバルのアルプス越えだろう。

アジア諸国(ミャンマー、ラオス、タイ、カンボジア、ベトナム、中国)でも戦闘用動物として象の重要性が強調されている。

しかし、機動力の低さ・コストパフォーマンスの悪さ(ラクダの3倍の荷物を運べるが、6倍の食欲をもつ)・的の大きさなどから戦象の限界は早いうちに認識された。

戦象は、キングダムでも言及されていたように、象を見たことがない相手に対して有効な初見殺しではあるが、象がパニックを起こすと象使いはなすすべがなくなり、おとなしく殺されるしかない……。

トラ狩りにも駆り出された象を、犬や馬のように戦闘用に調教できなかったのはなぜか。

これを理解するためには犬と馬が家畜化できたのに対して、象は家畜化されなかったということを押さえる必要がある。

家畜になれなかった象

象が家畜ではないと聞くと、その主張は間違っているように感じるかもしれない。

タイやインドに行けば、ラクダや馬と同じように、象に乗って移動するひとを日常的に見ることできる。
そのうえ、象は器用なので鼻先で筆を持って絵も描ける。

これほど訓練される象が家畜ではないというのは一体どういうことか。

歴史学者ジャレド・ダイアモンドによると「家畜とは、人間の役に立つように食料や交配をコントロールし、選抜的に繁殖させて、野生の原種から作り出した動物」である。

つまり、動物が家畜化されていく過程で、人間による品種改良がされる。

象は、人間によって飼い慣らされた使役動物ではあるが、品種改良はされていない。

使役化までできたのだから、家畜化することで戦闘用としてさらに優れた品種に改良できる可能性は高い。

しかし、実際問題として象のように成長に時間がかかりすぎる動物は家畜化する意味があまりない。

一人前の大きさになるまで15年も待たなければいけない動物を飼育しようと考える牧場主がいるだろうか。
*参考までに、象は1日あたり200㎏の餌を必要とし、100ℓ以上の水を飲む。

小象を育てるより、成長した野生の象を捕まえて飼い慣らしたほうが安上がりであることは自明の理であり、アジアでは実際にそうしている。

思いがけず象について多くを学べたが、象を語るのであれば象牙の密猟問題を避けることは出来ない……のだが、長くなってしまったので別の機会にさせてほしい。

もしも象牙問題に興味がある人がいれば三浦英之著「牙 アフリカゾウの「密猟組織」を追って」を推奨する。

本書では象牙の密猟を促進させているのは日本だというショッキングな事実が語られている。

興味のないもの、関係のないことだと割り切っているその態度こそが、問題を重大化させている場合がある。

日常生活に役に立たない本を読む利点は、こういうことに気付くきっかけを与えてくれることだ。

では、また。

生命を救う金属

武力の象徴としての鉄

鉄、すべての金属のなかで特異的に総量の多い元素であり、地球の重量の30%を占める。
青銅製の武器をことごとく粉砕し、青銅器時代を終わらせた征服の金属。

製鉄技術を持たなかったインカ帝国は、鉄器を装備したスペイン軍の一隊によって滅ぼされた。

武力としての鉄の有用性はドイツ統一の立役者であるビスマルクの鉄血演説のなかでも強調されている。

現在の問題は演説や多数決 ―これが1848年から1849年の大きな過ちであったが― によってではなく、鉄と血によってのみ解決される。

1862年9月30日プロイセン衆議院予算委員会での演説

生涯で2000回以上浣腸をした太陽王ルイ14世が「朕は国家なり」と発言した一方で、ビスマルクは「鉄は国家なり」と考えた。
この時代、鉄は国家の土台だった。

鉄器時代到来以降、刀や槍の原料として用いられた鉄は、近代戦争においてさらに必要性を増していく。

近代戦争では巨大戦艦と大砲が主力となり、その脅威から兵士を守る鉄兜が大量生産され、戦争は鉄と鉄の戦いとなっていった。

鉄の歴史は製鉄炉の歴史

製鉄技術が武力をそのまま表すとすれば、鉄の発展は人類の発展に直結する

金やプラチナとちがって鉄は希少性も低く、ごく一部の地域を除けば世界中どこでも入手することが可能だ。

インカ帝国などの特定の地域で製鉄技術が発展しなかった理由はなんだろうか。

「銃・病原菌・鉄」の著者ジャレド・ダイアモンドによると、食料の過剰生産ができず、技術者を育成する余裕がなかったことが金属加工技術の格差をつくった原因である。

製鉄技術が文明の発展に及ぼした影響を調べようとすると、どうしても製鉄炉の変遷に行きつく。

おかげさまで製鉄炉の仕組みと作り方を学ぶことになったが、どう料理しても面白おかしく伝えることができない……。
というか、どの本読んでも半分以上(ひどいと8割)は製鉄炉についてだった。

