俺は、多分ものすごく傲慢な人間なんだと思う。
散々他人に自分のことを知って欲しいと思って20代前半で一方的に広長舌をふるまったくせに、20代後半にはいって今度は他人に広長舌を強要している。
他人のことが知りたい。あなたのことが知りたい。
旧知の友人と親交を深めたいし、新しい友人も欲しい。
俺は、いや多分俺だけじゃないけど、他人を既知のカテゴリに振り分けて勝手に理解した気になっていた。
これまで出会ったひとの特徴を抽象化して、こういうふるまいをするひとはAタイプ。ああいうふるまいをするひとはBタイプ、といった具合に。
でも、それって結局は相手のことを知る努力を怠っているだけなんじゃないだろうか?
俺たちはいつも目の前の相手を見ているようで、抽象化した過去の誰かを見ているような気がする。
過去の誰かを見ることの厄介な点は、過去から今における成長を考慮しないことだ。
小学校の同級生だったガキ大将が、20年近く経った今でも同じ性格をしているはずがないのに、みんなが彼にガキ大将の面影を幻視する。
俺は、ガキ大将じゃなくなった今の彼のことを知りたい。
よく知っていると思い込んでいる地元の仲間が今考えていることを知りたい。
毎年恒例の年末年始の地元の集まりを、「時間の無駄だと」切り捨てるのはもうやめたい。
青春を分かち合った仲間との破綻
自慢をさせてほしい。俺は片田舎の無名のサッカー部に所属していたのだが、俺の代の弱小サッカー部が県大会を制覇したことがある。
俺の代の部員数は12人で、ひとつ下の代を含めて20人ほどしかいなかった。
実のところ、サッカーは数あるスポーツのなかでも競技人口が世界で2番目に多い。
俺が学生だった当時の県大会に参加していた学校が400校近くあり、簡単な計算をすれば400×11(プレイヤー数)、さらに学校は3学年あるのでここに×3をすると13200人以上がしのぎを削っていた計算になる。
俺たちは、13200人の頂点に立つ11人だった。
さらに付け加えると、県大会には私立の無茶苦茶強いサッカー部があって、こいつらは県大会を7連覇だか、8連覇の最中だった。
このエリート連中を下して県大会を制覇したのが片田舎の公立サッカー部だった俺たちだ。
ドラマのような青春だった。最高の仲間たちが揃って、一丸となってひとつの夢を叶えようと努力した。
かつての仲間たちは、今でも最高の仲間たちだ……とはならなかった。
つい最近LINEのトーク履歴を遡ったとき、この1年間で個人的に連絡をとったサッカー部員がひとりしかいなかったことに愕然とした。
後輩をふくめると2人になるのだが、そいつは俺の実の弟なのでさすがカウントできない……。
3年間ともに汗を流し、最終的に10000人以上の頂点に立った11人の仲間が、仲間じゃなくなっていた。
絶望した。涙も出なかった。取り返しのつかないことをしでかしてしまったと思った。
……でも、これは俺だけの話ではないと思う。
学生の頃はめちゃくちゃ仲良くて、部活や学際なんかで心をひとつにした仲間、当時はこいつらがいれば無敵だとすら思ったその友人たちは今でも同じ距離にいますか?
社会人になってから、かつての最高の仲間たちと何回会いましたか?
彼らは今でも最高の仲間ですか?
ひとは友人を失い続ける
2016年にイギリスの心理学会が1万5千人からとったアンケートをもとに発表した研究によると、親しい友達を持ち、社会的に親密なつながりがある人ほど幸福度が高いだけでなく、より健康的であるということがわかっている。
友人というのは精神面だけでなく身体面でも非常に大切な存在であることがこの研究からわかる。
ところが、内閣府の調査やいくつかの研究データを調べたところ、どの研究データも学生時代に比べて社会人は友達が減るということを示している。
ニューヨーク大学のアイリーン・レバイン教授は、われわれが友人を失い続ける理由について、「人はそれぞれの方向で成長していく。成長に従って、他人との共通点が少なることが原因だ」と説明している。
正しいと思う。
会社に所属し、同僚を友人と呼ぶのは幼稚な考えだが、突き詰めていく先で友情のようなものが生まれるのは事実だ。
だが、それとかつて親しくしていた友人が減っていくことを許容するのは別だ!
俺は、仲間が仲間でなくなることを「仕方がない」と諦めたくはない。
年に一度の集まりで、1年前と同じ内容の話をするつもりは毛頭ないが、彼らとの交友を積極的に切り捨てるのは嫌だ。
いや、確かに、一時期は切り捨てようとしていたのも事実だ。
だが、それは壊れたレコードテープのように、同じ話をすることが時間の無駄だと判断しただけで、彼らと築き上げた関係を切り捨てたつもりはまったくない。
学生時代に築いた友情がどれ程貴重なのかを示す研究がある。
この研究によると、他人に対して親密度を高めるには50時間以上の時間を共有する必要があり、親友となるためにはさらに150時間以上の時間が必要だということが判明している。
言うまでもなく、日々仕事に追われる多忙なわれわれが新しい知り合いと150時間を共有することは難しい。
つまり、学生時代に意図せずして築き上げた関係は非常に貴重だと言いたい。
友人を失わないために
日本人に「あなたの仲の良い友人はなんにんいますか?}と問えば、平均的に8人だという答えが返ってくる。
この場合の「仲の良い友人」の定義はひとそれぞれだが、8人というのは少ない気がする。
生物学的な観点から言うと、霊長類は最大で150人までの団体であれば全体がコミュニケーションをとってうまく生活することができる。
有名なダンパー数というやつだ。
つまり、新しい友人を作るために旧知の仲をわざわざ切らなくても、むしろ旧知の友人も含めて、実感よりもはるかに多い数の人間とコミュニケーションをとり続けることができる。
だから俺は友人の輪を強化したい。
関係の持続ではない、強化である。
ウォルト・ディズニーの格言の通り、現状維持は退歩と同義だ。環境が刻一刻と変化していくなかで、これまでと変わらない関係を続けていくことは難しい。
積極的に友好関係を強化することによって、関係の強化が必要だと断言する。
そのために必要なのは、能動的な自己開示だと思う。
自分がどういう人間で、日々なにを思っているのかを開けっ広げに伝えることで、返報性の法則に従って相手も自己開示をしてくれるようになる。
いつもと同じ居酒屋で、いつもと同じ話をすることは楽しいけど、関係を強化するには足りない。
実を言えば、俺はサッカー部のメンバーの好きな食べ物や趣味についてひとつも知らない。
当然、彼らがどんな考えで今キャリアを積んでいるかも知らない。
俺が質問しなかったし、彼らも俺の前でそういうことを話す機会がなかったからだと思っている。
でも、彼らの内面をもっと深く知ろうとしていれば、LINEのトーク履歴は今と違っていたはずだ。
各々の内面をより深く知る事によって、その人間のもつ信念や哲学を面白いと思えたら、そういう人とは長く友人関係を続けたくなる。
だから俺はひとに自らの信念や哲学を語ってほしいし、そういう場を作りたい。
今、仲間内でオンラインプレゼン大会や読書会、ビブリオバトルなどを実践している。
興味があるひとには遠慮なく連絡をして欲しいし、旧知の仲でないひととも繋がりたい。
エリック・G・ウィルソンは世界と豊かに繋がりたい欲求のことを憂鬱状態であると定義した。
彼の見解に従えば、俺はきっと憂鬱なのだろう。
願わくば、同じく憂鬱なあなたの話を聞かせてほしい。