製鉄炉は、鉄鉱石を燃やす炉である。なんの意外性もない。

鉄の融点は1536℃なので、製鉄炉の変遷とは炉内の温度をいかに高くして、連続生産を可能な構造にするための工夫である。

炉内を高温に熱して、鉄鉱石から鉄以外の不純物を取り除き、純度の高い鉄を生産する。
ところが、純粋な鉄(純鉄)は軟らかいため、純鉄を作るのは製鉄炉の役割ではない。

製鉄炉の役割はをつくることにある。
鋼とは、炭素含有量が2%以下の鉄を示す。

鋼のなかでも炭素の含有量によって名称が異なり……いや、製鉄炉の話はこのあたりで終わりにしよう。
興味を持ってもらえるよう伝える技術が足りない。
そのうち友人を巻き込んで製鉄炉を自作してみるのでそのときにまたブログに詳細を書こうと思う。

とにかく、製鉄炉で鉄を溶かすのは鉄鉱石から不純物を取り除くためだということだけ知ってもらえればよい。

「悪金」と呼ばれた鉄

純粋な鉄を溶かすために必要な温度は1500℃以上。
製鉄炉内で、鉄鉱石が1500℃まで温まるまでに(ここまでくると温まるというには違和感があるが)、鉄鉱石に含まれた不純物は融点の違いから鉄より先に溶けるか気体になる。

製鉄過程において鉄の最大の不純物は酸素だ。
鉄の原料である鉄鉱石はいわば酸化鉄である。

酸素が金属に結び付く酸化現象を、我々は「錆びる」という。

塗料の下からのぞく錆

錆びた鉄を見たことがないというひとは珍しいのではないか。
小学校の校庭で遊具を使用したことがあれば必ずといってもいいほど、酸化した鉄製の遊具と接する。

そして、われわれは錆びた遊具を見るなどして、普段の生活のなかで鉄は錆びやすい金属であるということを学ぶ。

鉄から酸素を取り除く技術が発達していない時代、鉄はすぐに脆くなるため中国では「悪金」と呼ばれて、青銅(美金)と区別されていた。

ちなみに酸化鉄から酸素を取り除くために必要な温度が400~800℃であり、青銅(銅と錫の合金)の融点は700℃程である。
どちらの金属がより簡単に扱えるかは明らかだ。

事実、青銅器は現代でもきれいな形で遺っているが、鉄器は遺っていても酸化してぼろぼろになっている。

比較的きれいな状態で保管されていてもぼろぼろな鉄器

いや、ちょっと待て。インドに1500年以上前につくられた錆びない鉄塔があると聞いたことがある。
あれはたしか、不純物の無い純粋な鉄でできているから錆びないのではなかったか。

チャンドラバルマンの鉄塔

この鉄塔の成分を調べたところ99.72%が鉄で出来ていることがわかっている。
残念ながらこの程度の純鉄であれば簡単に作れるし、50年ほど雨ざらせば錆びてしまう。
純鉄だから錆びないというのは迷信だ。

インドの鉄塔が1500年以上錆びない理由は表面がリン酸化合物でコーティングされているからだとか諸説あるが真実はわかっていない。

物質は与えられた条件下でもっとも安定した形をとろうとする。
つまり、鉄は酸化することで安定するのであり、このため銅や銀のように自然銅・自然銀と呼ばれるような自然鉄というものは存在しない。

人体のなかの鉄

突然だが、あなたは何分くらい水中に潜れるだろうか?
5分?素晴らしい記録だ。

ギネス記録を見るとどうだろう。驚くことなかれ、なんと24分3秒だ!
*Youtubeで動画をみることができる24分間ずっと潜っているだけで起承転結をぶん投げたクレイジーな動画だ。

なぜわれわれは水中に長時間潜ることができないか。酸素がないからだ。

地上にいる時、われわれは口と鼻をつかって酸素を取り込む。取り込んだ酸素は肺から全身に運搬される。

このとき、酸素の運搬を助けるのが鉄だ。

血中にはヘモグロビンという鉄分子を含んだタンパク質が存在する。
ヘモグロビンは、酸素と結びつきやすいという鉄の性質を活かし、肺で酸素と結合し全身に酸素を運搬する。

ヘモグロビンの量が少ないと、全身に供給される酸素量も減少するのでめまいや立ちくらみを起こしやすくなる。
この症状を貧血という

鉄がいかに人体に必要不可欠なものか理解してもらえただろうか。

悪金と呼ばれた鉄は、その悪名の云われとなった性質を利用して人体で大活躍している。

酸化しやすいという短所を克服する技術としての製鉄、短所を利用したヘモグロビン。
役に立てない環境はあっても、役に立たないものはないのだ。

では、また…と締めくくりたいところだが、せっかくなのでヘモグロビンの特性と、とんでも医療についても少しだけ触れたい。

鉄は錆びると赤くなる。(錆び方には2種類あるが、ここでは赤錆についてのみ書く)

酸素と結びついたヘモグロビンは赤くなるため、動脈の血(全身に酸素を運搬中)は赤く、静脈の血(運搬が終わったので肺に帰宅中)は黒い。

ちまたでは静脈から抜いた血液にオゾン(酸素)を注入して赤くした血をまた体内に戻す血液クレンジングとかいう世にも奇妙な医療が一瞬だけ話題になっていたが、上記の仕組みを理解していればこの医療に金を払うのがいかに馬鹿げているかわかる。

普通に呼吸していれば血液クレンジングだ。
とは言え、目の前で自分のどす黒い血が鮮やかな赤に変わっていく様子を見れば非常に良い医療のように感じてしまうのもわからなくはない。

では、また。

石ころに付加価値をつけたコロナ

世にも危険な医療の世界史

コロナの影響で世界中が大騒ぎをしている。

信じられないことだが、たったひとつのデマを発端にスーパーからトイレットペーパーが姿を消し、水に流せるティッシュが代わりに棚に並ぶ様には目も当てられない。

しかしなによりも驚いたのは花崗岩がコロナ対策になるとしてメルカリで出品され、SOLD OUTしたことだ!

どんな経緯で花崗岩がコロナ対策に有効だと信じるひとが続出したのだろう。

簡単に調べたところ、免疫効果を高めるためにはテロメア長を延ばすのが効果的であり、テロメア長を延ばすためには花崗岩内部にあるラドンなどの成分が利く、という意味の分からないトンデモ科学がデマの発信元らしい……。

しかし、少なからずのひとがこのデマを信じて花崗岩を購入しているから、メルカリにただの石が出品されて、しかも売り切れたわけだ。
背景にはふたつの要素がある。

ひとつは、長生きしたいという強い欲求。

もうひとつは、一見すると納得できそうな理屈であること。

花崗岩がテロメア長を延ばすというウソが本当だった場合、 ”免疫をつけるために花崗岩を持つ” ことは理屈は通っているからだ。

そして、生きることへの執着で曇った目は、それっぽく見える屁理屈に簡単に騙される。
このようにして、人類は現代までに何度もとんでもない医療を繰り返してきた。

始皇帝からリンカーンまで服用した秘薬

漫画キングダムでさらに知名度を高めた始皇帝が不老不死の秘薬として水銀を服用していたことは広く知られている。

結果的に彼は50歳手前で水銀中毒で命を落とすのだが、史記によると彼の陵墓には水銀の川が何本も流れていると書かれていた。

事実、始皇帝の陵墓は水銀濃度が高く、墓を開けると有害な毒素が放出されるおそれがあるため今でも発掘作業は終わっていない

始皇帝の陵墓

数ある金属のなかで唯一常温でも液体として存在するため、神秘的なイメージが水銀にはある。

水銀の英名であるマーキュリーはローマ神話の神が由来となっているし、
インド錬金術で、水銀はシヴァ神の精子からできているとされている。

この金属に不思議なちからが宿っていると言われてしまえば、紀元前の時代を生きた始皇帝でなくとも納得してしまう。

水銀

しかし、神秘的なこの金属は、後に薬どころか恐ろしい毒物だということが判明した。
例えば日本で広く知られている水俣病も水銀中毒が原因である。

水俣病が公式に公害問題となったのが1950年代であることから、水銀の有毒性が認知されたのはつい最近だということがわかる。

第16代アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーン(1809~1865)も水銀を薬として服用していた。
幸いなことにホワイトハウスにはいってからは服用量を減らしていたらしいが……。

黄金の毒

水銀がつい最近まで薬だとして信じられていたように、ひとびとは金もまた薬として利用できると信じていた

金は非常に安定した金属であり、酸化もしにくく経年劣化に強い。
いつまで経っても姿かたちの変わらない黄金色に輝く金属に、ひとびとは不老不死との関連性を見出した

ところが、安定性の高さゆえに注目された金は、安定性の高さゆえに人体に吸収されないし、溶かしても常温では凝固してしまうため飲み薬として使用できない。

*水銀が薬として長く愛用されたのは見た目の神秘性以外にも、常温で液体という人間にとって摂取しやすい特徴があったためではないだろうか?

中世の錬金術師はこぞって「飲める金」を作ろうと試行錯誤を繰り返した。
1300年頃、ゲベルという錬金術師がついに金を溶かす溶媒として ”王水” を作ることに成功する。

王水に溶ける金

王水によって溶かした金を加工すると、塩化金が生成される。
塩化金は水に溶かして飲むことができる。
こうして、人類はついに「飲める金」を手に入れた。

おそらくあなたは予想していると思うが、「飲める金」は薬としては機能しない
それどころか、塩化金はおそろしく腐食性が強く、腎不全や頻尿を誘発する毒だった……。

当時どれだけの人間が塩化金によって被害を受けたのか定かではないが、幸いにも金は貴重なため水銀ほど人間に被害は与えなかったと推測できる。

2000回以上肛門をさらした太陽の王

結果的に猛毒だったとは言え、ポジティブなイメージのある水銀や金を体内に取り入れることによって、体の調子を良くすると信じられていた。

この考え方自体はまったく間違っていない。


たとえば、20種類あると言われる必須アミノ酸のうち、人間が体内で生成できるアミノ酸は9種類しかない。
だから、食物やサプリメントを摂取することで体内で生成できないアミノ酸を取り入れる。

一方で、不調をもたらす要因が体内にある場合、体内から排出することで体の調子を整えるという考え方もある。

腫瘍を取り除く外科手術はその最たる例であり、もっと身近なところでいえば鼻水や糞尿も同じことだ。

かつて人間の体液は血液を中心とした4種類の体液から構成されている ”四体液説” という考え方があった。

4つの体液のバランスが崩れると病気になると信じられ、バランスを整えるために瀉血という血液を抜く治療が流行する時代もあったのだというから恐ろしい。
*モーツアルトは死の直前に2リットルもの血液を瀉血によって抜かれている。おそらく死因は……。

便秘になると、腸にたまった糞が毒素を排出し、体が汚されるという考え方(自家中毒)もある。

糞便が体内で腐敗を起こすという考え方はわからなくもない。
このため、中世ヨーロッパでは浣腸が爆発的な流行となり、太陽王ルイ14世は生涯で2000回以上浣腸をしたという記録がある。(2000回‼)

フランス史上最も長い在位期間を誇る偉大な王 ルイ14世
心なしかおしりをこちらに向けているようにも見える

間違った情報で構成された正しい理屈

これまでに見てきたとんでもない医療の数々を、過去の人間の無知さゆえだと馬鹿にすることは誰でもできる。

しかし、注目して欲しいのはどうしてこのようなとんでもない医療がまかり通ってしまったのか、ということだ。

水銀は、常温で液体の金属という特異性から神秘のちからを持っているように思えるし、安定性の高い金を摂取することで自身も同じように安定した肉体を手に入れることができるという考え方は理屈だけは通っている。

西遊記の妖怪たちは徳の高い三蔵法師の肉を食べることで不老不死となれることを信じていた。
ファンタジーの世界などで真偽はともかくとして、妖怪たちの理屈もまた筋が通っていると思わないだろうか?

瀉血や浣腸も、体内から有害な毒素を体外へ排出するという理屈は合っている

理屈が合っているのであれば、正しい知識がない時代の常識から考えると、目を覆いたくなるこれらの危険な医療が流行した理由がわかる

花崗岩や水素水、EM菌なども同じだ。
情報が間違っているだけで理屈は通っているから多くのひとが騙されてしまう。

本書では、医療における数々の黒歴史がこれでもかとまとめられているが、われわれは今後も黒歴史を積み上げていくのだろう……

では、また。